お話を読むライブラリーへ戻る トップページへ戻る

血縁を超えて

石川 和夫牧師

そして、弟子たちの方を指して言われた。

「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。

(マタイによる福音書12章49節)

 今日は平和聖日です。昨日、広島の原爆60周年記念式典が行われました。イエス様の言葉、「平和を作り出すものは幸いである」に従って、与えられたテキストを通して、平和を作り出すものとして、どのようにあるべきかを一緒に考えたいと思います。

イエスがなお群集に話しておられるとき、

その母と兄弟たちが、話したいことがあって外に立っていた。

そこで、ある人がイエスに、

「御覧なさい、母上とご兄弟たちが、お話ししたいと外に立っておられます」と言った。

(マタイによる福音書12章46節〜47節)

 イエス様が、人と話しておられるときに、家族が来て、一応遠慮して控えていたら、気を利かす人がいて、「イエス様あなたのお母さんが話したいといって立っておられますよ」と取次ぎをしました。するとイエス様は、

しかし、イエスはその人にお答えになった。

「私の母とはだれか。私の兄弟とはだれか。」

(マタイによる福音書12章48節)

と言いました。話の流れから見ると、とても冷たい態度をとられたように見えます。血縁だけで、つながろうとすることに対して、「待て」と言われたように思われます。

 マタイによる福音書では

そして、弟子たちの方を指して言われた。

「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。

(マタイによる福音書12章49節)

 マルコによる福音書では

周りに座っている人々を見回して言われた。

「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。

(マルコによる福音書3章34節)

と表現が異なっています。

 マタイは“弟子たちの方を指して言われた。” マルコは“周りに座っている人々を見回して言われた。”となっています。

 マタイは、イエス様に従った人が、イエスの兄弟であり、家族なのだと主張しています。これに対し、マルコは、ここにいるすべての人々が兄弟であり家族なのだと主張しています。微妙に異なっています。しかし、わたしは、究極的には、両方共、つながっていると思っています。

だれでも、わたしの天の父の御心を行う人が、

わたしの兄弟、姉妹、また母である。」

(マタイによる福音書12章50節)

 父の御心を行う。それは、広い意味で、平和を作り出すということにつながると思います。また、どのような人をも受け入れて、愛していく「愛」につながると思います。常に上を見て、神様に従おうとして歩むもの、つまり、イエス様と一緒に歩もうとしているものを、イエス様はわたしの兄弟、姉妹、また母、つまり家族である、と言われています。

「わたしの」に注目!

 今日は、イエスさまが、「わたしの」と言われた言葉に、注目したいと思います。

 もう引退された鈴木和男牧師が、聖書の注解書に、ここのところを次のように注解しています。

 とくに、「わたしの――」という所有格が重大である。教会の存在のいっさいは、この、「わたしの――」と言われるイエスにかかっている。「ここに、わたしの母、わたしの兄弟がいる」といい、「これが、わたしの兄弟、また姉妹、また母」と言われたイエスのこの一語は、「外に立つ者ら」(これは46節にある、同じ輪の中にいない、外に立っていたものたち、わたしは別だよ、とみんなから離れて立っていた人たちのことです。)には地獄の声・深淵の声とひびき(なんと冷たいことを言うのだと聞こえ)、「内にいる者ら」には、自分たちがイエスのものであり、イエスはわれらのものであるとの歓喜の声にひびいたことであろう。孤独の戦いを覚悟した弟子たちにどんな励ましになったことであろう。(「説教者のための聖書注解、マタイによる福音書」、日本基督教団出版局、1981年10月1日、初版、1985年8月30日、3刷、284頁)

 わたしたちは、イエス様から、「わたしの兄弟」と言っていただいている関係にあります。少しでも御心に従おうと務めているとき、それがうまくいこうと、いくまいと、イエス様がそばに居られ、「わたしの兄弟、姉妹」と言ってくださっています。

「戦友」としての家族

 48歳の働き盛りのご主人を脳腫瘍で亡くされた平野美津子さんが、その体験を綴られた「たくさんの愛をありがとう」という本を出され、内容を何度か、紹介しました。その書き出しのところに、このように書いておられます。

 夫・達郎が悪性の脳腫瘍で突然倒れた時から、私たちの家族関係は変わったのではないでしょうか。「戦友」という言葉はちょっと大げさかもしれませんが、子どもたちとは、楽しさ、うれしさ、暖かさばかりでなく、悲しさや辛さや悔しさすべてを分かち合う仲間になりました。(平野美津子「たくさんの愛をありがとう」、日本基督教団出版局、2003年5月20日、初版、7頁)

 お嬢さんが、お父さんの5年の闘病期間に、うちの家族少し変わってきたよね、何か一緒にやろうという気持ちが強くなった、そして優しくなったよね、と別の箇所で言っておられます。

 お父さんを天に送るという悲しい出来事なのですけれども、にもかかわらず、病気の最中でも、笑いの絶えない家族だったそうです。そして、みんなで一つのものを見ているときに、そうだ、そうだと支え合いながら、お父さんが天に帰ったとしても、この笑いは、失わないようにしようね、とみんなで話し合ったそうです。いわゆる「戦友」です。一つのことに向かって、助け合う仲間、それが、家族の絆を作っているのです。ですから、そのような意味では、ある不幸なことがおこるということは、確かに、辛いことですけれども、それはまた、家族が本当の家族、戦友になるチャンスであるかもしれません。互いに思いながら、平野さんの家族はみんな、それぞれに自分を主張していました。そして、したいようにしていたのですが、どこかでつながっていました。同じ方向に向かって心を合わせたときに、互いに、思いやるということが、見えるようになりました。

血縁が家族の絆とはならない

 兄弟姉妹、あるいは家族というとき、血縁だけが、家族なのだと考えると、とたんに、関係が冷えてしまいます。家族なのに……という甘えが生まれて、一人ひとりが見えなくなってしまいます。家族であるという前に、一人の人間であるということを知って、そのことを受け止めると、もう少し理解が進むのではないでしょうか。逆に、また、家族でなくても、血縁ではなくてもイエス様と一緒に、その人と一緒に立とうとするときに、イエス様が、わたしの兄弟、わたしの姉妹と言ってくださいます。

 わたしたちが今日、こうして一緒に、平和に、礼拝にあずかることが出来るということ、これは、まさに、神様が下さっている平和です。平和という言葉を、ヘブル語で、シャロームといいます。本来の意味は完全無欠なこと、申し分なく、健康で、安寧で、幸福な状態にあるということです。何かが足りないということのままでは、平和ではありません。単に、戦争がないことだけを平和と言っているのではなくて、神様の前の平和が必要です。神様は、わたしたちに、その平和を与えようとしています。そのことを感謝して受けとめる姿勢を持たなかったら、本当の意味で、平和は来ないのではないでしょうか。

 イエス様は平和を作り出す人たちは、幸いであるとおっしゃいました。その方向に向かって、少しでも努めようとするものは、わたしの兄弟だよと言ってくださっています。そのことに、希望をおきながら、楽観の許されない、今の世界情勢に志を同じくする人たちと手をつなぎながら、なんとか、世界が本当の平和になるように、祈り続けたいと思います。

 お祈りしましょう。

 聖なる御神様。わたしたちも、今日、この日、平和聖日の礼拝をしておりますが、主イエス様が、父の御心を行うものがわたしの家族だとおっしゃいました。へりくだりながらあなたの御心をなすために、また、あなたに従うために、謙虚になりつつ、また、すべての人を一人の人間として、しっかり受け止め、受け入れていくことが出来ますように、お助けください。この週も、わたしたちを平和の器として用いてください。

 主イエスキリストの御名によって祈ります。

 アーメン

(2005年8月7日 聖霊降臨節13主日 礼拝説教)