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それでいいのか

石川 和夫牧師

「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。

しかし、私は言っておく。

みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、

既に心の中でその女を犯したのである。」

(マタイによる福音書5:27、28)

 今日の福音書をご覧いただきますと、律法について、イエス様の大変厳しい言葉が並んでいます。律法というのは、ユダヤ教の律法です。文字通りに訳せば、「法律」なのです。しかし、この言葉を「法律」と訳してしまうと、一般社会で使用する法律と混同してしまいますから、「律法」という言葉に置き換えています。

 「律法」とは、当時のユダヤ人の信仰と生活に関する「決まり」、「法律」です。その決まりを大事にして守っている人は、本当のヤダヤ人、それを無視する人は、駄目な人、罪人という見方になるわけです。

 今日の福音書のイエス様の言葉の中には、同じパターン(言い回し)があります。

 “昔の人はこうだというように言われた。しかし、わたしは言っておく”という形です。その対象は、自分は、今まで、律法に、宗教的規則に忠実に従っていると、自覚している人に向けて言われています。

 法律では、法律を犯したかどうかは、実行したかどうかによって決まります。心に思っただけでは法律違反になりません。イエス様は、みだらな思いで、他人の妻を見るものは、すでに、心の中でその女を犯したことになるのだと言われました。これは、厳しい、というより少々無茶だという気がします。

 でも、ここには、イエス様独特の逆説的な強調があります。健全な、普通の男女は、それぞれに異性に惹かれます。そのように、心が動くのは、ごく自然なことです。そのように、神様によって造られているのですから、その、心の動きまで、「そのように思っただけで、有罪ですよ」と言われるのは、神さまに逆らっているのではないでしょうか?これは、どのようなことなのか、考えて見ましょう。

善を行う者はいない

 目に見えるところで間違いを犯していなければ、それでよいと思い、法律を守っていない人を見下す信者の姿を見て、イエス様が、憤りを感じておられるのではないでしょうか。「自分は無罪だ」と思うな、とイエス様が言っておられると思います。

 イエス様は、何を行っているかというよりも、どのような心でいるか、ということを問題としています。「神様は、そこをご覧になっているのだ」

と言っておられます。「そのような心の動きの中で、有罪でないものはいないはずだ」というわけです。

 今日の交読詩篇14編の3節は、パウロが、ローマの信徒への手紙3章10〜12節で引用しているものです。「善を行うものはいない」つまり、そのような点で、有罪でないものは一人もいないはずだと言うのです。自分たちは良い信者、真面目な信者と、思い込むなということです。

 結論は、良い信者になろうとするな、良い母親となろうとするな、良い妻になろうとするな、良い夫になろうとするな、人間の持っている本姓のままに良い何々になろうとするなということです。

 人間だけが持っている、善悪の知識というのは、良いほうを、自然に、自分で選ぼうとします。そうすると、行っていることを悪いと言われたら、すぐ、自分は良い事をしているのだと、相手に反発します。

 イエス様が、わたしに代わって死んでくださったので、わたしの罪は許されたという贖罪信仰だけ、そのような信仰だけでいますと、それに慣れてしまい、自分にも罪はあるのだが、自分のことは許そうとします。つまり、自分の罪意識が見えにくくなります。全部、イエス様が負ってくださっているから、わたしは何をしても大丈夫と思うようになります。そのようになりますと、また、イエス様が

 「お前たちは災いだ」

とおっしゃいます。イエス様は、

 「あなたは、心の動きを問題にしておられる方の前に立っているのだよ、自分の本当の姿に気づきなさい、あるいは、それを受け入れなさい」

と、言っておられるのではないかと思います。

 六十億に一つの奇跡

 最近、横浜におられる青木和雄さん。吉冨多美さんという、教育カウンセラーの方たちが書いたベストセラー「ハッピーバースデイ」という本を買いました。

 親子関係、友人関係についは、誰でも、何か間違いを犯します。ここでは、小学校六年生のあすかという女の子が、中心となります。この子は、お兄さんの直人くんと二人兄妹です。お母さんとお父さんは共働きです。お母さんは、あすかがあまり好きではありません。強情な子だからとあすかのことをあまり面倒見ません。お兄さんだけをかわいがる、明らかな偏愛タイプのお母さんです。直人くんだけが気に入って、この子に全ての望みを託そうとしています。

 一年前のこと、お母さんはあすかの誕生日をぜんぜん意識していませんでした。直人くんがあすかの誕生日だよと教えるのですが、「いいの、あの子は」と全然相手にしませんでした。読者は、お母さんは、ずいぶんひどい人だと思わされます。家族みんながあすかのことでなんとはなしに、ぎくしゃくしていました。

 そのような関係の中から、一番早く抜け出すのは、直人くんです。あすかがお母さんに無視され続け、彼女がそれをこらえて苦しんでいるのを見かねて、直人くんが宇都宮に住んでいるおじいちゃんにあすかをしばらく面倒みてよと電話しました。おじいちゃんと、おばあちゃんは快く引き受けました。あすかは、お母さんに振り返ってもらえないで、誕生日も無視されたことを悩み、とうとう声が出なくなっていました。

 おじいちゃんと、おばあちゃんに引き取られたあすかは、平和な毎日の中で、徐々に自分を取り戻していきました。この本を読み進めていきますと、あすかに辛く当たるお母さんも子どもの頃、おじいちゃんと、おばあちゃんから疎外されたという経験を持っていたことが分かります。その恨みがあすかに向かっていたのです。お母さんは、そのことに気づいていませんが、読者には、分かるようになっています。

 子ども時代、お母さんのお姉さんが、病身だったのです。両親はそのお姉さんにかかりっきりで、彼女が親に甘えたいときに、お姉さんのほうが大事だ、という態度が帰ってきて、お母さんは、自分を主張するのをやめてしまったのです。丸く収めるためには、自分は我慢する、抑えていかなければならない、だから、自分を抑える癖が小さいときから出来たのです。ご主人に従っていくのが大事と思っていますから、どんなに怒られても、ご主人の言うことは、何でも聞きます。そして、直人くんの言うこともよく聞きますが、あすかは嫌いです。

 おじいちゃんと、おばあちゃんに引き取られたあすかが、元気になって、家に帰ってきます。あすかは、自分が心に思ったことで本当に人に知ってもらいたいことは、口に出して、いいのだと分かるようになっていました。直人くんはあすかの誕生日をおじいちゃんと、おばあちゃんも一緒に祝ってあげようよとおじいちゃんに提案します。おじいちゃんは、もちろん同意します。おじいちゃんたちもあすかのお母さんを子ども時代に無視したことに罪意識を抱くようになっていました。

 直人くんは準備を始めました。担任の先生を辞めて、今ではレストランを経営している元先生のレストランで、誕生日パーティーを開くことにしました。海外出張予定のお父さんに合わせて、日を決めました。ところが、その準備の最中、急に、おじいちゃんが亡くなってしまいました。直人くんは、おじいちゃんから預かった遺書を海外出張直前のお父さんに渡しました。お父さんは飛行機の中でそれを読みました。遺書には、このように書いてありました。

 「あすかは、生まれてこなかったら良かったと、直人に言ったそうです。これは重い言葉です。わずか十一年の人生で、心の死を思わせたのは、わたしを含め周りにいた大人の不甲斐無さです。妹を傷つけてしまったと、直人も一生後悔し続けるでしょう。それを思えば直人にもまた、いらぬ罪を背負わせてしまったのです。それらは全て祖父であるわたしの罪であり。責任です。静代へ(お母さん)の愛情の注ぎ方が足らなかったことが悔やまれてなりません。

 私たちの最愛の子どもたちは、幸いにも人に恵まれたようです。祐治くん(あすかと直人くんのお父さん)や静代の分まで愛情を注いでくださる方々が、二人を育んでくださっています。有り難いことです。健気にも一人で道を探し、歩いていこうとしている直人とあすかを褒めてやってください。六十億に一つの奇跡で結ばれた父と子の絆を、どうぞ大切にしてください。」(青木和雄、吉富多美「ハッピーバースデイ」、金の星社、2005年4月初版、2005年5月第5刷、239頁)

 親子と夫婦の絆、六十億に一つの奇跡です、という遺書を読んだお父さんは思わず涙してしまいます。こうして、誕生パーテーが開かれ、みんなが盛り上がり、互いが許しあいます。

 この物語は必ず、テレビ・ドラマか映画になると思います。わたしたちは、互いに、自分のしていることに気づかないでいることが多いのです。気がついても、認めたくないということもあります。イエス様は、そのことも認めています。「いいのだよ、そのままで、わたしがあなたの味方だよ」と言ってくださいます。そこから、「それ、お前の大事な役割があるぞ」と遣わしてくださいます。

 いい信者になろうとか、いい何々になろうとかすると、見失ってしまうものがあります。自分は悪いのに、これだけ恵まれているのだな、と思えば得します。素直になって、自分は、悪いやつだと徹したほうが、良いような気がします。「ありがたいな、嬉しいな」という思いで生きることによって、それが人にも伝わります。

 「それでいいのか」と言いながら、イエス様は、十字架にお架かりになりました。そして、わたしたちに、優しい目を向けてくださっています。

 祈りましょう。

 聖なる御神様、今日も、わたしたちを礼拝にお招きくださってありがとうございました。わたしたちが忘れたときも、共にいてくださって、わたしたちの心を動かしてくださり、守り、導いてくださっています。これからも、わたしたちが、あなたの御前に、素直になることを通して、人々に、あなたからの祝福が伝えられますように。互いに、与えられている六十億に一つの奇跡を大切にすることが出来ますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。

 アーメン。

(2005年6月12日 聖霊降臨節 第5主日 第二礼拝説教)