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もう、大丈夫!

石川 和夫牧師

彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、

絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。

(ルカによる福音書24章52,53節)

今日の主題は、「キリストの昇天」です。昇天記念日は、ルカによる福音書の記述をもとに、2005年度教会の暦では、5月5日(木)に該当します。本日読まれた昇天の出来事の10日後に約束の聖霊がくだりました。そうして、教会が誕生しました。

「キリストの昇天」には、どのような意味があるかを考えて、わたしは「もう、大丈夫!」という題をつけました。

 聖書学者の三好迪(みち)先生が、新共同訳新約聖書注解の中で、「昇天」と言う言葉をこのように説明しています。

 「昇天」とは、キリストが見えざる神の領域に入り、見えざる神的な力に満ちたという復活体の側面を表現する用語だが、ルカは神の救いの歴史――時空に規定されたもの――を伝えるという立場から、時空に位置づけられた別れと言う意味を「昇天」の中心にする。

 弟子たちに対する別れが、昇天という出来事によって表現されているというわけです。さらに、三好先生は、

 キリストの可視的昇天という形の資料伝承はルカ以前には存在しない。

と言っておられます。

 つまり、ルカから始まったルカ文書には、ルカ福音書の続編である使徒言行録にも、この、昇天の記事があるのですが、「昇天」の出来事を記した記事は、ルカ伝書にしかありません。ほかの文書では、キリストが天に上げられたということ、それを「高挙」というのです。ルカは特に、三好先生の注解にありましたように、時間、空間の出来事、歴史に重点を置いています。ですから、キリスト以前の歴史を「イスラエルの時(旧約)の時」、「キリストの時」、そして、キリストの昇天の後は、「教会(新しいイスラエル)の時」、と三つ時代に分けています。

「もう、だいじょうぶ」、だから、天に昇られた

 キリストの時代の終わり、それは、弟子たちとの別れでもあるわけです。その別れに際して、もう、すでに、なすべき救いの業は、完成されているから、大丈夫だよという印が聖霊なのです。それがルカの考えている福音です。イエス様は、昇天されて、弟子たちと別れました。そのことについて、ルカは、次のように表現しています。

彼らはイエスを伏し拝んだ後、

大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、

神をほめたたえていた。(ルカ 24章 53節)

 普通だったら、別れというのは、寂しくて、そして、心細いものです。ですから、これから、ほんとうに、大丈夫かな、あれだけ頼りにしていたイエス様がいなくなってしまった。十字架で亡くなられたと思ったけれども、よみがえられ、私たちに会ってくださった。だから、よし大丈夫と思ったけれども、また、天に挙げられてしまって、我々だけになってしまった。そういう不安に駆られたと思うのです。

 「伏し拝む」という言葉は、礼拝をするということを表現するときに使われる言葉です。ですから、ここでは、本当に、イエス様は神様なのだ、ということを信じていた、ということになります。

 礼拝をした後、大喜びでエルサレムに帰った。これが、とても象徴的に私たちの今のあり方を表していると思います。礼拝というのは、天に挙げられるイエス様が私たちに向かって「もう、なすべきことは全部出来ているぞ、だから大丈夫だぞ」という保証を、喜んで聞く場所です。弟子たちもその保証をしっかり受け止めたから大喜びで、彼らが当分いる予定のエルサレムに帰ったのです。

 そして、絶えず神殿の境内にて神をほめたたえて、賛美をしていました。

 こうして、10日後に、彼らに聖霊が降りました。これが、ルカの表現する神の業なのです。

思い上がるな、キリスト教会

 わたしは、イエス様が十字架で死なれ、そして、よみがえられ、天に昇られた、ということを通して、神が、「もう、大丈夫だぞ」と宣言しておられると思うのです。教会の長い歴史の中ではいつの間にか、このイエス様の頭の上に、金ピカの輪が付いた偶像にしてしまいました。さらに、教会の外に救いなし、というような大変傲慢なあり方をするようになってしまいました。神の救いが既に完成しているのに、教会を通らなければ、救いは無いという傲慢さ、それは次第にキリスト教だけが本物の宗教で、ほかの宗教は全部間違いというような驕りにつながります。

 今、何がおかしかったのだろうということを振り返って、一生懸命調べている人たちと、もう一方では、歴史の伝統に従って、それを守ってゆこうという、いわば保守的な姿の人たち、という両面がみられます。

 わたしは、本当はどのようにあったらいいのだということを探っているときに、最近、「イエスとはなにか」(春秋社、笠原芳光・佐藤研編、2005年2月20日、第1刷、2005年4月25日、第3刷、)という本を読むことができました。これは読みかたによっては、読者が、びっくりする本です。

 キリストという呼び方はいやだ(イエスを偶像化したから?)、という人もいれば、それはどうでもいいけども、今のこれは違うとか、そのような極めて批判的に聖書とイエスについて議論をしている本なのです。いろいろ言い方は激しいのですが、今の教会のあり方はおかしいのではないかということと、それは聖書の読み方が問題だったのではないかいうことと、帰るところはイエス様という方に帰らなければならない、イエス様が何を示そうとなさったのかというところをもう一度、しっかり受け止め直さなければならない、という姿勢を共通して見ることが出来ます。

 その、表現の仕方や、突っ込みの仕方が人によってとても違うのですが、伝統的な、正統派からは、とてもむちゃくちゃな教理や、組織を破壊する、悪いグループというように見られていると思います。そのグループの中にいると見られている一人が、わたしがよく引用させていただく荒井献先生です。

「無条件」が「条件」に?

 最近、岩波書店から荒井先生の著作集が出版されました。その中に、「イエスと出会う」(岩波書店、2005年2月24日、第1刷)という本があります。いろいろなところに書かれていたものを纏めなおしている本です。

 その本の中で、わたしが言いました「神様からの大丈夫」ということを「大いなる然り」と表現しています。イエス様の出来事は、神様から、「そのままでいいのだぞ」という、「大いなる然り」なのです。その反対が、「ねばならない」という律法の宗教です。神さまは無条件で罪人を赦してくださる、と言いながら、よく注意してみると、無条件ではなく、条件がたくさんあるのです。  「無条件」が「条件」になっています。

 そういう「ねばならない」ということを打ち壊したのが、イエス様だったのですが、いつの間にか、教会を通さなければならないとか、聖書は、このように読まなければならないとか、そういう「ねばならない」ということに束縛されて、観念だけは、自分たちは、一番正しいところにいる、と自負している教会。

 これは、第三者から見たら、大変傲慢な姿勢で、「どうぞ勝手におやりなさい、私たちは結構です」と離れてしまいます。そうではなくて、それぞれの人が、それぞれのままで、神様が「よし」と、そのように、生んでくださっています、造ってくださっています。そのような環境に置いてくださっています。それを人間の勝手な価値観で、これは駄目なのだとか、もっと、こうでなければいけないとかになってしまいます。そのような姿勢は、神様の前で、大きな罪だと思います。

大いなる「然り」

 先ほど上げた、荒井先生の「イエスと出合う」という本の中に、「冬の虹」という記事があります。もう、すでに亡くなられた最初の奥様の恵津子さんのことについて、とても詳しく、丁寧に書いておられます。わたしは深い愛情を持っておられたことが伝わって、感動しました。恵津子さんは、脳腫瘍で13年間の闘病の後に亡くなられました。いまは、再婚され、英子先生という奥様がいらっしゃいます。最初の奥様の恵津子さんのことについて、いろいろな人が、清楚で、無口で、真面目な賢婦人と言っていたようです。一緒に、聖書を学んだ仲間で、恵津子さんと親しかったある女性が、荒井先生に、「恵津子さんにも乱れることがあるの」と聞いてこられたくらい、とてもしっかりした方のようです。しかし、荒井先生は、実は、そうではなかった。彼女も生身の人間だった。入院したときも、毎晩のように、戸をたたいて、早く帰りたい、帰りたいと泣かれたこともあった、そのように、人間的な側面を十分持っていたと言っております。そして、このように纏めていらっしゃいます。

 もし、恵津子に真実の意味におけるクリスチャンらしさがあったとすれば、それは歓喜の絶頂にあっても、一番うれしいときであってもなお、人間の内なる闇を見据えていたこと。

 人間の暗い部分、これは、わたしののびのび講座で使う表現で言うと、「矛盾の同居」です。両面をいつも持っているというのが人間なのです。光があるときには、影や闇もあるということを受け止めることが大事です。

 その闇が死に極まるものであっても、それを超えて、全てを許す存在の「大いなる然り」を信じていた。少なくとも信じようとして身もだえしていたこと、そして、そのような信仰者であることと日本人であることとの接点を生涯捜し求めていたことの中にあると思います。この「接点」の文学的象徴化が、恵津子の俳句であったのです。

 彼女は、ご自分で書いた文書の中で、こう言っておられます。

 日本とのかかわり合いにおいて考えるとき、キリスト教の長所といわれる個の意識というものを生かしながら、それを、もう一度埋没して、物と一つになるという方向を見出すことが出来ないであろうか。それは自己を失うことではなく、かえって自己を見出すことになると思う。

 持つことと、捨てるという両面が常にあります。キリスト者であり、個を大事にする、同時にその個を捨てることが出来るという両面。それが本当の自由ということではないでしょうか。

 イエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、そして、絶えず神を賛美していた、ほめたたえた。わたしたちも、このルカの表現に従ったらいいですね。本当に、「そのままで大丈夫」、「大いなる然り」をいただいているのが、この礼拝のときなのです。何が足りないとか、そのようなことを言う前にまず、満ち足りていることにしっかり目を向けなさい。そして、満ち足りていながらまた、一方で足りないぞという、その両面があって、初めて健全になります。足りない、足りないでばかりいたら、いつも落ち着きを失ってしまいます。あるいは、欲求不満の塊になってしまいます。満ち足りた。それだけでいると独りよがりになります。そうではなくて、何時でも、その両面がある。そして、それを神様が「よし、いいぞ」とおっしゃっていてくださっています。礼拝はそういう自分を発見する機会なのだと思います。

 祈りましょう。

 聖なる御神様。今日もお招きくださってありがとうございました。わたしたちがすっかり忘れているときも、あなたが常に、共にいてくださったからでした。そしてわたしたちの内側に、常に働きかけて、わたしたちを支え、励まし、導いてくださいます。この週も、あなたからいただいた恵みと、愛とをしっかり受け止めながら、また、いろいろの形で、人々に仕えていく週となりますように、お助けください。

 われらの主イエス・キリストの御名によって祈ります。

 アーメン。

(2005年5月8日 復活節第五主日 第二礼拝説教より)