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神の国は来ている

石川 和夫牧師

しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、

神の国はあなたたちのところに来ているのだ。

(マタイ12:28)

 今日の主題は「悪と戦うキリスト」です。しかし、ちょっと考えてください。イエス様がほんとうに悪と戦っておられれば、十字架に架かって死ぬことはなかったと思います。誰からも支持された、と思うからです。ところが、イエス様は、実は、善と戦ったから、十字架につけられたのだと私は考えています。イエス様は、直接には、ファリサイ派の人たちと対立されましたが、そのファリサイ派の人たちは、決して悪人ではないのです。

 カールバルトは、次のように言っています。

 「パリサイ人」というのは、「ある特定の時代の偶発的な歴史的現象ではない。」むしろ、「善と悪についての知識のゆえに、神に感謝しつつ、神の栄誉のために、彼の隣人と自分自身とを厳しく裁くところの、まったく天晴れな人間なのである。」

 当時における模範的な、そして、だれが見ても、いい人だったのです。ですが、これまでのキリスト教の映画、特にイエス様を伝える映画は、イエス様に逆らう人をこれ見よがしの悪人に描いています。最近公開された、パッションにおいても、やはりイエス様を裁く人たちをいかにも悪人づらで、表現していたので、わたしは少々がっかりしました。

まじめで、善良なファリサイ派

 これぐらい正しくて立派な人はいないと世間でも思い、そして、自分もそのように思っている人に向かって、イエス様は「あなた方は災いだ」ということを繰り返し述べられました。だから、ファリサイ派の人たちは、腹を立てたし、もし、このイエス様が、大衆に受け入れられ、イエス様の考えが広まってしまったら、秩序が何もなくなってしまうと考えました。必死に秩序を守り、掟を守って、神に従い、施しをし、決められた礼拝をし、絵に描いたような立派な信者の姿が、いってみれば、ファリサイ派の人だったのです。

 イエス様は、同じ出来ことを見ても、冷ややかにしか見ることが出来ないファリサイ派の人たちを非難されたのです。

そのとき、悪霊に取りつかれて目が見えず口の聞けない人が、

イエスのところに連れられてきて、イエスがいやされると、

ものが言え、目が見えるようになった。

群集は皆驚いて、「この人はダビデの子ではないだろうか」と言った。

(マタイ 12章 22節から23節)

 悪霊に取り付かれて困っていた人が、イエス様によっていやされました。そうすると、ファリサイ派の人たちが見下げている大衆、無学な大衆の人たちが、ひょっとすると、この人は、ダビデの子、メシア、救い主ではないだろうかと、素直に驚きました。病気で苦しんでいる人の立場が分かれば、あー、良かったね、と言ってあげるのが、普通の人だと思うのですが、この出来事を、苦々しい思いで見ていたのが、ファリサイ派の人なのです。

しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、

「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、

この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。

(マタイ 12章 24節)

 ファリサイ派の人は、悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、この者は悪霊を追い出せはしないと言いました。人が喜んでいることを素直に喜べません。どうして、そのようなことになったのでしょうか。

私もファリサイ派?

 今や日本は、あらゆる機関を通して、情報が得られます。その情報でいわゆる良いこと、体に良いこと、老後に良いこと、良いことが、いっぱい得られます。そして、みんな、良いことを追求します。だから、この国は冷たいのです。自己中心の人で満ちてしまうのです。

 なぜならば、正しいこと、良いことを追求すると、それを人生の目的にしてしまい、自分はいいことをしている、あるいは、少なくとも、良いことをしようと願っている、という思いでいっぱいになり、その結果、自己中心になります。

 本当に弱った人、困った人の立場に立てなくなります。なぜならば、良いことを追求するということは、必然的に、悪いことを排除することになります。だから、悪い状況の人だなと見えた人を、無意識に排除してしまいます。自分は、そういう人間ではない、と自然に、差別の感覚が起こります。

 ファリサイ派の人にすれば、自分たちこそが、社会の秩序を守り、一番神様に忠実に従っており、約束を守り、法律に触れる悪いことはせず、善良で一生懸命なのに、この、イエスという男はなぜ、俺たちを悪い、悪い、と言うのか分かりません。結果、イエス様が嫌いになり、イエス様に対する反感を広げて行きます。

 イエス様は、悪と戦われたというように書かれているのですが、現象面では、善と戦われたから、十字架につけられるようなことになったのです。イエス様の敵は、実は、一番近いと思っている、キリスト教自体かもしれないのです。いや、自分自身かもしれない、そのような厳粛な問いを聞きえている人は、幸いです。


神の国は誰もが入れるほど安っぽくない?

 神の国に入るためには、条件が必要だと思い、その条件を満たすために、ファリサイ派の人たちは、真面目に、真剣に、良いことの努力をしていました。一般民衆のように、その日暮らしをしていては、とてもじゃないけれど、神の国に入れるはずがない。そう、考えていたようです。

しかし、わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、

神の国はあなたたちのところに来ているのだ。

(マタイ 12章 28節)

 つまり、遠いところに神の国があって、ある条件をクリアーした人でなければ入れないのではなくて、あなたがたのところに、もう、来ている。いま、あなた方は神の国にいるのだよとイエス様が宣言されました、だから、なおさら、ファリサイ派の人たちは、なにをめちゃくちゃなことを言うのだということになるのです。秩序はどうなるのかということになるのです。

 わたしたちはもう既に神の国に入れられています。つまり、イエス様の居られるところが神の国なのですから、だから、じたばたすることないのです。資格があるも、ないもないのです。みんなを、神様が受け入れていてくださるということをイエス様が宣言しました。イエス様が「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、神の国はあなたたちのところに来ているのだ」と宣言された後で、さらにファリサイ派の人たちに追い討ちをかけました。

わたしに味方しない者はわたしに敵対し、

わたしと一緒に集めない者は散らしている。

(マタイ 12章 24節)

 これを聞いて、ファリサイ派の人たちは「なんと傲慢なやつだ」と思ったでしょう。自分たちの傲慢さを棚に上げて、イエスは、傲慢な人間だというように、見えたに違いありません。わたしたちは、聖書を読むときに、イエス様が神の子だという視点で見ますから、最初から、このファリサイ派の人たちは悪い人のように映るのですが、本当は、そうではなかったのです。わたしが言いたいことは、わたしたちも容易にファリサイ派になりうるということを申し上げたいのです。

救いを求めていない、それが傲慢

 信仰を持つということは、良いことです。神様に喜ばれるように努力することも間違いではありません。良いことなのです。けれども、良いことについて努力していると、自分に対する批判があれば、それを全部拒絶するようになります。何を言っているのだ、わたしはこうしようとしているのに、と反発し、段々自分の姿に気づかなくなってしまいます。そうして、無意識に人を裁くことがおこります。

 藤木正三先生が人間の生きる資格というのは清さ、美しさ、正しさを求めるだけで、は不十分だというようにおっしゃっています。

 「清さ、美しさ、正しさを求めるだけでは、人間は十分ではないのです。そう思うのは人間の傲慢、もうひとつ、救いを求めてこそ、人間は人間です。」(藤木正三、工藤信夫「福音はとどいていますか」(ヨルダン社、1992年6月30日、初版、68頁)

 つまり、謙虚になることです。駄目なのだなという自覚を自分が持つ、だから、主よ、お救いくださいという姿勢が生まれるのです。

 前プリンストン神学校長のJ・マカイア博士はこのように、言っています。

 「キリストによって捕らえられた人間の魂には二つのものが共存しうる。すなわち、ひとつは、深い静けさ、神との平和であり(神との平安、落ち着き)、もうひとつは、不滅の熱情、耐えざる熱心である。」(「希望の旅路」教団出版局、2001年11月22日、初版、66-67頁、金井輝夫「招きー祈り・生活・讃美」)

 落ち着いている部分と、このようなわたしを受け入れてくださっていて、なんとありがたいことか、という思いから、何かをしないではおれないという、熱情がおこります。両方がバランスを持っていて初めて、健全となるのです。清さとか正しさを追求して行こうとするのではなく、藤木先生の言葉を借りれば、救いを求めてこそ人間なのだということです。パウロの表現で言う、「自分はなんという惨めな人間だ、善を求めながら自然に悪をしている。あるいは心でいくら願っていてもそのようには行かない。何と惨めな人間なのだ」(ローマ7:13-25参照)という、その自覚にしっかり立っているときに、ありがたいことに、イエス・キリストが、このわたしを"良し"といって、受け止めていてくださっていることが分かります。

 平安と惨めさが共存している、というのがキリスト者だろうと思います。だけど、ファリサイ派の人たちには、この惨めさが消えているのです。わたしは救いに入れられるための努力をしているし、人様に後ろ指さされるようなことはしていない、わたしについて、ケチをつけるような者は、ひねくれ人間だというように、周りを自然に裁いてしまいます。これはとても恐ろしいことです。

目に見えている間だけでは

 イエス様が神の国はあなたたちのところに来ているのだぞ、そのことが見えないのかとおっしゃっています。わたしたちに、神の国を下さっています。そのことが見えるようになるためには「主よ、わたしをお救いください」という気持ちを持ち続けていることではないでしょうか。そうすれば、自分で一生懸命こうしなければと、追求しなくても、よい結果をきちんとくださいます。

 千葉県に長く住んでおられた船曳(ふなびき)さんという方がおられました。高齢になられて、神戸の息子さんのところへ移ることになりました。別れの日、自分の属していた教会の大橋弘牧師のところに見え、お世話になりましたと言った後で、

 「わたしは家族伝道に失敗しました。だれも、教会へ行ってくれませんでした。これからも駄目でしょう。」と言いました。大橋牧師は、祈って別れました。それから何年か経った後に、突然、神戸から大橋牧師に電話がありました。

 「父が亡くなりました。父の日記に、あなたのことが記されており、万一の時にはあなたに葬儀を執り行ってほしいと書いてあります。来ていただけますね」ということでした。神戸まで父の葬儀に来てくださいという内容です。大橋牧師は出かけていきました。うかがうと、家族の中に一人、明るい高校生の女の子がいました。「わたしの名前はおじいちゃんが付けてくれました。」と悲しい中、態度が明るかったのです。では、一度教会へいらっしゃいねと、応えの挨拶をかえしました。

 それからしばらく時が経ちましたら、家族のみんなが洗礼を受けていたのです。明るい女の子は牧師夫人になりました。船曳さんの目の黒い内には、このことを見ることが出来ませんでした。でも、神が共にいてくださって、信仰が祝福されたとき、家族は普段、教会を嫌っていても、何がうちのおじいちゃんをそうさせるのか、あるいは、おばあちゃんはどこか違うな、簡単にへこたれないぞとか、それを一番良く見ているのです。見えないものに対する希望をしっかり持っているとそれが伝わって行くのです。わたしたちは、自分で何かをしなければならないというように自意識過剰になる必要はありません。自分のあるがままで、感謝していることと、罪びとのわたしを救ってくださいという思いを決して失わないでいることによって、必ず影響が周囲に伝わっていきます。それを阻害する一番、邪魔なものは、傲慢です。

 お祈りしましょう。

 イエスキリストの父なる神様、今日もわたしたちを礼拝にお招きくださって、ありがとうございました。つい、信仰を持ったことで、優越感を持ちがちになりますが、そのようなものではなくて、あなたが分かれば、分かるほど、御前にへりくだるものとなることでした。駄目な人間なのに、あなたが用いてくださることを覚えて、心から感謝いたします。すべてをお委ねして、また日々あなたを讃え、感謝して歩んでゆくことが出来るようにお助けください。

 主イエスキリストの御名によって御前にお捧げします。

 アーメン。

(2005年2月20日、復活前第5主日、第二礼拝説教)