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イエスさまの遺言

石川和夫 牧師

父よ、わたしに与えてくださった人々を、

わたしのいる所に、共におらせてください。

それは、天地創造の前からわたしを愛して、

与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。

…………

わたしは御名を彼らに知らせました。

また、これからも知らせます。

わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、

わたしも彼らの内にいるようになるためです。

(ヨハネによる福音書17章24,26節)

今日の主日の主題は、「天国に市民権をもつ者」です。今日の使徒書のフィリピの信徒への手紙には、

 「しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。」(3章20節)

と述べられていますが、今日は、福音書のイエス様の言葉から、み声を聞きたいと思います。ヨハネによる福音書の14章から17章までは、「イエス様の訣別説教と祈り」となっています。14章が、第一の訣別説教、15章と16章が、第二の訣別説教、17章が、訣別の祈りです。つまり、14章から17章は、「イエス様の遺言」と言ってよいと思います。引き続く18章は、イエスの受難の道、十字架への道が示されています。

 たくさんのイエス様の遺言が示されているわけですが、今日は、特に、締めくくりの17章24節と26節に注目してみたいと思います。

「父よ、わたしに与えてくださった人々を、

わたしのいる所に、共におらせてください。

それは、天地創造の前からわたしを愛して、

与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。」

(17章24節)

 イエス様のおられるところにいつもいられるようにしてください。天国の市民権を与えてください、というのがイエス様の第一の遺言です。

わたしは御名を彼らに知らせました。

また、これからも知らせます。

わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、

わたしも彼らの内にいるようになるためです。

(17章26節)

 まさに、今、この礼拝において、イエス様に対する神様の愛がわたしたちの内にあり、イエス様が、わたしたちと共におられるのです。このことを確信して、1週の歩みを始めるのですが、週日の歩みの中で、わたしたちは、この神様の愛をどのようにして受け止めることができるのでしょうか。

「出て」、「会う」

 先週、京都丸田町教会から、分厚いとても立派な「丸田町教会百年史」が送られてきました。正直のところ、あまりご縁がない教会の歴史は、そんなに読みたくはなくて、どっちかと言えば、ありがた迷惑でもあるわけですが、その本と一緒に送られてきた、もう一冊の本に、目が釘付けになりました。主任牧師の佐藤博先生の著書、「名著を入口に聖書に聞く」(キリスト教入門二十一講)(マナブックス、2004年9月23日、第1刷)という本です。いわゆる「名著」を入口にして、人生とキリスト教信仰を考える、というわけです。とても読みやすい本です。その中に、こういう言葉がありました。

 「『出会う』とは文字通りには『出て会う』で、『自分の殻を出る』を意味します。」(前掲書184頁)

 神の愛に出会う、のには、「出て」、「会う」ことが必要なのだ、というのです。そして、この「出て」というのに、二通りあります。一つは、自分の意思ではなくて、いやおうなしに「出されてしまう」、言ってみれば、思いがけずに降りかかってきた「不幸」や「出来事」です。そして、もう一つは、積極的に自分から決断して「出て」行く、ということです。

 不幸な目に合わされる典型の物語が旧約聖書の創世記にある「ヨセフ物語」です。ヨセフは、イスラエルの先祖、アブラハムの孫にあたりますが、12人兄弟の11番目、どういうわけか、お父さんのヤコブに偏愛され、兄弟中で彼一人、とびきり上等の服を着せられます。また、頭も良くて、夢解きが上手で、お兄さんたちがみんな彼に向かって頭を下げて拝まれた、などと話して、お兄さんたちから妬みを買います。そのため、殺されかけるのですが、かろうじて、結局、エジプト人に奴隷として売られてしまいます。

 エジプトの高官の奴隷となったのですが、今までの豊かで自由な生活から、一挙にどん底の暮らしに陥ります。牢屋に3年、閉じ込められたこともありましたが、得意な夢解きのおかげでファラオ(王)の信頼を得て、総理大臣にまで出世します。長い飢饉に襲われたときに、彼の知恵で、備蓄していたエジプトは穀物を輸出できるほど、ゆとりを持っていました。穀物に困ったヤコブ一族は、エジプトに穀物の買出しに出掛けます。ヨセフが総理大臣になっていることは誰も知りませんでした。ヤコブは、獣に襲われて死んだ、と知らされていたのです。

 一方、ヨセフは、お兄さんたちが自分を殺そうとしたことが、トラウマになっていて、彼らを赦すことができませんでした。いろいろな意地悪をして彼らを苦しめるのですが、最後に、ヤコブが大事にして旅に出さなかった末っ子のベニヤミンを連れてくることを強く命じます。ところが、お兄さんたちが以前とはすっかり変わって、お父さん思いになって、自分たちが変わりに奴隷になるから、それだけは許して、と訴えられたときに、彼は、たまらなくなって、自分がヨセフであることを名乗ります。劇的な再会の場面です。そのときにヨセフがこう言うのです。

「わたしはあなたたちがエジプトへ売った弟のヨセフです。

しかし、今は、わたしをここへ売ったことを悔やんだり、

責め合ったりする必要はありません。

命を救うために、神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのです。

……

神がわたしをあなたたちより先にお遣わしになったのは、

この国にあなたたちの残りの者を与え、

あなたたちを生き永らえさせて、おおいになる救いに至らせるためです。

わたしをここへ使わしたのは、あなたたちではなく、神です。」

(創世記45:5、7、8節)

 これが、ヨセフの「出て」、「会う」ことでした。こうして、ヨセフも兄たちも神の愛に出会ったのです。

神の愛に出会わせてくださる

 もう一つの自発的に「出て」、「会う」ことをしたのは、アブラハムです。

主はアブラムに言われた。

「あなたは生まれ故郷

父の家を離れて

わたしが示す地に行きなさい。

わたしはあなたを大いなる国民にし

あなたを祝福し、あなたの名を高める

祝福の源となるように。

あなたを祝福する人をわたしは祝福し

あなたを呪う者をわたしは呪う。

地上の氏族はすべて

あなたによって祝福に入る。」

(創世記12:1〜3)

 アブラハムは落ち着いた豊かな暮らしをしていたのに、そこを「出て」行くことを決断しました。大変な目に遭うのですが、そのことを通して、彼は神の愛に「会い」ました。この二つの「出る」について、著者の佐藤先生は、こう言っておられます。

 「どちらの場合も神が働いておられますので、自分を誇らない者に、自分の正しさを砕かれる者に変えられます。このように、自分が低くされますと、高い所からの神の愛や、人の良きものが低くされた謙遜な者に下ってきます。それゆえ、神との出会いとは、私たちが努力し、向上して、神に出会うのではなくて、神の方から、低くなった私たちの所に下って、『私はあなたと共にいる』ことを、いろいろな方法で示してくださることです。新約聖書の福音書でのイエスの行動は、この形を証明しています。」(前掲書185頁)

 「出る」、ということは、謙虚にさせられるためでした。なぜなら、謙虚にならなければ、神の愛との出会いはありえないからです。だから、パウロは、

だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、

むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

………

なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

(コリントの信徒への手紙二12:9,10)

 がんばって神様の愛に出会うのではなく、むしろ落ち込んだり、落胆したり、失望することによってこそ、神の愛に出会えることを肝に銘じましょう。

 祈りましょう。

 聖なる御神様、私たちが、永遠の住まい、変わることのない愛に出会うために、わたしたちをわざわざ今の状況から出されたり、私たちに決断を与えてくださったりしていてくださいますことを感謝いたします。そのようなことがなければ、すぐに傲慢になる愚かな者です。この週もあなたの御前にへりくだりながら、あなたがどんなに近くいてくださるかをしっかり受け止めることが出来ますように。そしてまた、喜んで礼拝に帰り集うことができますように、助け導いてください。イエス・キリストのみ名によって祈ります。

 アーメン。

(2004年10月17日、聖霊降臨節第21主日、第二礼拝説教要旨)