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弁護人がいる

 石川 和夫牧師

わたしが父の元からあなた方に遣わそうとしている弁護者、

すなわち、父の元から出る真理の霊が来るとき、

その方が私について証しをなさるはずである。

(ヨハネによる福音書15:26)

 今日の福音書には弁護者という言葉が出てきます。

 わたしが父のもとからあなた方に遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証をなさるはずである。

 「これは父と子と聖霊の御名によって」と言う場合の、聖霊のことです。聖霊のことをイエス様は、弁護者あるいは弁護人とお呼びなりました。以前、高幡教会に居られた晴佐久神父がこのことを次のように説明しています。

 「イエス様が、聖霊を弁護者にたとえたのは、この言葉が一番傍にいて、その人を助けてくれるというそのような意味を持っている言葉だからです。自分の言うに言えない思い、誤解されて誰も理解してくれない、魔がさしてやってしまったこと、取り返しがつかないさまざまな自分の罪、神の親心がそのようなわたしの一番近くにあってそんなわたしのために働いてくれていることを感謝します。」

 ここで、お分かりだと思うのですが、愛するということは、弁護人になることなのだということです。

 わたしも言ったり、聞いたりすることですが、親が子供を叱ったり、上の人が下の人を注意するときによく使う言葉があります。「あなたのことを思って言っているのだから・・・」、これはよけいな一言、だという気がします。本当は自分の都合で言っているのです。自分でそう思っているから、もう少し分からせたいと思ってしつこく言うのです。しかし、そう言われた本人は、たいがい悔しがっています。「何も分かっていないな」という思いにとらわれているはずです。愛の立場に立っていませんから。自分中心の表現をしているだけです。

「愛する」ことは、弁護人になること

 「愛する」ということは、イエス様がおっしゃる弁護人になるということです。晴佐久神父の言葉をそのまま借りたら、自分の言うに言えない思いそれを察する、あるいは誤解されて誰も理解してくれないという状況あるときにそのことを察することです。少なくとも何かあるなと思ってその人の傍にたつことです。「愛する」とは徹底的に弁護人になるということです。

 時々聞くことですが、オームの麻原彰晃を弁護する弁護人は恨まれたりしていますね。「なぜ麻原を弁護するのか」と、しかしそれが弁護人なのです。どのような悪人にもなにか弁護すべきものがあるという立場で、その人の側にたって受け止めて、そして執り成す。それが弁護人なのです。

 弁護人である聖霊は、常にわたしたちと共にいてくださいます。毎年ペンテコステが近づいてくると、賛美歌で「聖霊よ、降れ」「聖霊よ、来てください」と歌われ、祈られることが多いのですが、このような表現は、はなはなだしく誤解を招きます。聖霊が、どこか遠くにおられる方みたいです。それは、一つの文学的表現であると考えてください。聖霊が降った、何かに気がついてみんなが一様にキラキラと輝いた、丁度、雷が落ちたように何かが降ったのだ、という文学的な表現ですね。

 聖霊はわたしたちが呼ばないと来てくれない方ではなくて、いつでもわたしたちの傍にいてくださる方です。晴佐久神父の三位一体論では、聖霊のことを親心といいます。神の親心があったからわたしたちはこの地上に生を受けたのです。神の親心があるからわたしたちと常に共にいてくださるのです。

 また、飼い犬“チコ”の話なのですけれども、

 昨夜、わたしがいつものように書斎にこもって、説教の準備をしていましたら、いきなり「あら、あんたここにいたの」と言う家内の声が聞こえました。書斎の前にチコが来て座っていたのです。時々あることです。それで、わたしは「忠犬チコ」と呼んでいます。チコは、「私の勤めがある、このご主人の傍にいなきゃ」と思っているのでしょうかね。それで傍に来たのでしょうかね。そのようなことを見ていると「ああ、いつも、そんなに傍にいたいのか」という思いがわたしに伝わってきます。これは、とっても慰められることです。わたしは、「もういいよ」と言って、チコをベットに戻しました。

「聖霊」−愛のコミュニケーター(伝達者)−

 聖霊は、神の親心ですから、いつでも私たちの傍にいます。そして、わたしたちを動かしてくださいます。わたしはそれを「愛のコミニケーター(伝達者)」と呼びます。

 わたしたちを愛しておられる神様ご自身が、わたしたちに一番与えたいものは、名声、富、成功ではなくて、「愛」なのです。その「愛」が心に伝わるようにと願って、ご自身が私たちの傍にいて、一所懸命“ほれ、ほれ”と言って、心を動かしていてくださるのです。

 わたしは“とても行き届いた神様の愛”と三位一体を説明するときに言います。「ねー、お前たち愛し合いなさいよ」と天の高いところから命令しておられるだけではなく、「愛」とは、このようなものだぞと人となって示してくださったのです。それが、子なるキリストです。お手本を示しただけではなく何時もわたしたちの内に留まって、“ほら、ほら”と愛を感じられるように働きかけて下っています。

 ガラテヤの信徒への手紙の中で、パウロが「霊の導きに従って歩みなさい」と言っています。「そうすれば、決して肉の欲望を満足させるようなことはありません。」(5:16)「肉の業は明らかです。」(19節) 「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのものです。」

 随分ありますね。わたしたちが普段、嫌だなと思うことは、たいがい肉の業なのです。それに対して聖霊の結ぶ実は「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」(22節)です。

 霊の導きに従うということは、具体的には、どのようにすればよいのでしょうか。一生懸命お祈りして、心を澄ませていると、聖霊が、電波のように、“ぴっぴっ”と来るということではないと思います。気づいたとおりに、感じたままを行うということだと思います。そのときが一番自分に素直になっているときです。素直になっているときは、聖霊がわたしたちを支えやすいのです。

 神様は、悪いことを勧めようとしているのではないのですが、極端な話、悪いことであっても、素直になることで、いいのです。旧約の表現では、そのときに悪霊が誰それに臨んだという言い方をします。その、悪霊も神様の僕です。悪いことをしているときも、神の手の中にあるということを忘れてはいけません。神様も、その意味では、変な言い方ですが、共犯者です。だけど、その後で、必ずちゃんと落としどころを用意していてくださいます。

「愛」は感じたまま

 だから、素直に感じたままで、動いたときに起こる結果に対しては、素直に受け止めることができます。もしも、人が怒ったら「あら、ごめんなさい」と素直に言えるのです。「何よ、人の善意を」と、こちらがふくれたりする必要がないのです。こちらが何か良かれと思ってすることは、こちら中心なのです。感じたままというのは、考えないで、自然に手が出たり、足が出たり、言葉が出たりします。

 しかし、わたしたちは限界を持っていますから、その感じ方が、間違うことがあります。素直に出した言葉が、人を怒らせたりするのだったら、人を責めるのではなくて、自分の感じ方を責めるしかないのです。自分自身が、そのように感じてしまったのだから、仕方ないのです。誰も責める必要がないのです。

 そのように、感じてしまったのだから、言い訳はいらないのです。だから「ごめんなさい」と言うしかないのです。逆に、素直に動いてしたことが、人に喜ばれたら、素直に、一緒に「ああ、よかった」と喜べるのです。わたしの身についている癖なのですが、恩を着せようと考えてやると、してもらった人が、「ありがとうございました」とか、必ず義理でお礼を言うのです。言われると、「いやいや、まあ、ちょっと、どうかなと思って・・・」とか、なにか弁解するのですよ。「ああよかったね」と言う前に、「いやいや、たいしたものではないですよ」とか、「いやー、あれは余りものでしたから」とか言うのです。それは恩を着せているからです。もう、すでに報いを受けています。しかも、恩を着せる親切は、しつこいですよ。一週間たってから、また聞いたりするのです。「このあいだのあれ、どーう?」とかみたいなことを言ったりして、それを言われた人が、うっかりしたっていうふうに、「あっ、あれあれ、とっても役に立っていますよ」とか、オーバーに言わざるをえないのですね。こういうのが肉の業です。

 しかし霊の業は、感じたことを素直にしたときに、自分の計算以外のことを起すのです。イエスは弁護人であるということを痛感した出来事が、わたしが牧師になって五年目ころに起こりました。説教の準備が全くできなくて、伝えるポイントが思い浮かばなくて、とうとう「今日は、説教ができません」と礼拝で謝ろうと思って、出て行く前に、神様にお詫びしなければと思い、お祈りしました。そのとき、ゲッセマネの園での祈りのときのイエス様の声が聞こえました。

「心は熱しているが肉体が弱いのだ」

 そのときに、しっかり弁護人としてのイエス様を感じました。そのように言われると、恥ずかしくてしょうがないですね。

 「そんなことは、ありません。ただ、怠けただけです。」と言うしかないのです。

 「分かった、分かった、気持ちはあったけれども体が言うこと利かなかったのだよな」

と言いながら、その罪を負って、十字架にかかって下さった。しみじみと、

 「あー、そうだ、イエス様って弁護人なのだ。愛するっていうことはこうゆうことなのか」と分かって、それから以後、わたしは少し人の見方が変わったと思うのです。弁護人になるということが、愛することなのだということが、やっと体で分かったのです。

  今日、わたしたちは、この弁護人のイエス様に押し出されて、此処に来ました。そして、この礼拝に与っています。霊の賜物を今たっぷりいただいています。今週の歩みも弁護人がわたしたちと共にいて導いていてくださいます。それぞれみんな、取り返しようのない癖が身についています。失敗は、全部その身についた癖が起こすのです。だからこれは、もう、しょうがないなと受け止めるしかないのです。それがわたしなのですから。

 だけど、それを受け止めていると、今度は逆に、しみじみと、「ありがたいな、よかったな」という思いが、じわっと、溢れてきます。どうぞ、また、そのような思いで、来週も一緒にこの礼拝に与りたいと願っています。

 祈りましょう。

 天のお父様。今日もお招きくださって、ありがとうございました。そして、わたしたちの内にいつも、弁護人である聖霊が宿っていてくださるのに、自分で、ああでもない、こうでないと考えたり、思い煩ったり、先を勝手に予測したり、そして、たじろぎがちでございます。あなたが、いつもわたしたちの内に入って、必ず、最後に、辻褄を合わせて、よいようにしてくださいますから、思いわずらいから解き放たれて、あなたが下さる愛、平和、喜び、感謝をこの週も味わっていくことが出来ますように、お助けください。主、イエスキリストの御名によって祈ります。

 アーメン

(2004年5月9日、復活節第5主日、第二礼拝説教要旨)