お話を読むライブラリーへ戻る | トップページへ戻る | ||||||||||
あなたは? 石川 和夫牧師 イエスは言われた。 「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、 あなたに何の関係があるか。 あなたは、わたしに従いなさい。」 (ヨハネによる福音書21章22節) 今日の福音書はヨハネの21章15節からです。 先週は、復活のイエス様がガリラ湖畔で弟子たちに現れ、弟子たちと一緒に食事を取られたという話でした。 そして、今週の物語に続きます。食事が終わると、イエス様はペトロに、 「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」 (ヨハネ21:15) とお尋ねになりました。ペトロは、自分が自他共にイエス様を一番愛していると自覚しているものですから、イエス様に「この人たち以上に私を愛しているか」と聞かれて、彼はとっても気になりました。また、ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエス様は、 「あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。 しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、 行きたくないところへ連れて行かれる」 (18節) と言いました。食事が終わって、彼らは歩き始めました。 ペトロは、最後の晩餐のときにイエスの胸元に寄りかかっていた人で、イエス様に一番近いのではないかと思われていたヨハネがついて来るのを見て、イエス様に、 「主よ、この人はどうなるのでしょうか」 (20節以下) と尋ねました。するとイエスは、 「わたしの来るときまで彼が生きていることを、 わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは私に従いなさい」 (22節) と言われました。ヨハネは、同じイエスの弟子の中で、ライバルだったのかも知れません。だから、自分は殉教することになるのだったら、このヨハネは、どうなるのだろう、と気になったのでしょう。 アガペーとフィレイン この前に、イエスに、 「この人たち以上にわたしを愛しているか」 (15節) と尋ねられた「愛する」という言葉は、3回繰り返されるのですが、ギリシャ語では微妙な違いを持っています。ギリシャ語で、愛するということを表現するときに、聖書によく出る言葉は「アガパオ」(神の愛、アガペー)なのです、そして人間、肉親の愛を「フィレイン」というのです。イエスが最初に、 「この人たち以上に私を愛しているか」とお尋ねになったときは、「アガパオ」(神の愛、アガペー)をお使いになりました。これに対して、ペトロの答え、「はい主よ、私があなたを愛していることはあなたがご存知です」での「あなたを愛していることは」という「愛している」は「フィレイン」という言葉です。 ペトロにすれば、自分が人間の持っている愛で、一所懸命最善を尽くしたことをイエス様、あなたはご存知でしょう、と言いたいところでしょう。だけど、そう言いながら、彼の心の中はどきどきしていました。イエス様が十字架にかけられる前に、彼は三度、「あの人は知りません」と強く否定しました。三回も裏切った。それが非常に気にかかっていました。 二度目に、イエス様が同じく「愛しているか(アガパオ)」とお聞きになったときに、ペトロはもう一度「(フィレインで)愛していることは、あなたがご存知ではないですか」。と応えるのですが、内心「どうしてそんなこと聞かれるのですか」という思いになったと思うのです。 三度目にまた、イエス様は 「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」と尋ねられました。このときの「愛しているか」はそれまでの「アガパオ」ではなくて「フィレイン」です。 聖書では、ペトロは三度も私を愛しているかといわれたので悲しくなったと書いてありますが、それはイエス様がしつこく三回も聞かれたので、そんなに私を信じていないのかと悲しくなったと受け取れなくもないのですが、それよりも、本当は、この微妙な言葉の変化に、確かに自分は精一杯イエスを愛した。だが、そういうことを帳消しにする、決定的な裏切りの言葉を三度も発した。であるのに、イエス様は、「フィレオで、愛しています」ということを三度言わせて下さった。そのことを思ったときに、自分の罪の大きさを思って悲しくなったと考えられるのではないでしょうか。 同時に、ペトロは三度イエス様を知らないと裏切ったことをイエス様によって、「おまえ三度も知らないと言っていた、だけど、わたしに今、三度、ちゃんと愛していると答えたよな、もう大丈夫だぞ」という形で自分の裏切りを許してくださったことを強く感じたに違いないと思います。 その上で、「わたしの羊を飼いなさい」、つまり、教会の責任を負いなさいとイエス様から言われました。 自主決定にあらずして 今日の福音書には、その後、ペトロが十字架につけられるのだということを予告した表現になっているわけですが、ヨハネによる福音書は、紀元90年前後に書かれたと言われています。はっきりした証拠はないのですが、ペトロは紀元62年に皇帝ネロの弾圧で処刑されたと伝えられています。当然、ヨハネ福音書の著者は、知っていたはずですから、ペトロの処刑のことに触れたと思います。 言い伝えですが、処刑のときに、イエス様と同じ向きの十字架では申し訳ないというので逆さ磔つけを志願したということで、今もそれを記念する「逆さ十字架の教会」があります。 ペトロが歩きながら話しているとき、後ろからヨハネがついてくるので気になって、「この人はどうなるのでしょうか」、つまり、自分は殉教するといわれたのだけど、ヨハネはどうなるのだろうと気にかかっていることをイエス様に尋ねました。ところが、イエス様は「人のことは気にするな。あなたはわたしに従いなさい」、あなた自身は、どうするのかということを真剣に受け止めなさいと言われました。これが今回のテーマです。 自主決定にあらずして たまわった いのちの泉の重さを みんな湛えている これは4年前に亡くなられた詩人の島崎光正さんの詩です。亡くなったとき、81歳でした。彼自身も生まれたときから脊椎損傷があって、大変不自由な生活を強いられ、子ども時代は、友だちに馬鹿にされ、しかも、お母さんを三歳のときに失うということで、愛情にも恵まれないで、いろいろな不遇を経験された、たぶん、彼は自分の運命を呪わずにはおれなかっただろうと思うのです。 この詩を紹介してくださったのは、藤木正三牧師です。最近、「神の指が動く」(ダビデ社)という新 しい本をお出しになりました。その本の中で、次のように書いておられます。 「自主決定にあらずして」、身体的不自由さ、生い立ちの不遇さ、泣こうが喚こうが、どうにもならぬわが身に降りかかった不条理、この自主決定にあらざるものを、怒り、嘆き、呪う、孤独な迷いの中を通り抜けて、「たまわった」と島崎さんが受け止められるに至るまでの心の旅路の長さ。 このことを思ったときに深く感動した。自分では呪いたくなった、こんなものいやだと何度でも思いながら、それが実は、「たまわった」、神様からいただいた命の泉なんだと受け止めなおす。その大きさ、しかも、そういう命の泉は、ここに参加しているすべての人に賜っている、いただいているのだ、みんなが持っているぞと。 彼が77歳のとき、「二分脊椎国際シンポジウム」がドイツのボンで開催されました。この詩は、このシンポジウムに参加しているときに、島崎さんが自分で“はっ”と気づいて書かれたものなのです。あらかじめシンポジウムで講演するよう依頼されていたので、講演の冒頭でこの詩を紹介されたのだそうです。 神はどこへ導かれるのか? わたしの中に、こういうことさえ無ければとか、わたしがもうちょっとこうだったらとかは誰もが思うことです。だけど、それは神様から賜った命の泉なんだぞ、それは重いぞ、そのように受け止めなおそうということなのです。そのときにこそ、本当の自由があります。これさえなければと思っている間は、自由がありません。豊かさに入ることはできません。藤木牧師は、同じ本の中で、聖心会シスター、鈴木秀子さんの言葉を紹介しています。 神はあなたをどこへ導くのでしょうか。 神はあなたを、いま、あなたのいる場所へ導いています。 いま、あなたのおかれた場で、あなたは、かけがえのない存在として、 目に見える世界を突き抜けて、 真の現実を見、真の人間性を発揮するように導かれているのです。 (「神は人を何処へ導くのか」三笠書房) わたしはこれからどういうふうになるのだろうか、神様はどこへ導こうとしているのだろうかと考えるときに、どこへじゃないよ、今あなたのいるところ、そこに導いているのですよ。今あなたの置かれた場で、あなたはかけがえの無い存在として目に見える世界を突き抜けて、真の現実を見、真の人間性を発揮するように導かれているのですよ。今自分の置かれているところ、それは主が、神様が、導いてくださっておられるところ、だからそれをもう一度受け止めなおす、それが信仰なのですよと。 これがキリスト教信仰です。他のご利益宗教との決定的な違いです。ご利益宗教は祈り、願い、何か努力すればそのようになる。この病気がいやだと思ったらその病気が治るという、そういう宗教なのです。だから逆に言えば、直らないというのは不信仰だからということになるのです。でも、イエスキリストの福音は、そうではなくて今、置かれているところ、そこが命の泉なのだ。その大きさをしっかり捕らえなおして見なさい、それが福音なのだぞ、ということを勧めていると思うのです。 今日もイエス様が「あなたは私に従いなさい」とおっしゃっています。その言葉をしっかりと胸に受け止めたいと思うのです。 お祈りしましょう。 聖なる御神様、今日もお招きいただいて、有難うございました。どうしても自分の判断が先に立って、こうなればいいのにとか、これは嫌だなとか思いがちですが、あなたはどんなときにも、常にわたしの置かれているところにいてください、また、今、置かれているところに導いていてくださることを、この日また改めて受け止めなおすことができました。あらぬ方を、よく分からない方に向かって、不安に包まれているのではなくて、今ここでそして確かに、あなたがわたしたちと共にいてくださり、復活の主が、わたしを常に後ろから押し出していてくださることを受け止めて、またこの週、喜んであなたに仕えていくことができるように、お助けください。主イエスキリストの御名によって祈ります。 アーメン |
|||||||||||