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「ただ一つ知っていること」

石川 和夫牧師

彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。

ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、

今は見えるということです。」

(ヨハネによる福音書9:25)

 今日の福音書は、大変長かったですね。本当は今日の日課は、9章の13節からとなっているのでが、括弧して、1節から12節までも入っています。ですから1節から読んだ教会もあるはずですね。9章全体を読めというのが今日の日課なのです。

 これは大変有名な箇所です。生まれつき目の見えない盲人の人が、イエス様によって目を開かれた。そして、そのことについてのユダヤ人との論争が、ここに書かれています。

 当時のユダヤ教の人たちの考え方は、神様の前に、完全でならなければならない。それは、律法をきちんと守ること。礼拝をするときには、神様に対して、完全な状態で、礼拝をしなきゃいけない。そして、その礼拝で、捧げる捧げ物も、完全なものでなければならない。だから、傷のない清い雄の子羊、つまり、一番いい子羊を捧げなければいけない。

 こういう考え方が、ずっと広がって、人間にも適用され、神様の前で、礼拝できるのは、完全な清いもの、だから、障碍のある人は、礼拝に参加する資格が無いとなります。そのような障碍とか病気は、罪の結果として、そうなっているという解釈がまかり通っていました。因果応報の考え方です。

 因果応報の考え方の末に

 この因果応報の考えは、旧約聖書を読むときに、たくさん出会います。因果応報的な教えというのは、私は幼児期の教えだと思っています。小さい子供に教えるときには、そのほうがわかりやすい。チャンと言う事聞くとご褒美が出るよ、言うことを聞かないと罰があるよ、という風に。ですから、イスラエルの民が宗教的幼児期の時には、こういう因果応報の教え方をしたのです。しかし、自立した場合には、それを乗り越えなければいけません。

 でも、当時のユダヤ人たちの中には、「障碍や病気の人は、罪人」という視点を持っていました。ですから、生まれつき目の見えない人を見て、弟子たちがふと気がつきます。生まれつき障碍を持っているということは、誰の罪なんだろう?それでイエス様に聞きます。ところが、イエスは、こう答えます。

 「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。

神の業がこの人に現れるためである。」

(9:3)

 つまり、そういう因果応報的な考え方をイエスは、完全に否定されているのです。どういう状態であっても、何かのせいだと決め付けてはいけない。どんな人にも神のみ業が現れるのだ。その例としてこの盲人の目を癒されたのですが、それが大騒動になります。

 ユダヤ人たち(ファリサイ派の人たち)にとっては、盲人の目が開かれてよかったということよりも彼を癒した人が、安息日に土に唾をつけて泥で練って目を癒した。つまり医療行為をしたという、安息日違反が気になったのです。だから、それをしつこく問いただします。何度も何度も問いただされているうちに、目を癒された人は、おそらく最初は、信仰に関心がなかった人だったと思うのですが、次第に、信仰に目覚めてきます。

 そこで、人々は盲人であった人に再び言った。

「目を開けてくれたということだが、いったい、お前はあの人をどう思うのか。」

彼は「あの方は預言者です」と言った。

(19:17)   

 追い出されて、孤独の果てに

 でも、ユダヤ人には先入観がありますから、彼の言うことが信じられないで、なおも彼の両親に会って、一体、どういうことか聞き質すのですが、上手に言い逃れされて、もう一度彼を呼び出して詰問します。

 さて、ユダヤ人たちは、盲人であった人をもう一度呼び出して言った。

「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」

彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。

ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

すると、彼らは言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」

彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。

なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」

          (9:24〜27)

 これで、ユダヤ人たちは、完全にキレてしまいます。その結果、彼は外に追い出されてしまいます。(34節)これが、この福音書が書かれた当時、ヨハネの教会の置かれた状況でした。22節に、こう書かれています。

両親がこういったの、はユダヤ人たちを恐れていたからである。

ユダヤ人たちは既にイエスをメシヤであると公に言い表す者がいれば、

会堂から追放すると決めていたのである。

 イエスの時代、紀元30年ごろには、このような取り決めはなかったはずです。こういう取り決めができたのは、紀元80年のヤムニア会議においてでした。ローマ軍によってエレサレムが完全に破壊されたのが、紀元70年です。このことはユダヤ教にも非常に大きな影響を及ぼしたのですが、心ある人たちがヤムニアというところに集まって、信仰復興会議を開た。

 イスラエルの歴史においては、いつでもそうなのですが、悔い改めるときには、信仰の原点に返る、それは律法をきちんと守るということに戻ることになるのです。その故に、自分たちの中の不純分子は取り除こうというので、イエスをメシアだと言う者は、排除しよう、イエスをメシヤと信じる者を呪おう、ということが決まります。それで、大変動揺を来たしたヨハネの教会の人たちに向かって、イエスはまことのメシヤである、人となられた神である、ということを証していこうとして書かれたのが、ヨハネによる福音書です。

 いじめられることで、自立へ

 しかし、無名の生まれつき目の見えなかった人が、目を開かれたということで、ユダヤ人にしつこく追求されることによって、彼は次第に、信仰者に変わり始めます。そして、最後にイエスに出会います。つまり、彼が追い出されたところで、イエスが、彼に会いに来られた。これも面白いですね。

 イエスは前の5章のときでも癒されてすぐに、姿を消されるのですが、何かあるともう一度現れる。ここでも癒された人が追い出されるという、完全な孤独な状態になったときに、イエスが彼の前に立たれました。

 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。

そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。

彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」

イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」

彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、イエスは言われた。

わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、

見える者は見えないようになる。」

(19:35〜39)

 この人が、イエスをメシヤだと信じると言って、ひざまずくと書いてあります(38節)。このひざまずく、と訳されている言葉は、礼拝をするとも訳することができる言葉です。つまり、こうして、イエスを礼拝する者となった。これが教会の姿です。

 ヨハネによる福音書の特徴は、現象を示してもう一つ過去の出来事を話しながら、今のことに引き換えて表現しています。ヨハネの教会が、ユダヤ教との交わりから競り出されるという状況の中で、動揺しているけれども、イエスをメシヤと信じる礼拝こそが、すばらしいんだ、と強調しています。

 目を癒された人が、ユダヤ人に詰問されて変化していく途中で、こう言いました。

 あの方が罪びとかどうか私にはわかりません。

ただ一つ知っているのは目の見えなかったわたしが今は見えるということです。

(22節)

 つまり、彼がしっかり自立していくときに、自分ではっきりしていること、それは見えなかった自分が、見えるようになったこと、これは誰がなんといっても事実なのだから仕方がない、そして、それは、あの人によってこうなったのだ。これがヨハネ福音書著者の一番言いたかったところなのではないでしょうか。

 自分の足で、自分で立って、そして、イエスがわたしたちにしてくださったこと、メシヤがしてくださったこと、それは確かなことなのだ、ということを言おうとしているのではないでしょうか。

 ナンバーワンではなく、オンリーワンに!

 新垣勉というテノール歌手の牧師さんがいます。全盲の方です。とてもきれいな声の持ち主で、最近ちょくちょくテレビにも出るようになった方です。最近、有名な人と一緒にテレビに出たりして段々売れ出しています。多分、今年52歳か53歳くらいで、沖縄出身です。お父さんがラテン系のアメリカ兵、お母さんが沖縄の人、彼が生まれるとすぐに離婚して、お父さんはアメリカに帰ってしまい、お母さんは別の人と再婚します。

 彼は孤独に陥り、おばあさんさんに育てられました。子供時代は、そのおばあさんが母親だと思っていたそうです。時々会いに来るお母さんは、年のあいたお姉さんだと思っていました。ところが、そのおばあさんが、彼が中学二年生のときに亡くなります。そしてすべてが分かった。それで彼は非常に落ち込みます。両親を恨む、それから彼が全盲だったというのは、生まれつきではなかったのです。助産婦の間違いだったのです。

 家畜の洗浄液を間違って、目を洗浄するために使った。そのため見えなくなったのです。ですから、彼は両親と自分を全盲にした助産婦に対する恨みが、心の底に渦巻いていました。おそらく、今日の福音書の主人公も癒されるまでは、ずっと同じ状態だっただろうと思います。絶えざる差別と無視、孤独、こうして世をはかなんだり、恨んだりしながら生きてきました。

 そういう中で、彼はあるとき、ラジオで米軍の放送を聞いているうちに、讃美歌が聞こえきて、これに感動したことがきっかけで、教会に行き始めます。でも、信仰なんていや、神様なんていやだと思っていました。神様がいるのなら、自分がこんな目にあうはずがないと思っていましたから。ただ、讃美歌を歌うためだけに教会に行っていたのですが、夏のキャンプに誘われまして、そこですっかり生まれ変わりました。そして一挙に、洗礼を受ける決心をすると同時に、自分は献身する、牧師になりたいと決心をします。

 その後、彼の行った教会の牧師さん、城間祥介先生と言いますが、その先生が、それじゃ家に来なさいと言われて、すでにお子さんが三人いらしたのに、もう一人の次の子として、牧師館で育てられます。こうして、神学校に入りました。神学校に入ってから、彼は伝道者になるのだから、音楽は捨てると決心していたのですが、神学校の聖歌隊で練習していたときに、指導してた先生が、あなたのその声を神様にささげないで、そのまま天に召されたら、神様にどういわれると思うの?あなたのその声を育てなければ駄目、と言われました。彼は、小学校の音楽の先生にも目をつけられていました。目が見えなくても楽譜がわかるのよと言われて、点字で楽譜が読めるようになっていました。

 神学校でもまた優れた指導者に出会い、ボイスレッスンを徹底的に受けることになります。それで非常にいい発声をするようになったのです。こうして、彼は牧師になりました。沖縄の教会と福岡の教会で牧師として働きました。だけどそれから、やっぱり音楽を用いて伝道しようと決心して、今度は音楽学校に入ります。そして今は、日本で初めての巡回音楽伝道師になって、あちらこちらの教会で伝道します。

 彼が回心するきっかけは初めて教会に行ったその年のサマーキャンプのときでした。城間先生に、自分の気持ちを話したのです。アメリカに行って、親父を見つけて殺す、そして自分を見捨てたおふくろも殺したい、自分の目をこうしてしまった助産婦もやっつけたい、ということを全部話したところ、彼には見えないんですが、体を震わせて涙を流している牧師さんを感じたんです。自分のために涙を流してくれる人がいるということに、初めて気がつきます。それは、まさにあの盲人がイエスに目を留められて癒され、彼が追い出されたときにまた姿を現して、メシアだとしめしてくださった。それと同じです。

 彼のメッセージのキャッチフレーズは、とってもシンプルで、すばらしいのです。

 「人を押しのけて、ナンバーワンの人生を目指すのではなく、あなただけにしか生きられないオンリーワンの人生を生きる。ナンバーワンではなくてオンリーワン。」

 あなたは世界中で、一人しかいない。だから、あなたの命は、あなたらしく生きればそれでいい。誰かの真似をするとか、何番目だからどうとか、そういうことは一切関係なくて、神はあなただけを捕らえていてくださる。オンリーワンとして愛してくださる。この盲人もまさにそこに立ったから、堂々と人にも言うことができるようになったのではないでしょうか。

 私たちにも、自分で知っている唯一つのことがあるはずです。イエスに見出されている。だから、今ここに居るということです。

 祈りましょう。

 天のお父様、今日も私たちをお招きくださってありがとうございました。つい、人と比べたり、また、その中で自分を裁いて、卑屈になったり、時には傲慢になったりしがちでした。しかし、あなたは、一人一人をまったく違う個性と賜物を持って、お造りになりました。比べる必要がまったくなくて、ただ一人のなくてならない者として、お造りになりました。どうぞ、おろかな人間の価値観に振り回されるのではなくて、ただ一人与えられている命を、その命を十分に生かしきって、御前に参ることができますように、どうぞ常に支え導いてください。主イエスキリストの御名によって祈ります。アーメン

(2004年3月7日、復活前第5主日、第二礼拝説教要旨)