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足が地に着く

石川 和夫牧師

 

イエスはお答えになった。

「はっきり言っておく。罪を犯す者はだれでも罪の奴隷である。

奴隷は家にいつまでもいるわけにはいかないが、子はいつまでもいる。

だから、もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」

(ヨハネによる福音書八・三四〜三六)

 説教の準備をするときにはよく、誰かの説教集を読みます。特に心に響いてくる説教ですね。昔、松沢教会に居た時にはよく、賀川豊彦先生の説教を読みました。ちょっと時代が違いますけれども、何か胸に打ってくるものがあるんですね。そうすると、「そうか」っていう勇気が与えられてからもう一度聖書を読み、自分の語るべきみ言葉を求める、という風にしています。

 最近は、姉妹教会の高幡教会の神父だった晴佐久昌英神父の説教をよく読みます。昨日もホームページで、晴佐久神父の説教集の一覧表を見ながら、「どれ読むかな〜」ってタイトルを探していましたら、こういうタイトルに目が止まりました。

 「ちゃんと浮世離れしましょう」。

 彼のタイトルはいつも面白いですね。

 「ちゃんと浮世離れしましょう」

 どういうことかなと思いながら、読んでみると、彼はこういう風にいうんです。

 「イエスさまと心を一つにして、はっきり皆さんに申し上げます。『みなさんは決して死にません』」

 こういうところが浮世ばなれしているところなのでしょうか。カトリック教会では、礼拝のことをミサといいます。で、ミサに参加するということは、

 「こうして、聖堂にあつまって、永遠の糧のパンをいただいて、永遠の天の父に交わるという、ひと言で言えば、大変、浮世離れした仲間たちであります。私たちは世間から見れば、大変浮世離れしたことをしている。見えない神様を見えると言い、どうだかよく分からないイエスさまが、人となった神様だと言い、そして、ここにイエスさまがおられると信じて、ハレルヤと言っている」。

 天国を先取りしているところ

 よく考えてみたら、これは本当に浮世離れしていることですね。私が晴佐久神父の説教集を読むのが好きなのは、彼の説教が、一口でいうとエッセイ風説教だからです。この、いかにもカトリックらしい説教。多分、神学校の説教学の先生が採点すると、悪いけれど、あんまりいい点つけないんじゃないか、という、感じの説教なのです。

 彼の説教は、信じるということがたくさん伝えられる。われわれプロテスタントの牧師の説教はどうしても道徳、倫理になる。こうしましょう。だからもっと祈りましょう、礼拝に忠実に出席しましょう、とか、そういう倫理的な勧めになる。だから、「そうか!」と納得しても、頭の中で、こうすべきだ、とか、こうすべきでない、というのが、ずっと残ってしまいます。だから、どこか窮屈になります。

 信仰というのは、まさに信じる事です。晴佐久神父は、説教のたびに言っているみたいですが、「ミサに出席するのは、楽しくって仕方が無い、嬉しくって仕方がない、ここは私の行くところだ、天国の宴会に今、私たちはあずかっている」と繰り返しておっしゃっています。

 私はつくづく、説教というのは、教えとか、倫理を説くのではなくて、信仰が証しされる、信じるということに勇気づけられる説教でなければならないな、ということを彼から学びます。

 たとえば、この間亡くなった○○さんも今日、ここにいますよ、と言われる。すると、昨年亡くなった○○さんもそして、○○さんもここで一緒に礼拝している、それが我々の礼拝じゃないかって。天国を先取りしているところ、思いがいつもそこにいってなきゃ、礼拝にならないですね。だから賛美をし、み言葉を聴いて、天に繋がって、

 「そうなんだ、私は天の神さまに造られて、人となられたイエスさまが『おまえ、来いよ』と言ってくださって、いつもそばに一緒にいてくださる。そして『おまえは神さまの神殿だぞ』、『おまえの中に、神さまが住んでいるぞ。だから、くよくよするな』とおっしゃってくださっている」

と天国にいる自分に気づかせられるのです。

 見当はずれのユダヤ人

 今日のテキストもそうです。七〇年に、対ローマ戦争でエルサレムが神殿も含めて徹底的に壊滅してしまいました。同時に、ユダヤ教も壊滅の危機に瀕しました。そこで、ユダヤ人がユダヤ教を巻き返すために、ヤムニアというところで、紀元八〇年頃に、信仰復興会議をして、律法を忠実に守ろう、そしてナザレのイエスを「メシア、救い主と信じる者を排除しよう」ということを決めました。

 そのため、ヨハネの教会の中で動揺が起こりました。それまでは、あまり、境がなかったのです。ユダヤ教とキリスト教とは。ユダヤ教イエス派、という感じでした。そして、態度をあいまいにしながら、イエスさまもいい、ユダヤ教の交わりもいい、と宙ぶらりんだったのが、けりをつけなければならなくなったのです。

 すると、けじめをつけるのに迷う人が出てきました。明らかに脱落する人も出たのです。それに対して、イエスが本当に神なのだということを示すために書かれたのが、このヨハネによる福音書なのだ、といわれています。ここに登場するユダヤ人たちというのはユダヤ教徒ということですが、このユダヤ人たちがイエスと見当はずれのやりとりをする、これがヨハネによる福音書の特徴です。

 マルコによる福音書の方は、イエスの弟子たちがイエスに対して、見当はずれの対応をするという書き方なのですが、ヨハネによる福音書では、ユダヤ人が見当外れの対応をしている、という書き方をしているのです。

 イエスが、神さまのことを父と呼ぶことにユダヤ人たちは、とても抵抗を感じました。ユダヤ人たちは、父なる神さまは信じるのです。そこはいいのですが、イエスが「私の父が」というと、「あれ!」とひっかかります。これは、神を冒涜しているということになるのです。神ひとりのほか何者も神としてはならない、という信仰ですから、神が人となられるというということは、到底、考えられないのです。ましてや、神さまのことをなれなれしく、「わたしの父」と呼ぶなんて、なんと神さまを冒涜するか!というわけです。

 そこで、見当はずれのやりとりが起こるのです。今日のテキストにもそのことがよく表わされています。

 イエスは、御自分を信じたユダヤ人たちに言われた。

「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である。

あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」

すると、彼らは言った。「わたしたちはアブラハムの子孫です。

今までだれかの奴隷になったことはありません。

『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」

(ヨハネによる福音書八章三一〜三三節)

 この「自由にする」という言葉は、奴隷が買い取られて自由になるときにも使われるので、ユダヤ人たちが、自分たちは奴隷になったこともないのに、どうして自由にならなければならないのか、という疑問が出てくるのです。だから、イエスは、あなたたちは「罪の奴隷」なのだ、と説明されます。

 ユダヤ人たちは人間の作った世界に居る。イエスは本来、神の造られた世界に生きている。あなたたちもその神の世界に生きることができると。そうすると自由になるのだとイエスは言っておられるのです。

 ハッピーエンドでなくても

 私は「足が地につく」という題をつけたのですが、自由に生きるとは、足が地に着いた生き方をする事だと思います。何かに振り回されない。人間だから、動かされる事があるのですが、礼拝の中で、あるいは、日々の祈りの中で、もう一度、

 「私は神の子なんだ。神の神殿なんだ。神はここに居る」という、神の造られた世界に戻ります。だから、目の前で何が起こっても、揺り動かされない、原点にもどることができる。そういう風にして、足が地に着いた生き方が身についてくるのです。

 つい最近、ドイツのボンヘッファー牧師の説教集が発行されました。その中に、子ども向けの説教があります。残念ながら、翻訳が硬い。どなたが翻訳されたのか、見てみると、ひとりが1924年生まれ、もうひとりが1934年生まれでした。翻訳が硬くて、もったいないという気がしたのですが、内容的には、すばらしいのです。

 私たちのいのちは、必ず死ななきゃならないのですが、神さまは、死だけでなく、命をも与えてくださっている。そして、究極の帰るべきところを用意してくださっている。だから、人間的に言うと、死というのは恐ろしい、イヤなことになるけれども、必ずしもそうではないよ、ということを子どもに向けて話したのです。

 これは1929年の説教なのですが、この年は私の生まれた年でもあります。だから、私も相当な老人でもあるわけですが、その頃の戦争の話です。

 第一次世界大戦で、ドイツの兵隊さんが二人、フランスの戦線で、ある冬の日、重傷を負って地面に横たわっていました。一人は、五〇歳がらみのわりと年をとった兵士。もう一人は、二十歳そこそこの若い兵士です。この二人は親子でした。

お父さんは、息子の事を心配して、

「大丈夫か、大丈夫か」

と励ましていました。息子もしっかりしていて、

「大丈夫、お父さん、心配しなくっていいよ。 神さまが一番いいようにして くださるから。どうしてもダメだったら、神さまの国に呼んでくださるだろうし。どっちにしても大丈夫だよ。」

とお父さんに答えました。時間が経つにつれて、だんだん二人とも弱ってきました。息子が、

 「お父さん、聞える?どうも神様がぼくを呼びに来たみたいだ。だから、お母さんに急いで手紙書くよ。」

 体が弱っていく中で、お母さんに手紙を書きます。

 「ぼくが死んだと聞いても、泣かないで。ぼくが今、喜んでいるのと同じように、喜んでほしい。なぜって、今、ほくは、素晴らしい経験をして、神さまといっしょなのだから。」

 こういう手紙だったのです。やがて、二人とも亡くなって、国にいるお母さんにその知らせが届きます。お母さんは、大変悲しみました。二人一度に死んでしまうという大変な悲しみに襲われたのです。しかし、息子さんからの手紙を渡されて、それを読んだ時に顔色が変わります。そして、こう祈りました。

 「神さま、お許しください。自分勝手なことを言っていました。しかし、私の愛する夫と息子は、喜んであなたのもとへ行っています。今もみもとで喜んでいるのに、私が悲しむということはどういうことでしょう。」

 そのことをお葬式に参加した人達やお見舞いに来た人達に話したそうです。そして、多くの人がその証しによって恵まれた、ということです。

 普通に考えたら、死は悲しいことですが、最終のゴールがはっきりしているときは、それは喜びになるのです。だから、いつも喜びに満たされていましょう。我々はいつもHappy End(ハッピーエンド)を望んでいますが、結局、Happy Endになるかどうかは、あまり関係ありません。なぜなら、究極のHappy Endが約束されているのですから。

 その典型が、イエスさまです。わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか?と言って息を引き取られた。こんな、悲劇はないじゃないですか。人が見たら、何のために生きた人生だったのだ、って言う、そういう人生じゃないですか。

 でも、だいじょうぶ。いつも、じっと神さまのもとにいます。だから、私たちが、どうなるか、という結果については、全然心配がいりません。礼拝の度に、天国を先取りしているからです。だから、いつも「神さま、ありがとうございます。」と言いながら、生きていきましょう。

 (二〇〇四年二月八日、降誕節第七主日、第二礼拝の説教要旨)