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だから、信じて、待て

石川 和夫牧師

  いかに美しいことか

  山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。

  彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え

  救いを告げ

  あなたの神は王となられた、とシオンに向かって呼ばわる。

    (イザヤ書五二章七節)

 ご存知の方も多いですが、我が家では、チコという名前のマルチーズを飼っております。一〇歳で、私の信仰の先生なのです。まず最初に学んだのは、あのかわいらしさというのは、どこから来るのかな、と思って注意して観察してみると、彼女が善悪の知識を持っていない、ということに気づきました。

 人間だけが、善悪の知識を持っている。人によって、いろんな価値観を持っています。夕べも、テレビでやっていましたが、「バカの壁」ということを説いた学者さんがいます。養老孟司先生です。つまり、誰でも心の中に、なんらかのバリアを持つ。それがフィルターになって、いろんな物事を受け止めたり、反応したりするのですが、動物にはそれがないのです。常に、いつでも、あるがままを受け入れているのですね。

 最近は、留守番させることが多いんです、クリスマスだ、バザーだというので、うちのかみさんも出ていますから、ひどいときはもう、朝から暗くなるまで留守番をさせられます。ケージの中に入れられて、大分ワンワン騒いだ形跡があるのですが、それでも帰ってきたら、「今まで何してたのよ!」なんて反応はなくて、もう、初めて会った時のように、嬉しそうに飛び回る、そして、こちらは和みます。こういうことは、人間には、できないですね。

 そして、もう一つ、私が学んだのは、チコは、何が良くて、生きているのだろうかなぁ、毎日、同じ物を食べさせられて、どこか、珍しいところへ行くわけでもなし、いつも同じところに居て、何が面白いのだろう。でも、人に会ったら、あんなに喜んでいる。私はそれを見たときに、彼らは、待つということが、生きるということだなぁ、と思うのです。

 どんな時でも待つ。まず食事を待っている。もうこれは、極めて正確ですよ。どういう時が、食事の時かということがわかっていますから、うちのかみさんが、台所へ行って、何か準備を始めたら、もう座って待っていますね。という具合に、とにかく待っている。食事が終わったら、また次に、何かもらえるのを待っている。

 そして、何も無いとなったら、寝に行くわけですが、私など気まぐれなので、せっかく寝ているのに、声をかけて、起こしてしまったりすることがあるのですが、そんな時も、お腹を見せて、従順な姿勢をとる。こういうふうに、常に待っている。私は、本当に生き生きと人を受け入れ、しっかり生きていくことができるというのは、待つことが出来る者なのだな、と学んだのです。

  何を待っているか?

 人間も、本当に、何を待っているのかということが、はっきりしていない人は、やっぱりいろんなことに振り回される。そして、自分中心にいろんなことを受け止めて、反応して、周囲の人を嫌がらせたり、困らせたり、というということになりがちです。自分の存在が、人を楽にさせて、うれしくさせる存在になる、これが、私たちの証しで、人に説教しなくてもいいのです。あなたがいると、とても、何となしに楽になる、そういう存在。それがキリストの香りじゃないかと思います。

 今日からアドベントに入ります。そして、リタージカルカラーが、悔い改めを表す紫色になりました。これは直接的にはクリスマスを迎えるために悔い改めるということなのですが、アドベントという言葉の本来の意味は、「来臨」ということです。キリストがおいでになる。一度は二〇〇〇年前、肉体をとっておいでになりました。そして、「セカンドアドベント」、二度目においでになるのが、世の終わり、完成の時。ですから、終末信仰を確かめるときでもあるのです。

 だけど、キリスト教の中でも、終末を間違えて受け取っている教派があるような気がします。つまり、最後の審判だけが強調される。しっかりした信仰を持っていない人は、地獄に落とされ、悔い改めて、忠実な教会生活をしている人だけが天国には入れる、ということが強調されています。これは間違いだと思います。最後の審判はあるのですけれども、神は、必ず全ての人をお救いになる。私はこれを、完成と発表の日と呼びますが、これが究極の望みなのです。

  なぜ、奮い立て、なのか?

 今日の中心の聖書箇所のイザヤ書五十二章一節から一〇節をご覧頂きますと、まず、「奮い立て」という言葉から、始まっています。

  奮い立て、奮い立て、

  力をまとえ。シオンよ。(一節)

 そして、主は王としておいでになる、

しかも、七節を見ると、

  いかに美しいことか、

  山々を行き巡り、良い知らせと伝える者の足は。

  彼は平和を告げ、恵みの良い知らせを伝え

  救いを告げ

  あなたの神は王となられた、と

    シオンに向かって呼ばわる。

 つまり、うれしい知らせを伝える者は、本人もうれしいし、周囲の人にとっても、ああ、いいな、という、そういう嬉しい知らせ、それが福音ということですね。ですから、それを私たちも知らせる者になりたいということなのです。

 ここで、「奮い立て、奮い立て」と言われているのは、紀元前五八七年に始まったバビロン捕囚という、いわば、イスラエルの歴史の中では、最低の暗黒の時代が背景にあるからです。エルサレムは破壊しつくされ、主要な人々がバビロンに連れて行かれた。しかし、たとえば、シベリア抑留のような強制労働をさせられたり、酷い所に住まわされたりとか、ではなくて、かなり自由はあったのです。家を建てて、仕事もできた。王に反抗しない限りは、大概のことは、許されていた。

 だけど、精神的には、本当に苦しかった。なぜならば、バビロンでは、空中庭園と言われる広壮な建築物があり、エルサレムにあったソロモンの神殿がすごいと思っていたのが、そんな物とは比べ物にならない大きな神殿とか建物を目にします。そして、「神々」がすごい幅を利かせている。当時の人々の考え方は、戦いは守護神と守護神の戦いだと信じていますから、マルドゥークというバビロンの守護神がユダの守護神ヤハウェに勝った、と人々はみんな思っていました。

  負けるのも無理はない、という現実

 ちょうど、敗戦直後の日本人が、ニューヨークへ行ったようなものです。圧倒的に違う。物に溢れ、そして、活気にみなぎっている、そういうところを見たら、これだから負けたんだ、と痛感させられたと思うのですが、ユダの人々も、同じように、圧倒されたと思います。しかし、もっと苦しいのは、精神的に馬鹿にされたことです。お前たちの神が弱いから負けたのだ、と。詩編の四二編には、

  昼も夜も、わたしの糧は涙ばかり。

  人は絶え間なく言う

  「お前の神はどこにいる」と。(詩篇四二編四節)

 この、繰り返しです。

 「お前の神は、どんな神か、見せてみろよ」

 「我々の神は、目には、見えない方です。」

 「そんなものを信じているから、このざまじゃないか」

 これでは、グウの音も返せない。悔しくて、悔しくて・・・、でも返す言葉がありません。

 詩編の一三七篇には、宴会でお前たちが礼拝で使う歌を歌え、とさんざん馬鹿にされたので、そんなことができるか、と言って、バビロンの河のほとりの木に楽器をかけて、泣いたと書かれています。バビロンに捕らわれている人の精神状況というのは、とにかく、悔しさに満ち溢れていました、何て、情けないんだと。

 このような時代背景の中で、第二イザヤという預言者が、「奮い立て、奮い立て、王が必ず来られるぞ、」と言ったのです。

  まだか、まだか、ではなく

 約五〇年後にペルシャ軍がバビロンに無血入城します。そして、ユダの人々は、新興国ペルシャのキュロス王によって、エルサレムに帰ることができたのです。しかし、その後も、時代は、あまり良くはなりませんでした。ユダの人々は結局、長い歴史の中で、本当に、理想的な時を迎えたかというと、そうではありませんでした。目には見ることができなかったけれど、信じ抜くしかなかったのです。このことについて、もう亡くなられた東京神学大学の旧約の左近淑先生が、

 「『神を待ち望む』とは現実の事態に<反して>とる態度であり。それによって、現実の暗さと重みとを乗り越える、在り方を指す。」(左近淑「低きに下る神」、ヨルダン社、七七頁)

と言っておられます。

   なぜ、うなだれるのか、わたしの魂よ

   なぜ呻くのか。

   神を待ち望め。

   わたしはなお、告白しよう

   「御顔こそわたしの救い」と。

   わたしの神よ。

これは、詩篇四二編の六節ですが、これと同じ表現が、一二節にあるし、四三編の五節にもあります。繰り返し、なぜうなだれるのか、と自分に言い聞かせている。それで、この四二編の「涙だけがわたしの糧だ」(四節)という現実の中で、「神を待ち望め」と言う。

つまり、単に、事態が好転するということを期待しているのではなくて、左近先生のおっしゃっていることは、それに向かっていく態度なんだ、それが神を待ち望め、ということなのです。

 我々は、たとえ、どんなことがあっても、神が完成してくださるところに向かって生きている。それだけが、究極の望みなのです。そのことを待ち続けるのです。だから、今がどうであっても、まだ立てる。これが、待ち望むという信仰の基本なのです。

 左近先生は、「神待望はベンダサンのいうように『まだか、まだか』と待つことではない。それは本来的に信頼の行為である。それは七〇人訳(旧約聖書のギリシア語訳の一つ)がヒブル語の『信頼する』という動詞の多くを『希望する』というギリシア語に訳したということによっても示されよう。」と言っておられます。

 つまり、「まだか、まだか」と待っていることは、自分の期待への依存です。そうじゃなく、事態がどうであっても、神が究極は、完成されるのだ。だから、そのことを目指して生きていこう。これが信じて、待つという生き方の基本ではないでしょうか。そうするとイザヤ書の五二章の「奮い立て、奮い立て」という言葉に、本当に「そうだ」と受けて、立つことができるのではないでしょうか。

 私たちも、もう一度、何を待とうとしているのかということを、このアドベントの期間、振り返ってみたいと思うのです。

 祈りましょう。

 聖なる御神様、今日も私たちをお招きくださってありがとうございました。

 私たちは暗い現実の中に生きています。この国もどんどん昔のようになりつつありますし、世界も大国の一極支配のために、暗さを取り去ることができません。でも、あなたは一人子を下して、私たちを愛されました。

 どんなに暗くても、信仰の先人たちは、望みを持ち続け、そして、究極の完成者であるあなたを待ち続けました。私たちも同じように、希望を持って待ち続け、そして、人々に仕えて参ります。どうぞ、弱い者ですけれども、常に御手をもって、支えてください。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

(二〇〇三年一一月三〇日降誕前第四主日、待降節第一主日(アドベント)第二礼拝説教要旨)