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「見当違いの判断」

石川 和夫牧師

 (創世記 3:1〜15)


 「生きている間、母はごくわずかな人のものでした。しかし、母はこの世を去ることによって全ての人のものになりました。」

 これはもうすでにこの世をさられた、カナダ、トロントのラルシュ共同体という知能障害の人たちの共同体で、チャプレンをしておられたヘンリ・ナウエン氏の言葉です。どういうことかといいますと、彼がみんなの前で自分のお母さんのことを褒めようとするとお母さんは随分当惑されて、そんなこというもんじゃない、というふうにちょっと困られた。だから、それを言うと、お母さんが嫌がるだろうな、という制約をいつも覚えたのですね。ですけれども、そのお母さんが亡くなった今は、もう、お母さんも自分を止めないだろうし、困惑することもないだろう、なぜなら、もうお母さんは、自分だけの母ではなくて、命のある間のみならず、その死においても非常に何か大事なことを教えてくれた一人の女性だ、その息子が、その教えを語るのに、もう遠慮はいらない。だから、もうすでに、みんなのものとなったのだ、ということなんですね。

 このような考え方が、どのようにして起こったのかということが、今日一緒に考えてみたいことなのです。

 今日は聖徒の日、永眠者記念日の礼拝でありまして、こうして、すでに天に召された方たちの写真と共に礼拝をしております。厳密に言いますと、私たちの主日の合同礼拝においては常に天上にいる方々も私たちの礼拝に参加しておられるという信仰に基づいて礼拝をしているわけなんですね。特にそのことが強く意識されるのは、使徒信条を告白する時、これはもう、その前に亡くなった人たちも、世界中、時代を超えて約2000年近く前の人と共にこの告白をする、その繋がりがあるわけですね。しかし、今日は特に、天上の方々を覚えて共に祈り、礼拝をしようということなんです。

 今日の主日の主題が「堕落」となっていまして、中心の聖書の箇所が、創世記の3章1節から15節です。これは、お読みになってわかるように、人間の一番最初の罪についての物語です。蛇にだまわされて、まずエバが食べてはいけないと言われていた「善悪の知識の木の実」を食べた。そして、続いて、夫にも与えたら、夫もすぐ食べた。そして、それを神様に咎められ、それから、いろんな言い訳が始まるわけです。この物語は今から約3000年昔、イスラエルのダビデとソロモンの時代、とても繁栄した時代にこの物語は生まれたと言われています。先週の創世記1章のところは紀元前587年にイスラエルが滅びた時の暗黒の時代の信仰宣言だったわけですが、この創世記2章と3章は繁栄の時代、いわゆる、右肩上がりの時代にある種の警告を含んでいるわけです。2章と3章これは物語の形を取っていますが、非常に鋭い人間論、人間とは何か、ということが書いてある。しかし、新約聖書の中でも、この物語をその通りにとって、とんちんかんなことを言っている言葉があります。女の方が罪深い、なぜならば女の方が先に蛇にだまされたからだ、なんて言っていますが、これは順番はどちらでもいいんです。つまり、食べてはいけないと言われている善悪の知識の木の実を食べたということが、人間の一番の悲劇、つまり、今日のところで読んでみますと、

食べたとたんに二人の目は開け自分たちが裸であることを知り、

二人はイチジクの葉を綴り合せ腰を覆うものとした。

 この物語の大事なポイントです。もう一つのポイントは食べてはいけないという命令を守っている間、2章の一番最後、人も妻も二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。つまり、あるがままを受け入れている。そして、率直な隠し事のない歩みをしていたのだけれど、この善悪の知識を食べたことであるがままを隠すようになった、つまり、これは恥ずかしい部分だとか、人間が自分で判断しました。だから、人間が自分中心に判断をすると、死ぬほどの目に遭うぞ、というのが神様の禁止の命令の意図だったのですね。だけど、ここで、エバとアダムは蛇にだまされて食べたのですが、すぐには死んでいないのです。やっぱり生きている、蛇の言うとおりなんです。神様と同じようになったら困るからだという蛇の言い方だったのですが、これは私は、人間の悲劇の原因が、この善悪の知識にある、これを人間が勝手に思い込む、見当はずれの判断、それが罪なのだということです。この見当はずれの判断が、全ての「ボタンの掛け違い」を生む。まず判断が狂う、そうするとその次に、神様が歩く音が聞こえた時に彼らは隠れてた。神から隠れよう、神を避けようとする。その次に神に「どこにいるのか?」と言われたら、言い訳をするんですね。「いるところわかりましたか?」と言うのであれば、会話が生きているのですが、ただなぜ逃げたかの弁解をしている、つまり、会話の行き違い。これも私たちの普段の生活の中でしばしばあります。そしてその次が責任転嫁。蛇が私をだました、アダムの方は、エバが食べさせた。全部上手に、しかもアダムの言い方なんて、今の子供たちが言い訳する時こんな言い方しますよ、「誰の子だと思っているのか?」ってね、誰が生んだんだ、見たいな事を言う。ちょうどアダムは「あなたが私と共にいるようにして下さった女が木から取って与えたので食べました。」いかにも神様が悪いと言わんばかりの言い方、この言い訳上手というのは人間の天性のようですね。そして、その結果、私は性差別が起こった、そして、男の労働が報われないという悲劇が起こった、それがこの創世記3章の物語のこしだと思うのです。

 こういう見当はずれの状態のまま聖書では死というのは罪の支払う報酬であるという考え、つまり神様が罰としてお与えになっているというわけですが、だけど、単なる、死というのは神様の罰ではなく、繰り返し言いますように、イエス・キリストにある時には新しい永遠の命への誕生の時、あるいは、葉っぱのフレディで学んだように単なる変化の一つに過ぎない。ですから死が終わりなんだという考えには基づかなくて、住む所が変わるだけ、だけど存在しているという考え方になるわけです。そして、それをナウエン神父は、とっても尊敬して大好きだったお母さんだから、大変ショックをうけるわけです、しかもお母さんは大変苦しい思いをして、苦しんで苦しんで亡くなられた、それは、どうして?あんなすばらしいいい母なのに、何でそんなに苦しんで死ななきゃならないのだろう?というふうな思いに捉われたのですが、ちょうどそのお母さんの亡くなり方とイエス・キリストの亡くなり方と、彼は重ね合わせたんですね。それで、自分はとても悲しんで、早く亡くなった人のことを忘れなくてはいけないと思っていたのですけれど、よく考えてみると、忘れなくていいんだ、思い切り泣く時に泣こう、そして、悲しんで、弟子たちもイエスが亡くなった後40日そのことについて、もう引き込んで落ち込んだままだった、それで、ナウエン神父はこう言われるんです。

「私は嘆き痛まなくてはならないのです。そうすれば聖霊がやってきた時に、聖霊をいただく心の用意ができているのではないでしょうか?」

 つまり、弟子たちが、あの苦しんで、何だったんだ?という迷いと悲しみの果てに、すっと新しい命、そうかと彼らが復活の命に預かる変化に至るわけですね。ですから、悲しんじゃいけないとか、早く忘れなくちゃいけないじゃなくて、それは思いっきり心のうちに持ってていい、だけど、それがきっと高められて、どこか遠くに行ったのではなくて、今や自分の内に住んでいるんだと思えるようになる、それが先ほど言ったナウエン神父の「みんなのものになったのだ。」という告白ですし、あるいは「キリストの聖霊の内にキリストの聖霊を通して母は本当に私の存在そのものの一部になってしまっていたのでした。」という告白をします。

 私たちは意識していないけれども、いろんなものを既に召された人の中から受けている、そして、それが自分の中に生かされている。私のものになっているんだ。そのことをやっぱり忘れてはならないでしょう。そのことを受け止めることによって、ゆとりが生まれる。だから、見当違いの判断をする者なんですけれども、そこでイエス・キリストによって受け入れられていると知ったものは、それを今度は客観的に笑い飛ばすユーモアが生まれるんですね。

 デーケン先生が、もう50年近く日本におられたのですが、日本に来られて、まだ日本語が上手でない時に、いろんな失敗をされたことを、告白されています。日本に来られて間もない頃、ある日本の家庭に夕食に招かれたんですね、それで、そそうがあってはいけないと思って、アメリカ人の先輩に、どうしたら良いか相談したんです。すると、こういうふうに教えてくれたんです。ルールは3つだけ、簡単だ、第一はいつもニコニコしていること、第二はときどき頷くこと、第三はたまにそうですね、ということ。この3つを守っていたら間違いないと教えられて、彼はその気になって、その夕食の会に行ったのですね。

 それで、夕食会が終わって帰るときになって、奥さんが「お粗末さまでした」と言ったのですね。それで、彼はニコニコして、大きく頷きながら、「そうですね」って答えたんですね。そしたら、奥さんがとてもびっくりした顔をしているので、何かとんでもないことを言ったということに気が付いたんですね。そして落ち込むわけです。何て自分はおっちょこちょいなんだ…だけど、彼はその後、聖霊の助けのうちに、そうか、自分の失敗をジョークにしてしまおう、だから、同じ外国から来た人で、言葉に困っている人に、自分も最初こうだったんだよ、と話すと、みんなが笑う、誰でもやっているんだ、というふうになる。そして和やかになる。つまり、本当の親しい交わりというのは、失敗を明かしあえる交わり、それが本当の交わりなんです。立派なことを自慢しあうところで、本当の交わりは生まれない。教会の交わりは失敗を互いが笑いあえる、それはしかし、失敗した本人が自分を笑う、それがユーモアということですね。私たちはそういうユーモアへと変えられる。喪失の悲しみをユーモアに変えられる、その霊に導かれているということを感謝したい。そして、イエス・キリストがあの大変な苦しみの中にありながら、「わが霊を御手にゆだねます」と告白できた。そして、その霊が私たちの内にも今生きている、ということを常に感謝して生きていきたいと思います。

 お祈りしましょう。

 聖なる御神様、今日も私たちをお招きくださってありがとうございました。すでに御もとに召されている無数の人々のいろいろな良いものを私たちの身体のうちに受け止めて今日生きています。考え方や癖の中にもそういうものが残っていますし、そして私たちの身体自身がそれらの聖徒たちからの遺産を受け継いでいるものです。私たちの中に聖徒たちが生き続けていてくれるがゆえに、今の自分がいます。あなたの御もとで永遠の命の歩みを続けている聖徒たちを思いながら、私たちもまた見当違いの判断でしばしば苦しみ、あるいは人を傷つけ、落ち込む者ですけれども、それをあなたが赦して受け止めていてくださることを、信じて、それを常にユーモアに変えていくゆとりを与えてください。

主 イエス・キリストの御名によって御前にお捧げします。