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「いつも始まり」

石川 和夫牧師

  初めに、神は天地を創造された。

(創世記一・一)


 「ことによるとキリスト教とは結局のところ正しいことを行うことを心がけながらより良い人生を送ることである。というように、考えている方がいるかもしれません。しかしそれは本末転倒した考え方です。キリスト教とは私たちが何をすべきか、どのように生きるべきか、ということではありません。何よりも最初に大切なことは神がキリストにおいて何をしてくださったかということです。神がどのような方なのかを最初に知っていなければ、私たちがどのように生きるべきかは、わかりません。ですから、最初に、神の御名は聖なるものである、と口にすることによって、どのように生きるべきかが、私たちに告げられるのです。創造主を知ることから、被造物がどこを目指して歩いていけば良いかが告げられるのです。」(W・H・ウィリモン、S・ハワース「主の祈り」、教団出版局、二〇〇三年一〇月二四日、初版、八九頁)

 これはアメリカの神学者であり、牧師であるW.H.ウィリモンとS.ハワースという人の共著で、「主の祈り」という本の中にある言葉です。この先生たちは大学のチャプレンなどもして、学生たちにいろいろ聞かれるようで、一冊の本になっていますが、とても現代的で私たちにぴったりのことが伝えられているわけですが、ここで、「創造主を知ることから被造物がどこを目指して歩いていけば良いかが告げられるのです」と言われています。

 礼拝の暦の始まり

 今日から教会の暦が変わりました。降誕前節、クリスマスの広い意味での準備の期間に入るわけですが、その一番最初の主題が「創造」、そして、中心のテキストが今日から旧約になります。その創世記1章1節からです。この創世記は、お読みいただくと、世界が創られた順序が書かれているわけですけれど、もうすでに天上に行かれた左近淑という東京神学大学の旧約の教授がこういうふうに言われました。

 「創世記1章は世界がどのように成立したかを記したものではない。そうではなく、世界と人間の存在の確かさがどこにあるかという、当時の、緊急かつ根源的な問題に答えたのである。創世記1章が深く見つめているのは世界の不確かさである。それは2節に現れる。」(左近淑「混沌への光」、ヨルダン社、一九七五年一一月二五日、初版、一九,二〇頁)

 それは、地は混沌であって、闇が深淵の表にあり、神の霊が水の面を動いていた、と書いてあるわけですが、この「動いていた」という言葉は走り回っていたという表現なのですね。この創世記が書かれたのは紀元前6世紀のイスラエル、ユダ王国の滅亡以後…つまり、それをバビロン捕囚というわけですが、国が滅ぼされ、エルサレムが破壊され、そして人々がバビロンまで、つまり、今のイラクまで抑留される、ですから、もう全てが終わった、という状態の時に、イスラエルの人たちの信仰がまた燃え始めたのですね。

 地は混沌であってと言いながら、神の霊が水の面を走り回っていた。しかも、その最初の言葉が、「初めに神は天地を創造された」です。この「初めに」という言葉は、すべての根源は、という意味を持った「初め」です。だから、全ての根源は、天地創造の神にある。そして、その神無しに一切のものはあり得ないという主張が、この創世記の創造物語なのです。

 当時の科学的な認識は地球が平らで、空が丸かったという認識ですから、これをもって世界がどのようにできたかを示した真理の書だというのは、ひいきの引き倒し、私はそういう聖書の読み方を聖書偶像主義と呼ぶのですが、そうではなくて、このメソポタミア地方に古くからあった創造物語を材料にしながら、打ちのめされてしまった当時の人々が、「まだ違う、終わりではない、始まりなのだ」という信仰を力強く宣言したのが、この創世記1章なのです。

 神のイメージとは

 その意味で、私は、「いつも始まり」と題を付けました。「永遠の命」ということが言われるのですが、永遠の命というのは、無限に生き延びるという意味ではなくて、永遠なる神と常に結びついた命、それは具体的にはどのような生き方になるかというと、今ここに生きる、つまり、常に今、過ぎ去った過去はもう取り戻せない、未来はまだわからない、とすると、今ここに生きるということは、今から始める、常にいつも、始まる、何を始めるかということを問われる時に、神を見上げたときに、さあやりなさいよ、というふうに言われる。

 私は、創世記が大好きですから、じっくり説明をしたいという気持ちがあるのですが、限られた時間ですから、その次に飛んで、一章の二六節、「神は言われた」つまり、我々が何をするか、という部分ですね。

 神は言われた。

「我々にかたどり、我々に似せて人を創ろう。

そして、海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うもの、全てを支配させよう。」

 神はご自分にかたどって、人を創造されたというふうに書いてあります。

 ここでまず、あれ?と思うのは、神はただ一人なのに、どうして我々と複数で言うのだろうと、感じられるだろうと思います。これは、昔から、議論のあるところで、いろんな意見があるのですが、このところ落ち着いている意見を申しましょう。

 当時の旧約聖書の考え方が、ヨブ記一章にあります。

 ある日、主の前に神の使いたちが集まり、サタンも来た。(ヨブ記一・一)

 天上の神の前の天使たちの会議の場面です。そこにサタン、つまり堕落した天使も出席を許されていました。ここには、悪の誘惑者、サタンも神の支配の下にあることが示されています。

 旧約聖書で、神というときに、天上の会議参加している天使たちも含めるのです。その中には、悪魔も入っている。で、悪魔にヨブを誘惑することをお許しになって1章が始まるわけです。天使たちを含めて、「我々」という表現になったのだろうと言われています。

 ここで、もっと大事なことは、「我々に似せて、」と書かれていることです。二七節には、      神は御自分にかたどって人を創造された。

とありますが、この、「似せて」とか「かたどって」という言葉は、今よく使われる「イメージ」という意味が含まれています。で、このイメージという言葉は、単に、我々が神に似ているということじゃなくて、当時の考え方は、アメリカの旧約学者B.W.アンダーソンという人が、「新しい創造の神学」という本の中で、述べているのですが、古代のエジプトの考え方の影響を受けているのだそうです。(B・W・アンダーソン「新しい創造の神学」(教文館、二〇〇一年一〇月一〇日、初版、一九三頁)

 エジプトにおいては、王が、王の地位に着くときに、祭司にこのように言われます。

 「あなたは私の愛する子であって、私の仲間たちから生み出されたのであり、私が地上にたてた、私のイメージである。私はあなたが平和のうちに地上を治めるようにする。」と、エジプトの王、つまりファラオは、エジプトの神々から「私のイメージとしてあなたを任命する」と言われるのですが、そのイメージというのは「私の代理として」という意味です。

 ここで、ご自分にかたどって、ということは、神の代理として人を創られた。だから、必然的にそこで、人がしなければならないことは、神がなさることを人が変わって行う、ということです。これを取り違えると、神から委託されたから、我々が何でもできる、我々が決めたことが、全部真理なのだ、となりがちなのですが、そうではなくて、もっと大事なことは、神が地上に向かってしようとしておられることをおまえたち、頼んだぞ、という神の代理の使命のことを意味している、とアンダーソン教授は言うのです。

 この混沌として、もういわゆる、神も人もあるものか、という情勢の中に置かれたユダの人たちが、終わりではない、我々の神は生きておられる。そして、このことを通して、神はまた、何かを始めようとしておられる。我々にとっては、だから、何があっても、そこから始めるのだ、出発するのだという信仰に強く促されたに違いない。

 我々の究極の終わりは死だと考えがちですが、これは先週もお話しましたが、終わりではなく、変わることでしかない。あるいは、新しい命への誕生でしかない。だから、常に、今から、という歩みがある。

 ユーモアの源泉

 そうすると、終わりのこともしっかり神が完成してくださるということを信じている人は、ゆとりを持つことができる。つまり、心のゆとりが、ユーモアを生むわけですが、死を迎えるための準備ということで有名な上智大学のアルフォンス・デーケン教授が、つい最近出版された「よく生き、よく笑い、よき死と出会う」という本の中で「ユーモアとは、にもかかわらず笑うことである」と言っています。

 そして、一人のご婦人の死のことを次ように述べていらっしゃいます。

 彼女は十一人の子供を立派に育て上げて、重い病にかかられるのですが、その時九十一歳でした。そして、とうとうお医者さんが、もうあと三時間でしょうと言われたので、家族全部が揃いました。昏睡状態のようにみえていたのですが、彼女はカトリックの信者だったので、そこにも司祭が来ていました。もう、お母さんと話すことはできないけれど、みんなで祈りましょうということになり、みんなで短いミサを捧げました。

 それが終わると、九十一歳のおばあさんが、急に目を開けて、

 「私のために祈ってくれてありがとう。ところで、ウイスキーを1杯飲みたいのだけど。」  みんなびっくりしました。大体この方は、お酒なんて飲んだことがない、飲めない方だったのですが、ウイスキーを一杯飲みたいのだけど、と言う。それで、子供の一人が最後だからと思って、グラスにウイスキーを持ってくると、一口ぐっと飲んで、

 「ぬるいから、少し氷入れてちょうだい」

と言ったので、慌てて、氷を入れるとお母さんは、それを

 「おいしいわ」

と言って、全部飲んでしまった。その次にまた、

 「タバコが吸いたいわ」

と言い出した。それで、たまりかねた長男が、お医者さんが、タバコはいけないと言っていますよ、と言いました。もちろん、彼女は、これまででも吸ったことがないのです。そうすると、お母さんが、

 「死ぬのは、お医者さんじゃなくて、私ですよ、タバコちょうだい」

と厳命されたので、また慌てて、タバコを用意して渡しますと、悠々と一服つけて吸った後に、みんなにありがとうと言いました。その後、

 「天国でまた会いましょう、バイバイ」

と言って、横になって、そのまま息を引き取りました。デーケン先生は、こういうふうに注釈を加えています。

 「彼女はそれまでに、何度も友達や親戚の葬式に出て、皆が涙を流して悲しむのを見てきました。それで、自分の死によって、子供や孫たちを悲しませるのではなく、明るい雰囲気のコメディを残そうとしたのでしょう。何という美しい愛と思いやりでしょうか。私たちは、人生残りの三時間では、もう何もできないと思い込んでしまいますが、この母親はユーモアによって、子供と孫たちに、生涯忘れられない貴重なプレゼントを残したのです。」(アルフォンス・デーケン「よく生きよく笑いよき死と出会う」、新潮社、二〇〇三年九月二〇日、初版、一九九頁)

 すごいですね。だから、とことんダメになっても、まだ終わりじゃない。まだ始めることがある。いつも始まりなのです。これが永遠の命です。

祈りましょう。

 聖なる御神様、今日もお招きいただいてありがとうございました。

 どんなことがあっても、滅びないあなたの命を、確かに保障していただいて、今日もこの礼拝に加えられておりますことを感謝いたします。あなたの御前にある時には、過ぎ去ったものは、もう取り返せませんけれども、常に輝く未来があります。常に出発でした。どうぞ、くじけがちな者ですけれども、あなたを見上げて、はじめに天地を創造されたというあなたの宣言に従って、勇気を持って、いつも始めることができるように、お助けください。主の御名によって祈ります。アーメン