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 「人の子よ」

石川 和夫牧師

 どうか、わたしたちの神が、あなたがたを招きにふさわしいものとしてくださり、

また、その御力で、善を求めるあらゆる願いと信仰の働きを成就させてくださるように。

(テサロニケの信徒への手紙一、一・一一)

 今日の主日の主題は、「主の来臨に備える」です。つまり、キリスト教信仰の大事な柱の一つである「キリストの再臨」の準備をする、ということです。これまでのキリスト教では、キリストの再臨に備える、ということは、何か倫理的な良い行いをしていないと迎えられない、というイメージが強かったように思います。

 以前に、松沢教会で牧会していた頃のことです。この教会は、世界的に著名な賀川豊彦先生が創立された教会ですから、賀川先生に愛された弟子たちが大勢いました。その中に、とても仲の良い二人の長老さんがいました。仲が良いのですが、また、ちょくちょく席を蹴って立つような激しい喧嘩もして、周囲の人たちをはらはらさせていました。しかし、その翌日には、そのどちらかが、相手の家に出かけて、

 「おーい、いるか」と声を掛けては、教会にやって来ていましたが、この人たちは、喧嘩をすると必ずといってよいほど言う言葉がありました。

 「お前、そんなことをしとって、天国に行けると思っているのか」

 つまり、行いがよくないと天国には行けない、行いがいいと天国に行ける、という考え方が一般的でした。主の来臨に備えるということは、そういうことだ、と受け止められていたようです。私は、これは見当違いの考え方ではないか、と思っています。

 そうではなくて、神様が

 「お前たち、大事な事を忘れているのではないか?」

と問いかけておられることに気づくことです。普段は、どうしても自分中心ですから、神様についても、人についても、出来事についても、自分中心に判断してしまう。そのことについて、神様が、

 「違うぞ」

と知らせようとしておられるのではないでしょうか?

 愛の神の呼びかけ

 今日の題は、「人の子よ」です。これは、今日の旧約から来ています。

 また、主の言葉がわたしに臨んだ。「人の子よ、イスラエルの土地について伝えられている、『日々は長引くが、幻はすべて消えうせる』というこのことわざは、お前たちにとって一体何か。それゆえ、彼らに言いなさい。主なる神はこう言われる。『わたしはこのことわざをやめさせる。彼らは再びイスラエルで、このことわざを用いることはない』と。かえって彼らにこう語りなさい。『その日は近く、幻はすべて実現する。』

(エゼキエル書一二章二一〜二三節)

 エゼキエル書全体で、この「人の子よ」が、九三回使われているそうです。エゼキエル書の特徴と言っていいと思います。これは、どういうことでしょうか?

 これは、神様がエゼキエルに呼びかけておられる言葉なのですが、「エゼキエルよ」と言われないで、わざわざ「人の子よ」とおっしゃっていることに注目しましょう。

 神様は全能で、すべてを知っておられ、超越しておられるのですが、人間は、有限で、必ず死ななくてはならない、そして部分的にしか物事を見ることが出来ません。だから、神様からご覧になると、しばしば見当違いの判断を下して、しなくていいことをしてしまったり、しなくてもいい心配をしたり、一人で自分の殻に閉じこもってしまう。

 このような有限性の中でわたしたちは生きているのですが、それに対して、神様が愛を持って、

 「そうだなあ、お前たち一生懸命やっているけど、限界があるなあ。だけど、本当は、こうなんだよ」

と知らせようとされる、そういう愛の神の呼びかけが

 「人の子よ」

なのです。有限で見当違いの思い込みに支配されがちな私たちを憐れんで、

 「そう、お前たちは、神ではない、有限な人間なのだよ。だから大事な事を知らせてあげよう。」

という愛の呼びかけが、

 「人の子よ」

なのです。

 心のゆとりを持つ

 ところが、今日の福音書でも「人の子」という言葉が出てきます。

 このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、

自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。

人の子は思いがけない時に来るからである。

(ルカによる福音書一二章三九,四〇節)

 ここで言う「人の子」は、いうまでもなくイエスさまのことです。人となられた神の子ということです。ですから、聖書で「人の子」といわれるときには、その意味が二通りある、ということです。イエスさまご自身をさす場合と有限な人間をさす場合があるのです。

 信仰を持つということは、ふさわしい行いが出来るようになる、倫理的に、ねばならない、と張り切ることではありません。そうではなくて、「人の子よ」と呼びかけてくださる方の呼び声にいつも耳を傾けるゆとりを持つことなのです。

 週に一度の公同礼拝は、一週間まとめてふりかえりながら、「人の子よ」と呼びかけてくださる方に出会うときです。そして週日は、特に眠りに着く前に、「人の子よ」と呼びかけておられる方をしっかり受け止めて、自分の判断から自由になる、それが、自分に「待てよ」と呼びかける心のゆとりとなるのです。

 創めるとき

 「信徒の友」九月号に、今や完全に時の人となった日野原重明先生のインタビューが掲載されています。「人生の秋を輝くスピリットをもって生きるために」というタイトルです。

―――日野原先生が新聞の連載を通して「老いを創める」という考えを示されたのは、二〇年ほど前になりますね。

 日野原 そのアイディアが浮かんだのは、古希を過ぎたときです。書斎で原稿用紙を二本の指で持っていたら、すべり落ちてしまった。そのときに、はっと思ったんです、以前はこんなことはなかった、歳かなあ、と。「桐一葉落ちて天下の秋を知る」という日本の言葉があります。私の年齢にも秋が来たと感じました。

 そのころたまたま、二十世紀のユダヤ人思想家マルチン・ブーバーの聖書学の本を読む機会がありました。あるとき、ブーバーが老師を見て、先生は若いと思った。どうしてそんなに若いのかと聞いたら、「人ははじめることさえ忘れなければいつまでも若い」と先生は答えた。

 ああ、これだと思って、その訳本を贈ってくれた京都大学教養学部の田口義弘教授に、原文を送ってほしいと頼みました。そして、その中の「はじめる」という言葉に出会ったとき、ただ「始める」というより、基本的に新しく始めるという意味だと解釈して、「創」に「はじめる」という読みがなをふって、朝日新聞に依頼された連載に、人生の四季を書こうと思ったのです。(「信徒の友」九月号、一六、一七頁)

 

 日野原先生は、七五歳以上の人たちのことを「新老人」と呼んで、新しい出発をするチャンスだと主張しておられます。

 日本では、六十五歳から老人となると決めた半世紀前の平均寿命は六十八歳でした。六十五歳まで生きれば後は余生、余った命を影のように生きればよいと思っていたのが、今では日本人の平均寿命は八十一歳を越えてしまいました。ですから、引退年齢を七十五まで引き上げてはどうでしょう。そしていよいよ七十五になったら自由人になって、七十四歳まで開発されなかった自分の中のいい賜物を開発する、自己を見直したらどうかと思うのです。(前掲書、一七頁)

 二十歳まで、人間は受けてばかりです。授業を受ける。学校にやってもらう。与えられた環境で子どもは成長します。第二の人生は、社会人になってからです。六十五歳になってからは、もう一〇年先を考える、潜伏期のような時間を持つ。そしていよいよ、七十五歳からが最もやりがいのある自己実現の、第三の人生が始まるのだと思います。(前掲書、二一頁)

 眠っている遺伝子を起こそう

 日野原先生は、実際、いろんなことを始めておられます。あの「葉っぱのフレディ」というベストセラーになっている本を読んで、たいへん感動され、出版社の童話屋の社長に、この本を脚色してミュージカルにしたら、と勧めたのです。そうしたら、「先生、やってください」と言われます。もちろん、忙しいからと断ったのですが、再度頼まれると、断るのが惜しくなって、引き受けてしまいます。

 先生は、十歳のときに教会で、メーテルリンクの「青い鳥」の劇をやったことがありました。また、関西学院の中学生のときにも、教会の仲間と一緒にハウプトマンの劇「ハンネレの昇天」を上演したこともありました。

 そこで、三度目に依頼されたときに、やってみようという気になられます。こうして、読めば二〇分のストーリーを一時間半の脚本にするのに、やってみたら八時間で出来てしまいました。その上、作曲までやってしまいます。

 眠っている遺伝子が人間には、沢山あるのではないだろうか。子どもの時にはやったことがあるのに、医者になってその仕事を何十年も続けているうちに、その遺伝子を眠らせてしまった。その眠っていた遺伝子を起こすと、今までしたことがないことも出来た。

 日野原先生は、スポーツの面でも眠っていた遺伝子を起こされました。昨年、七十歳以上のシニアメンバーのソフトボール大会を日本で開催したときに、日本にはチームがないからぜひ新老人の会で、ということになり、メンバーを募ったら、ずいぶん集まりました。練習不足のため結果はビリだったのですが、来年はアメリカに遠征に行くから練習しましょう、ということになりました。そこで日野原先生がシートノックをしたら、ちゃんと出来たそうです。二〇歳のときにバットを持ったのが最後で、それっきりだったのが、七〇年前にやったことが出来る。

 「主の来臨に備える」ということは、道徳的に反省する、ということではなくて、やがて必ず迎える自分の死が終わりではなく、新しい永遠の命への誕生だから、新しくなる、ということです。新しくなることを「創める」ということです。これが、「人の子よ」と呼びかけてくださる方にお答えする道です。

  (二〇〇三年八月二四日、聖霊降臨節第一二主日、第二礼拝の説教要旨)