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 「心が一つに」

石川 和夫牧師

 五旬祭の日が来て、一同が一つになっていると、

突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。

そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。

すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

(使徒言行録二・一〜四)

 「人は死なない。わたしもあなたも、決して死ぬことはない。それに気づいたとき初めて、人は生きる意味と喜びを知り、真に生きる者となる。」(晴佐久昌英「星言葉」、女子パウロ会、一九九九年四月四日、第三刷、五〇頁)

 高幡カトリック教会におられた晴佐久昌英神父の言葉です。彼の信仰によると、人は普通、死に向かって生きている、死んだら、おしまいだ、どんなに愛し合っていても、いずれはどちらか先に死んでしまう、やがてこの世から消えてしまう自分に何の意味があるのか、とマイナス思考にならざるをえないが、「人は今生きていて、やがて死ぬ」という考えが実は脳みその作りだしたフィクションであることに気づくなら、それらの恐れも無意味になる、というのです。

 今日は、聖霊降臨日であります。ペンテコステとも呼びます。ギリシア語で第五十という意味で、もともとはユダヤ教で一番大事な過越祭から五十日目の七週の祭りとも言われます。

 過越祭が、イスラエルの先祖たちのエジプト脱出を記念するお祭りであるのと同時に、大麦の収穫感謝祭でもありました。それから五〇日後のペンテコステは、エジプト脱出の途中で、神が契約の律法を与えてくださったことを記念する祭りで、同時に小麦の収穫感謝祭でもありました。

 これに対して、キリスト教では、あの過越祭の最後の日が、キリストの復活の日であり、それから五〇日後のペンテコステは、弟子たちの復活祭とも言うことが出来ます。

 あの神の子であるイエスが、十字架上で「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」と悲惨な言葉を発して死なれた、これは一体どうなるのだろうと弟子たちは、一時は完全に絶望の淵に沈んだのです。

 しかし、イエスは死んだのではない、よみがえられたのだという信仰に立ったときに、次第に、人間の生きる意味が見えてきました。イエスの死に方、生き方をよく思い起こすと、イエスは死に向かって生きたのではなく、新しい誕生に向かって生きられたのだ、ということが分かってきました。

 死が誕生だと分かると

 晴佐久神父は、このことを次のように言っています。

 「人が生まれ出ていくその世界が、どれほど広く深く輝きに満ちているかは、我々には想像もつかない。胎児を考えてほしい。胎児にとって母胎の中がすべてであり、外部のことをまったく知らない。しかし、ひとたび生まれ出たならば、そこには果てしない青空と星空が広がり、さわやかな風と水があふれ、愛する人との出会いと交わりがあり、生きる喜びに満ちていることが分かる。それらは生まれ出る前からすれば、想像を絶する歓喜の世界であるはずだ。同じように、ぼくらが見たり聞いたりしているこの世のリアリティは、まことのいのちの世界から見ればいまだ胎児の世界に過ぎない。」(前掲書、五一頁)

 死とは、新しい無限のいのちへの誕生だ、というわけです。死んだら、おしまいではないのです。だから、マイナス思考から解放されるのです。宗教ですら、このマイナス思考から脱却できないでいました。こうでなければ救われない、と救いに条件をつけています。

 イエスが示された新しいいのちとは、すべての人が究極の創造者である神に望まれて生まれてきた、だから、すべての人は死なない。永遠の新しい誕生に向かって生かされているのです。このことに気づいたときに、自分の生き方が変わります。マイナス思考からプラス思考に変わります。

 いつ死ぬのかは問題にならず、今生きている世界が神の母胎の中のいのちで、本当のいのちがこれから訪れる。にもかかわらず、神の母胎の中にいるのに、これがすべてだと思い込んで、自分たちの尺度で、喜んだり、不安になったりしているのは、まことの親である神から見れば、とんでもない見当違いなことなのです。

 この見当違いに気づくと言うことが悔改める、と言うことなのです。この見当違いを罪と言います。道徳的に良いか悪いか、ということではなくて、まことの親である神から見れば、まったく見当違いのことを一生懸命に求め、見当違いの事を心配し、見当違いの判断で生きていた、ということに気づく。そして、どのいのちも神が望んでお造りになった、と分かると、すべての人を受け入れられるようになります。

 三位一体とは

 今日の主日から、伝統的な教会、たとえば、カトリック教会、聖公会などでは、三位一体主日と呼ぶようになります。聖霊降臨日は、三位一体が確立した日でもあります。晴佐久神父の三位一体論は、実にユニークで分かりやすいので、紹介しましょう。

 「父」とは、天地の創造主、全能の神である。この世界の生みの親である神を、私たちは信頼と親しみを込めて「父」と呼ぶ。イメージとしては「母」でもかまわない。私を含めすべての存在はこの「父であり母であるまことの親」から愛されてうまれたのだという信仰である。

 「子」とは、文字通り親から生まれた存在である。その意味では、天地万物は「子」である。中でも親の似姿として創られた人類は等しく「神の子」であり、その中でも親の生き写しとでも言うべきイエス・キリストは、親である神と子である人を結ぶ特別な「神の独り子」である。

 「聖霊」とは、親から溢れ来る親心である。子は親心に望まれて生まれ、親心に包まれて育ち、親心に満たされて生きる。全存在の隅々にまで親心は働いている。特に神の子人間は親心に目覚める存在として特別な親心を注がれている。中でも神の独り子イエスは、完全に親心に目覚め、子でありながら親そのものとなった。

 この「親と子と親心」は分かちがたくひとつに交わっている。親がなければ子も親心もなく、子がなければ親は親でなく親心もなく、親心がなければ親と子は親子になり得ない。さらにいえば、親はもちろん親であるが、親心も親そのものであり、その親心に満たされた子も親そのものである。すなわち親が神なら子も親心も神であり、神は三者でありながらひとつだというのが「三位一体」の交わりの神秘である。

 全宇宙の根本原理は、この三位一体の交わりにある。この私を含め、全存在は親と子と親心の深い交わりのうちに祝福されて生まれた神の子であり、全存在は何時の日か神の独り子と同じように、その交わりに完全に入っていく。そのような「父と子と聖霊」の交わりの神秘を信じ、それにすべてをゆだねることを「み名によって」という言い方で表わす。(晴佐久神父語録、二六、二七頁)

 そして、聖霊の導きを日本的表現で、「ご縁」と言います。教会に今日来ることが出来たのも親心がみちびいてくださったご縁だというわけです。あらゆる人がこの親心に生かされているとすると、イエスの生前に、誰が偉いとか、上だとか下だと考えていたことが全くばかげていたと気づいた弟子たちが、自分たちは神の子として同じなんだ、という一つの心になった、それが弟子たちの復活の日、ペンテコステだったのです。

 気づくことが救い

 今日のテキスト、使徒言行録二章一節から一一節では、この出来事について、きわめて文学的、幻想的に表現しておりますが、書かれていることが文字通り起こったと考える必要はないと思います。

 「激しい風」(二節)、「炎」(三節)という言葉は、神様がそこにおられるということの旧約聖書的表現です。「舌」(三節)というのは、ことばです。神によって動かされて、それぞれが自分の言葉で語りだした、ということです。その言葉があらゆる人に通じた、ということが今日のテキストで表現されています。

 カタカナでいろいろな地名がかかれていますが、これは当時の地中海を中心とした全世界を意味しています。地中海を中心にして東から時計の反対周りに半円形を描いてアフリカにいたる国々です。自分の言葉で語ったことは全世界の人々に通じる、ということです。

 弟子たちがそれぞれに、自分は神の子だった、それなのに見当違いをしていた、ということに気づいたときに内から力が涌き、嬉しくなって、私たちは、キリストを十字架につけた者だけれども永遠の命のお約束をいただいた、そして、その命に生きている、あなたたちも同じですよ、ということを語り出したのです。これが、伝道なのです。

 信じるものは救われる、と言われますが、信じること、そのことが救いなのです。「私はまことの親の親心に望まれて生まれ、今も親心に愛されており、親心を信じて永遠に生きる神の子だと目覚める意外に救いなどと言うものはない」(晴佐久神父語録)のです。

 

 (二〇〇三年六月八日聖霊降臨節第一主日、ペンテコステ、第二礼拝の説教要旨)