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命の根源

 石川 和夫牧師

 イエスは言われた。

「わたしが命のパンである。

わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、

わたしを信じる者は決して渇くことがない。」

(ヨハネによる福音書六・三五)


 「世界がもし一〇〇人の村だったら」という本があります。もともとはEメールで発信され、それが全世界に広がって、日本でも訳されて、マガジンハウス社から出版されました。その中に、

 「二〇人は栄養がじゅうぶんではなく、一人は死にそうなほどです。でも一五人は太り過ぎです。」

(20 are undernourished,1 is dying of starvation, while 15 are overweight.)

(マガジンハウス、二〇〇一年一二月一一日、第一刷、二〇〇二年二月一四日、第九刷、)

と出ています。もともとのEメールでは、五〇人となっています。マガジンハウスで出版するに当たり、全部の数字を再確認してみた結果、二〇人となったようです。でも、これは調査結果が出されている確実な数字だけで、まだ正確に調査されていないものは含まれていないので、実際は、もっと多いと推定されています。まあ、二〇人から五〇人の間くらいと考えてよいかも知れません。いずれにしても、世界が一〇〇人の村だったら、二〇人から五〇人が飢えているということです。これは、たいへんなことです。

 「でも一五人は太り過ぎです」

 これは、私たち日本人にも当てはまります。とにかく、富も食べ物も世界レベルでは、とても偏っている、ということが示されています。いつの時代でも飢えということが人間にとって大きな問題となっています。

 飢えの時代を背景にして

 聖書の時代も貧富の差が大きかったので、飢えている人が多かったようです。イスラエルの先祖、アブラハムも飢えに直面しました。そのためにエジプトに避難しました(創世記一二・一〇)。彼の孫、ヤコブの時代にも飢えに襲われて、エジプトに食料の買出しに出かけています(創世記四二・五)。

 今日の旧約書、出エジプト記にも荒れ野の放浪時代、飢えに直面して、神様から食べ物として、マナが与えられた、と書かれています。この「マナ」というのは、天から降されたマナを見て、人々が「これはなんだ?」と言ったことが、食べ物の名前になっています。神様が直接、イスラエルを養われた、というわけです(出エジプト記一六・四〜一六)。

 預言者エリヤが飢えたときには、烏が食べ物を運んできた、と書かれています(列王記上一七・六)。まだまだこのほかにも飢えに関する記事が無数に出ています。

 イエスさまの時代にも飢えは、深刻な問題でした。人々が飢えたとき、イエスは、五〇〇〇人に食べ物を与えられました(ヨハネ六・一〜一四)。

 今日の日課、ヨハネによる福音書六章三四節〜四〇節もそのような飢えが背景にあった時代に、イエスご自身が「命のパン」だと宣言された記事です。

 イエスは言われた。

「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、

わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ六・三五)

 時代の人々が非常に関心を持っていることにズバリお答えになって、こう言われたのです。

 今日の主日の主題は、「命のパン」です。これはもちろん目に見える食べ物の事だけを言われたのではなく、霊的な問題、心の飢え、渇きに対しても言われています。心の飢え、渇きとは何を指しているのでしょうか?

 三つの和解

 ある病院のホスピス長をされているお医者さんが、ある人にこう言ったそうです。

 「人間には、必ず生命の終焉が訪れるが、〈いのち〉は、無限のような気がする。その死に際し、三つの和解ができていない人は、大変な苦しみの表情のなか、死んでゆく。もしも和解の必要があると思うなら、もしも苦しみたくないなら、いまから和解の準備をしておきなさい。それは自分自身のためだけでなく、次世代のために。

 三つの和解とは、第一に、自分との和解、第二は、家族を含む大切な人との和解、そして、第三が、神との和解です。人の死は、単に肉体的なことではなく、社会的、宗教的、霊的で、全人格的な出来事なのです。霊的痛みは、身体的痛みの何十倍もはげしいようにみえます。」(「今週の言葉」第一八号、青山学院女子短期大学宗教委員会、二〇〇三年三月一九日発行、二五頁、英文学科 酒向 登志郎(さこう としろう)(人種問題)、)

 三つの和解が出来ていない人は、平安な死を迎えることが出来ない、いつも何かを恐れている飢えの状態になっている、というのです。イエスが、

 「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、

わたしを信じる者は決して渇くことがない。」 「わたしが天から降って来たのは、

自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。

わたしをお遣わしになった方の御心とは、

わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。

わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、

わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」

(ヨハネ六・三八〜四〇)

 先ほどの三つの和解の中で、神との和解をわたしがしている、とおっしゃっているのです。「わたしのもとに来る者」(ヨハネ六・三五)、イエスのみ名を信じて、イエスのみ名によってバプテスマ、洗礼を受けてイエスのものとなった人は神との和解が出来ている、十字架に掛けられる救い主というのは、普通、考えられないけれど、神と人間との和解を十字架のイエスご自身がしてくださっている。

 だから、キリストにある者、キリストのもとに来る者は、普通の人には一番難しい神との和解がなされている、もう、神との和解については心配は要らない、ということをイエスさまが示してくださっているのです。

 あのお医者さまが言われた三つの和解の出発点は、神との和解です。わたしたちには、すでにイエスにおいて、神との和解が与えられています。自分が何かをしたからではなく、神様からお前は大丈夫だよ、お前を愛しているよというお約束がすでに生きています。

神との和解は、すでにいただいている!

 その神との和解が出発点になると、まず、自分との和解が出来るようになります。自分のあるがまま、いいところと悪いところ、それをそのままに受け止める。そうすると自分で隠さなければならないことがなくなりますから、人のあるがままを受け入れられるようになります。

 自分との和解が出来ていない人は、人との和解が出来ません。なぜなら、他の人も同じように長所と欠点を持っているからです。自分の長所と欠点をあるがままに受け入れられないと、どうしても人の長所と欠点が気になって、受け入れられません。人との和解の出発点は、神様が永遠の命を約束して、お前は大丈夫だぞ、受け入れているよ、ということです。

 わたしの弱さや罪や欠点にもかかわらず、受け入れているよ、という永遠の保障がなされています。

 「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。

わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。」(ヨハネ六・三七)

 イエスさまに出会った者は、神様がイエスさまにお与えになった人だと言われています。天地を創造された神様が、張本人なのです。わたしが生きている命の根源は、神様なのです。その方が、イエスにおいて保障してくださっている。

 礼拝は、そのことを確認するときです。その出発点が洗礼です。聖餐式は、繰り返される洗礼式だと言った牧師さんがいますが、聖餐式において、キリストの肉であるパンと杯をいただくことによって、自分がキリストのものである、わたしは一緒に参加している人々と共に、キリストの身体なのだ、ということをこの目で確認します。こうして、人との和解に向けて出発します。

 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。」(ヨハネ六・三五)

 永遠の命を保障してくださっているイエスのものにわたしたちがなっている、その途方もない大きな恵みをもう一度しっかりと受け止めなおしましょう。ああでなければだめ、これがあるからだめだ、とこだわるのではなく、まず、自分を許して、自分を愛して、人を受け入れ、許す歩みを始めましょう。 

 (二〇〇三年五月一一日、復活節第四主日、第二礼拝の説教要旨)