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伝統と革新

石川和雄牧師

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。

また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものをほしがらない。

『古いものの方がよい』と言うのである。」

(ルカによる福音書5:38〜39)

 「人間がそれに段々慣れてしまうことが一番悪いのだ。」

 これは、現代のドイツの世界的な神学者であるJ・モルトマン博士の言葉です。治安が良くなるかなり前、ニーヨークで相次いで犯罪が重なってどうしようもない時に、モルトマン博士がニーヨークにいる友人と話した言葉です。

 そのような状況の中では、人間がそれに段々慣れてしまうことが一番悪いのだ、とモルトマン博士の友人が言ったのです。博士はこのように言いました。

 「いい年をした若者が、長いこと失業しています。人はそれに慣れてしまいます。彼らは希望を失って常軌を逸し、麻薬に頼るようになります。人はそれに慣れてしまいます。悪しき夢をこしらえる材料を買うために、彼らは日々お金を必要とし、路上の追いはぎとなるのです。人はそれに慣れてしまいます。誰もそれに腹を立てる人はいません。そして病気のからだのガンのように、わざわいが広がってゆきます。貧困、失業、犯罪、刑務所というように、悪循環がいよいよ広まってゆきます。なぜでしょうか?それは他の人がどうでもよくなっているからです。人々は無感覚になり、このようなことを肩をすくめて受けているからです。人々は他人の困窮に目を向けようとはせず、自分が苦しむことを避けるからなのです。」(J・モルトマン「新しいライフスタイル」、−開かれた教会を求めてー新教新書248、1996年8月31日、第1刷、6-7頁)

慣れてしまうと大事なことを見落とす

 福音書で、イエス様に質問をしたファリサイ派の人たちや立法学者たちが、まさに、そのような状態の中にいました。質問の内容は、道徳的に悪くはないのですが、自分の価値観で切り捨てたり、割り切ったりに慣れきった信仰生活からくる、人の痛みを理解できない質問をしたのです。

 ファリサイ派の人たちは、たびたび断食をし、祈りをします。イエスの先触れをしたバプテスマのヨハネの弟子たちも律法に従い、決まったように断食して祈っていました。

 ファリサイ派の人たちは、イエス様に向かい、

「ヨハネの弟子たちはたびたび断食し、祈りをし、

ファリサイ派の弟子たちも同じようにしています。

しかし、あなたの弟子たちは飲んだり食べたりしています。」(ルカ5:33)

となじったのです。

 この物語は、その前の物語とつながっています。

 レビという徴税人がイエスの弟子になり、喜んで自分の家を開放し、盛大な宴会を催しました。そこに、イエス様も居られました。イエス様と弟子たちは完全に宴会の輪に入って、みんなと同じように、楽しんで、飲んだり、食べたりしました。

 ファリサイ派では、徴税人(罪びとと見られる職業)の人たちとは食事をしてはならない、という習慣があります。ですから、その状態を見て、その習慣を平気で破り、「飲んだり、食べたりしています。」と言ったのです。

 この物語は、マルコによる福音書の2章18節から22節が、元になっています。マルコのほうでは、「あなたの弟子たちは断食していません」

とイエス様をなじりますが、ルカはここを

「断食していません」

という言い方ではなく、

「飲んだり、食べたりしています。」

 という、具体的表現で書いています。ルカは、イエス様がしばしば、天国のことを宴会に例えられ、イエス様も、そういうことに喜んで加わっておられることを書いています。これは、ルカらしい信念に基づいているといえます。私も宴会が好きなので、この箇所を読むと、大変力強い思いをします。

 「そうか、大事な交わり、そして、喜び合い、触れ合う、その時をイエス様は大事にしていらっしゃる。そして、それが、神の国なのだ。」と。

 イエス様は、神の国を宴会のようだと表現されました。そこで、イエス様は、ご自分を花婿に例え、弟子たちはその婚礼の客としています。そして、自分がいるから、今は断食する必要がない、喜び、感謝し、その交わりを喜んでいなさい、と言いました。これが大事なのです。形式的な断食や単なる習慣に囚われていると、つまり、そこで慣れてしまうと、他の人々の困窮などの大事なことを見落としてしまいます。

 差別され、嫌われていた徴税人レビが、イエスに出会って、喜んで、人をもてなし、祝宴を開きました。それに、喜んで参加している人もいました。ああ、よかったなと見るべきなのに、そういうことには一切思いが行かなくて、

「律法に違反している」

とファリサイ派の人たちは言います。彼らは、レビの喜びを無視したのです。律法に違反しているか、いないか、に心を奪われると、人の心に全く。気づかなくなるのです。

ですから、イエス様は、

「だれでも、新しい服から布切れを破り取って、古い服に継ぎ当てたりはしない。

そんなことをすれば、新しい服も、新しい服から取った継ぎ切れも

古いものには合わないだろう。」(5:36)

と言いました。だから、

「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない。」(5:38)

という言い方もしました。

この福音書を書いたルカは、背景に律法も大事なのだ、そして、イエスの福音も大事なのだと妥協してミックスしようとしている人たちを意識しているようです。そのような人たちに、そうではなくて、すっかり新しくならなければ、イエスの福音は分からないよ、ということを伝えたかったのです。

新しくなるということはどのようなことでしょう?

新しくなるとは?

 自分が持っている価値観を一度捨てて、見直してみる、そのような心のゆとりを持つことではないでしょうか。ゆとりを持っていないと、自分が持っている価値観に囚われて、大事なものが見えてこなくなります。ゆとりのなさが、いつの間にか、自己中心になり、自分を守る姿勢になり、他の人の痛みとか、苦しみに無関心になります。

  私も、モルトマン博士のこの本を読んで、自分の姿勢をもう一度反省しました。

 アメリカは、イラクに対してどうしても、戦争をやりたがっているとしか受け取れないくらいに、戦争への道に突き進んでいるように見えます。もし、戦争になれば、弱い立場に置かれているどれほど多くの人が苦しみ、命を落とすことでしょうか。アメリカ軍の人たちだって誰かは必ず血を流し、悲劇にあいます。

 新聞によると、ドイツは人を増やして、国連の査察を増やし、徹底して平和のうちに、武装解除を進めていくという案を出そうとしています。あからさまに、アメリカに非難されていますが、わたしは、ドイツはしっかりしているな、本当の同盟国とは、そのようにすることができるということではないかなと思います。同盟国だから、言われたとおり何でもやりますというわが国の姿勢とでは、大変な違いです。この問題についても、慣れてしまって、そうなるのは仕方がないだろうと受け止めてしまっては、いけないと思います。どうしても自分を守ろうという姿勢が、私たちの本能として、いつも潜んでいます。それが、本当の喜びを私たちに伝えないという可能性があると思います。

まかせ、ゆだねる

 昨年の信徒の友の4月号には、私たちのこの新しい会堂の写真が紹介されています。その巻頭の「御言葉に聞く」というところに、千葉南教会の関茂牧師が「まかせ、ゆだねる」という題で、エッセイ書いていらっしゃるのですが、その中で、このようにおっしゃっています。

 「それなのに、ああそれなのに、なかなか手放せない。どころか、かえって後生大事に抱え込む。このゴショウダイジの意味、『ものごとをかけがえのないものとしてたいせつにすること』と辞典に書いてあります(例・『角川必携国語辞典』)。書いてなくても、私たち、日ごろ、これをやっております。それも抱え込むに値するものならいざ知らず、じつにつまらないものを、余計なことを、それこそかけがえのなきものごとのように取り入れ抱え込む。あんた、なに夢中になっているの、血相変えて………私たちは、神よりも人に頼る。ではなくて、自分と自分の一生をゆだね、おまかせするのです。」(「信徒の友」、2002年4月号、4,5頁)

 このときに引用されていた聖書の箇所は、イエスの両親が生まれた子を神に捧げるためにエルサレムの神殿に連れて行ったというところをあげて、先生は、こうおっしゃっています。

 「ヨセフとマリア、ガラクタどころか、かけがえのない独り子の将来を。自分たちの養育の苦労も、ゆだね、まかせたのです。相手は神だから、だいじょうぶかな、などとは考えなかった。そこが私たちと違うところ。私たちは神よりも人に頼る。ではなくて、自分と自分の一生をゆだね、おまかせするのです。わが家も家族の先行きも。それをしないで、毎日毎日、心配だらけ……そこで、思い切ってゆだね、明け渡し、まかせてみたら、アーラふしぎ!ここから先は、やった人でなければわかりません。信仰というのは、そういうものです。

 信頼してゆだねおまかせしないで、ただ要求ばかりしている。そのうえ思いどおりにならないとすぐ尻をまくる。それが私たちです。それは信仰ではありません。信仰を装った取り引きです。信仰はいただくだけではなく、むしろより多くお献げするものです。時も、力も、お金も、自分と自分のいまとこれからも。

 要するに、とらわれない、縛られない、まかせゆだねて軽くなる。なんだ、まだ飛べるんだった!」と結ばれています。つまり、これが出来ない、これがあるから大丈夫、と自分にしがみついているのではなくて、「どうぞ、すべておまかせします」と言い切る。それが、新しくなるということではないでしょうか。

 お祈りします。

 聖なる御神様。どうしても自分を守る本能があります。そして、あなたの目からご覧になれば、取るに足らないものを後生大事に抱え込み、あるいは、それに囚われてしまって、大きなあなたの恵みを見落としがちでございました。今日、私たちはこの礼拝で、またあなたに一切を明け渡し、お委ねするということを示されました。どうぞ、主イエス・キリストが、私たちの全てを背負ってくださって、そして、あなたが永遠の命を保障していて下っていることに、全てを信頼して、一切の思い煩いや、心配や、また、これからの未来を全て、あなたにお委ねすることが出来るよう、助け導いてください。

主イエス・キリストの御名によって祈ります。

 アーメン