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「見られていたから」

 石川 和夫牧師

 イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。

漁師たちは、舟から上がって網を洗っていた。

(ルカによる福音書五・二)

 

  今日の主題は、「最初の弟子たち」、選ばれている福音書は、ルカによる福音書五章一節から一一節までです。ここには、イエスの一番最初の弟子が選ばれる光景が描かれています。

 場所は、ゲネサレト湖畔。これは、ガリラヤ湖の別名です。このガリラヤ湖で生まれたときから漁師をしているペトロたちが漁を終えて舟から上がって網を洗っていました。二そうの舟が岸にあるのをイエスが御覧になった、ということから、この物語が始まっています。

 彼らは仕事を終わって、後片付けをしていたようです。それから家に帰って休むつもりだったでしょう。ところが、イエスが自分から、そのうちの一そうのシモンの舟に乗り込んで、岸から少し漕ぎ出すようにお頼みになったのです。

 このときのペトロたちの気持ちは、恐らく「憑いていないなあ」という感じだったでしょう。ペトロの後の言葉から想像できることは、このときの漁が全くの「まるぼうず」、つまり一匹も獲れなかったようなので、こういう時の疲れは、一段と大きかったと思われます。大漁の時の疲れは、たとえ疲れていても「快い疲れ」でしょうが、不漁のときの疲れは、三倍も大きいものです。そこへイエスが乗り込んで来て船をだすように頼まれたのですから、また仕事をしなければならなくなったわけです。「憑いていないなあ」と思うのは、ごく自然なことです。

 イエスは、舟をすこし岸から出させて、舟に腰を下ろして岸にいる群衆に話を始められた。この光景を想像するとイエスのすぐれた話芸が浮かびます。多少傾斜している砂浜に人々がいて、自分は少し離れたところから座って話し始められた。現代風に言うと演説調ではなく、ディスクジョッキースタイルで話されたのですね。聴く側も同じようにリラックスして聞けるのですから、話が心に染み入ったことでしょう。

 一方、ペトロのほうは、人々の注目がイエスに注がれていますから、いくら疲れていても居眠りすることも出来ない。ただ、ひたすら話が終わるのを心待ちにしていたことでしょう。だから、イエスの話も上の空、さあ、終わったかな、と思ったら、また、話が始まる。これの繰り返し。心身ともに疲れきったことと思われます。

 やっと話が終わって、やれ、帰れるぞ、と喜んだのもつかの間、イエスの言葉がかかります。

 「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をしなさい」(五・四)

 新たな仕事が命じられたのです。みんなの前です。反抗も出来ない。群衆の目を見れば、イエスを信じきって、大きな期待に溢れている。プロの我々が一晩かけていろいろやって獲れなかったのですから、今日は駄目ですよ、と言いたい。でも群衆の目とイエスの威厳に満ちた態度を見ると

 「先生、わたしたちは、夜通し苦労しましたが何もとれませんでした。

しかし、お言葉ですから、網を降ろしてみましょう」(五・五)

と言うのが精一杯でした。

 普通の言葉で言うと、「どうせ、駄目だと思いますけどね、そうおっしゃるなら、やるだけやってみましょう」という投げやりな返事です。ところが結果は、たいへんな大漁だった。そこで、ペトロは、イエスの足もとにひれ伏して、

 「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」(五・八)

と言いました。

  ルカ流の表現

 この福音書の著者、ルカは、ルカによる福音書と使徒言行録という続き物の著者です。異邦人ですが、旧約聖書に大変詳しいことを土台として、イエスは、異邦人、つまり全世界の救い主なのだ、ということを世界中に告げ知らせたい、という意図で、類型的、理想的な表現で、この続き物を書きました。

 イエスが語りかける、見当違いの反応にもかかわらず、それに従うと驚くべき結果が表われる、それを見て、信仰の告白がなされる、という類型です。

 この場合、ペトロは不承不承ですが、イエスの言葉に従った。すると奇跡的な結果が表われ、これに対して、罪の告白がなされ、イエスの従え、という命令に一切を捨てて従って、新しい人生が始まった。

 おそらく、イエスの威厳に対する自分の不誠実な対応に自分の罪深さを見出して、イエスの前にひれ伏した。それに対して、イエスは、

 「恐れることはない。今から後、あなたは人間をとる漁師になる。」(五・一〇)

と言われます。

 この「とる」と訳されている言葉は、本来、「生け捕りにする」という言葉です。生け捕りにして、新しい生き方が始まるように手助けする、ということです。だから、私の手伝いをするんだよ、ということになります。

 「そこで、彼らは舟を陸に引き上げ、すべてを捨ててイエスに従った。」(五・一一)

 これもルカ流の理想的表現です。これが使徒たちだ、イエスに従う者は、このように、完全に従え、という主張が、ここに表現されています。

  歴史は新たな創造の場である

 わたしたちの現実の生活に当てはめて考えて見ましょう。一匹も獲れなかった、というハプニングで疲れ切っている、このハプニングが新しい生き方の出発点になった、というこの記事のキーワードは、イエスが、御覧になった、だと思います。

 「イエスは、二そうの舟が岸にあるのを御覧になった。」(五・二)

 イエスは、ペトロたちが舟を岸に上げて、網を洗っている姿を御覧になって、一瞬にして、すべてを読み取られた、つまり彼らの空しい疲労感、空虚感を含めて。だけど、イエスは、彼らに、さらに新しい仕事を与えられた。

 ペトロたちは、一匹も獲れないで、がっくりしている姿をイエスに見られたことから、それが新しい人生への出発点に変えられたのです。

 カトリック東京教区補佐司教であった森一弘司教が「歴史は新たな創造の場である」ということで次のように言っています。

 「しかし、人間は不思議なものである。新年には装いも新たにし、過去の汚れを清め、神社にお詣りをし祈願する。それは、『とき』の流れが、人間を越えた何かによって導かれているという素朴な思いが働いているからである。この点では、聖書の世界は他のどの宗教よりも明確である。聖書の歴史の底に流れている『とき』のとらえ方は、『すべては神の手の中にあって、神の目指すところに導かれている』というものである。」(「あけぼの」、一九九九年一月号、三九頁)

 私も昨日の聖研の折に、聖書の捉える神は、歴史の主ということで、単なる出来事の神ではない、ということを話しました。時の流れと関係している。ただ、じっとしていてお祈りしたら、それを聞いてあげよう、とか、それは駄目だよ、という神ではなくて、歴史全体を踏まえて、時の流れにおいて御心をお示しになる。だから、信じた人は、良くなり、信じてない人は駄目だよ、というのではなくて、時全体をじっと御覧になっていて、それぞれの人にふさわしいタイミングでハプニングを生かしてお用いになる。

 琉球朝日放送報道部記者で、喜久里逸子さんという方が、自分の子育てについて、ある雑誌に投稿しています。

 終業式の日、小学校四年生になる娘さんが通知表を持って帰ってきました。

 「うん、ゼロだね。やったね、おめでとう。」

 何がゼロだったかというと、遅刻の回数のことです。一年生から三年生まで、遅刻が多かった。何度注意しても遅れる。学校の先生からお母さんにも注意された。ところが、あるとき自分の小学生の時の通知表を見たら、遅刻が多かった。これは遺伝だと思ったら、子どもに注意できなくなった。そこで、注意するのを止めて、見守ることにしました。

 「のんびり屋の娘も忘れ物をすると自分が困ることを繰り返し思い知らされたのか、これもまた少しずつ改善の兆しが見えてきている。しばらく見守る側に徹することにする。途中で親が余計な介入さえしなければ、子どもは自ら問題に気づき解決しようとする能力を持っている。放任でもなく(放任は子どもをまどわせる)、無視でもない(無視は心を殺してしまう)。見守るのである。」(「あけぼの」、一九九九年四月号、一三頁)

 そして、こうも言っています。

 「子どもを将来、自立した人間として社会に送り出すことが親の義務だと思う。」

 以前にも、親子の関係について、欧米の親子と日本の親子との違いを申し上げたことがあります。日本の母親は、子どものへその緒を大事にする、つまり、親子との絆を大事にする、欧米の母親は、初めて歩いたときのちっちゃな靴を大事にする、つまり、自立の始めを記念する、という違いです。

  愛は見守る

 彼女の言葉を続けましょう。

 「例をしめしてやろうと『おかあさんはこうだった』『お母さんならこうする』と言ったとたん『私はお母さんではない』と返され、励ますつもりが、がんばれの連呼で結果的に努力の強制をするはめになったり。

 何十年も人生を積み重ねてきた大人である母親が、ここぞとばかりに一気に放つパワーは、受け入れ態勢の整っていない子どもにとっては、重く巨大なエネルギーに違いない。追い込まれた子どもは気の毒だ。そんなときの強制は愛情という免罪符になり兼ねない。風邪薬のような即効性はないかもしれないが、大人が示すべきは、真剣に生きる姿であり、子どもを包み込み、受け入れる心だと思う。

 娘は十歳。そろそろ反抗期にさしかかってきた。これも成長過程だと思えばうまく付き合える。

 『違うってばっ。そうじゃないって言ってるのに!』目に涙をにじませて父親に反抗する娘。夫が席を外したすきに、なだめようと声をかける。

 『お母さん、けんかするほど仲がよくなるって言うでしょ』と笑った。娘の顔がかすかに大人びて見えた。」

 愛は、基本的に見守ることです。神が愛である、ということは、神が私たちの日常をいつも見守っていてくださる、ということなのです。そして、必ず、一人一人にふさわしいように導いてくださる。これが、聖書の信仰です。

 人間ですから、出来事ごとに一喜一憂するわけですが、先ほどの森司教は、こう言っています。

 「『とき』の流れのかなたに絶対的な希望を見出していくのが、信仰である。ここから、一瞬、一瞬の『とき』を誠実に受けとめ、人生を前向きに生きていこうという姿勢が生まれてくるのである。」

  (二〇〇三年一月一九日、降誕節第四主日、第二礼拝の説教要旨)