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「破滅の危機から希望へ」

 石川 和夫牧師

  エッサイの株からひとつの芽が萌えいで

 その根からひとつの若枝が育ち

 その上に主の霊がとどまる。

(イザヤ書一一・一〜二a)

 

  エッサイというのは、旧約聖書の中で最も評判の高かったダビデ王の父の名前です。株というのは、切り株という意味です。ダビデ王家の断絶を意味しています。つまり、大きな木が切り倒されて切り株しか残らない。

 「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで」というのは、ダビデ王家が断絶して絶望的な状況に陥るけれど、そこから、新しい希望の芽が萌え出てくる、そして

 「その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。」

のです。破滅の危機に瀕していても必ず、新しい道が開かれるように聖霊が導いておられる、「破滅の危機から希望へ」と道が開かれる、というのがこの預言の意味です。

 この預言は、イエス様が生まれる約七百年前、南北に分裂していた北イスラエルと南ユダ王国のうち、七二二年に北イスラエルがアッシリアに滅ぼされ、南ユダもヒゼキヤという王様が統治していたのですが、エルサレレムが包囲されて風前のともし火となるのですが、アッシリア本国で政変が起こったため、包囲軍が急遽引き上げて、危機を出した状態のエルサレムで、イザヤが語った預言です。

 風前の灯状態だったダビデ王家は、結局、五八七年に、バビロンによって滅ぼされるのですが、イザヤは、実際に滅びる以前に、ダビデ王家は滅びる、しかし、そこから新しい芽が出る、破滅してもなお、そこに希望がある、と預言します。こうして現れる新しい王は、

 「知恵と識別の霊

 思慮と勇気の霊

 主を知り、畏れ敬う霊。

 彼は主を畏れ敬う霊に満たされる。

 目に見えるところによって裁きを行わず

 耳にするところによって弁護することはない。

 弱い人のために正当な裁きを行い

 この地の貧しい人を公平に弁護する。

 その口の鞭をもって地を打ち

 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。

 正義をその腰の帯とし

 真実をその身に帯びる。」(イザヤ書一一・二〜五)

という完全に理想的な王です。

 イザヤの預言の後半は、完全な平和です。それが野獣と家畜、乳飲み子の共存という形で表現されます。

 「狼は小羊と共に宿り

 豹は子山羊と共に伏す。

 子牛は若獅子と共に育ち

 小さい子供がそれらを導く。

 牛も熊も共に草をはみ

 その子らは共に伏し

 獅子も牛もひとしく干し草を食らう。

 乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ

 幼子は蝮の巣に手を入れる。

 わたしの聖なる山においては

 何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。

 水が海を覆っているように

 大地は主を知る知識で満たされる。

 その日が来れば

 エッサイの根は

    すべての民の旗印として立てられ

 国々はそれを求めて集う。

 そのとどまるところは栄光に輝く。」(イザヤ書一一・六〜一〇)

 互いに殺しあうことは、決してない本当の平和のときが到来する、というのです。それは神さまが下さる平和のときです。

 美しい「受胎告知」物語

 今日の新約のルカによる福音書一・二六〜三八は、よく知られている、マリアに対する神の子の誕生の告知です。子どもたちが演ずるページェントでは、もっとも可愛らしい場面です。

 「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」(一・二八)という天使の呼びかけに始まって、「あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。」(一・三一)と告知され、「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」(一・三八)とマリアが答えます。たいへん美しい場面として受け止められてきました。

 今日の週報の表紙のボッティチェリの「受胎告知」の名画は、その典型です。マリアの従順な信仰の姿勢は、まことに美しく、気品溢れるものでもあります。

 しかし、現実はそんなに美しいものではなかったのではないか、と想像されます。

 聖書の記事はすべて、もともと語り伝えられたもの、いわゆる伝承がそのもとになっています。それに信仰による解釈がほどこされて、文章として書き留められ、伝えられてきたものです。ですから、私は常々、聖書の記事は、信仰による解釈の文学で、文字通りのことが起こっていた、と受け止める必要は無い、と申してきました。私たちでも人から聞いたことをを伝えるのに、無意識にでも自分の解釈を加え、場合によっては、尾ひれをつけて伝えることがよくあるのは、週刊誌の記事で、よく経験することです。だから、読むにあたっては、かなりの想像力を働かさないと真実を間違って受け止めてしまいかねません。現代は、週刊誌の記事を鵜呑みにする人が多すぎるような気がします。

 フェミニストと呼ばれる女性の立場から聖書を読み直すという聖書学者がいます。その一人の山口里子先生が、「処女降誕を読み直す」という文章を読んで、私はたいへん感動しました。

 先生は、マリアの「処女降誕」の伝承は、どのようにして起こったのかを詳しく検証されました。そこで、まずマリアの妊娠は「婚外妊娠」だったことは事実のようだ。マタイによる福音書でも「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」(マタイ一・一六)と男性中心の系図の中で述べている。ルカによる福音書での系図では、「イエスはヨセフの子と思われていた。」(ルカ三・二三)と書いている。

 一世紀のキリスト教批判の文書では、イエスが父親の分からない子として生まれた、とよく書かれていて、それに対してキリスト教の側から強烈な反駁の文書が出されていたようです。

 マルコによる福音書でも故郷のナザレでは受け入れられなかったという記事の中で、「この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。」(マルコ六・三)と書かれていて、当時、普通は父親の息子、イエスであれば、「ヨセフの子」とは呼ばれていないことも、人々がイエスを蔑視していた様子が伺われる。

 ヨハネによる福音書でも「神の子」性に関するG異論で、人々がイエスに「私たちは姦淫によって生まれたのではありません」(ヨハネ八・四一)と言って、「私たち」を強調していますが、ここには「しかし、お前は……」というあざけりが暗示されているし、「あなたの父はどこにいるのか」(八・一九)という問いにもそれがあるのかも知れません。

 伝承は、どのようにして生まれたか

 少なくとも、マリアが正式に結婚していないで、子どもを生むということに困惑していた。同時に、婚約者のヨセフも困惑した。だから、ひそかに離縁しようとしていた。(マタイ一・一九)しかし、二人とも、聖霊によって、あるいは夢の中での天使のお告げによって、婚外妊娠を受け入れるに至った、と聖書が語っている、その伝承は、どのようにして生まれたのだろうか、と山口先生は研究を進められます。

 先生は、この伝承は、イエスによって生き生きと生きるように生まれ変わらされた女性たちが伝えたのに違いないと考えられます。しかも彼女たちも大なり小なりに、マリアの困惑と似た経験をしながらイエスによって立ち直ることが出来た人たちだろう。

 いずれにしてもマリアとヨセフは、イエスの誕生まで、またそれ以後もずっと人々の軽蔑の眼にさらされ、差別されてきたに違いありません。そしてイエスも生まれてこのかた同じような差別と蔑視の目にさらされ、これに耐えながら、成長されたに違いありません。

 だから、同じように差別や蔑視の中に置かれている人々の側にいつも身を置き、そのような人たちの苦しみや悲しみを全く知ろうともせずに、自分たちがいかにも敬虔なのだと振舞うファリサイの人たちを激しく攻撃されたのだと思います。そして神は、これらの人々をこそ愛され、救おうとしておられると確信されて、人々に伝えたのではないでしょうか。こうして山口先生は、次のように、伝承が生まれたと推論しておられます。

 「たとえ世間でさげすまれる婚外妊娠の子であっても、私たちが出会ったイエスはまさに『神の子キリスト』であり、母マリアは責められるべき汚れた女性ではなく苦境の中で聖霊によって包まれ導かれた方です、という彼女たちの信仰告白の表現として、最初の口頭伝承が生み出されて行ったのではないかと思われます。」(「福音と世界」一二月号一八頁)

 辛さと共にいてくださる神

 先生は、昨年のクリスマスに矯風会慈愛寮で説教されました。慈愛寮は、出産前から出産後六ヶ月までの女性たちとその乳児たちを保護する施設です。普通の結婚生活を送ることの出来ない女性たちとその乳児たちです。そのときのキャンドル・サービスの参加者は、そのような女性たち約二十人、彼女たちを援助する役所関係の女性たち慈愛寮で働いている人たち、それに矯風会の役員たちで、合計約五十人でした。

 その説教で、マリアの婚外妊娠についてのご自分の考えを述べられた後、次のように結ばれたのです。

 「恐らくそのような伝承を伝えた女性たちにとっても、マリアの妊娠と出産は他人事ではなかったのでしょう。その女性たちの中にも、ずいぶん辛い妊娠、出産、子育てを経験している女性たちがいたことでしょう。でも彼女たちは、神様が生きて働いておられることを確信していました。そして、さぞ辛かったであろうマリアを、せめて美しい愛の物語で包んであげたのです。

 それは、イエスと共に生きた女性たちから、イエスの母マリアへの感謝と愛の贈り物であったかも知れません。そしてこの物語はまた、数知れないマリアのような女性たちへ希望と勇気を呼びかける愛の贈り物であったかも知れません。そしてこの物語はどれほど多くの女性たちの涙を吸収して、語り継がれたことでしょう。

 そしてどれほど多くの女性たちが、絶望の涙を拭い、希望の笑顔を取り戻して生きたことでしょうか。恐らく二千年近くものあいだ失われていた女性たちの愛と信仰の物語に、私たちは今再び真摯に耳を傾け、思い巡らし、語り継いでいけたらと思います。

 今年のクリスマス。日本中にも、世界中にも、涙の内にクリスマスを迎える人がどれほど沢山いることでしょう。その一人一人に、かつて絶望の淵に立たされていたマリアに示されたと同じ大きな神様の愛が注がれることを祈りつつ、クリスマスを迎えたいと思います。」(前掲書、二四頁)

 イエスの誕生の真実については、分かりません。伝統的に伝えられているように「奇跡的な誕生」かも知れませんし、あるいは山口先生のおっしゃるような婚外妊娠だったか、それはなんとも言えません。

 しかし、仮に、そうだとしてもその出来事をおかしな、いけない出来事と決め付けるのではなくて、辛さの中にある人の側に神が立っていてくださる、聖霊で包んでいてくださる。

 そしてヨセフが最終的にマリアを受け入れたのは、マリアを本当に愛していたから、こんなことで自分が逃げていいのかと自分に問いながら、聖霊の助けによって、それが実現したのだと思わずにはおれません。 

 「絶望の危機から希望」が生まれる、というのは、やはり神がどんなときにも「お前は大事だぞ、お前だけが悪くないぞ」とおっしゃって、そばにいてくださる、まさに「神がわれらと共にいる」、イエスの名前の意味「インマヌエル」が確かめられるときではないでしょうか。

 (二〇〇二年一二月二二日、降誕前第一主日、クリスマス特別礼拝の説教要旨)