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「神さまが選んだ」

 石川 和夫牧師

 主はアブラハムに言われた。

 「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。

主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。

そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」

(創世記一八・一三〜一四)

 

  イスラエルの先祖は遊牧民でした。今でも、あの地域に、昔と同じようなテントで暮らしているベドウインという遊牧民がいます。アブラハムたちは、テント暮らしでした。今もイスラエル軍とパレスチナ人の紛争が続いているヘブロンの郊外のマムレというところで、羊や牛を飼っていました。

  ある暑い真昼のこと、彼は暑い日を避けて、テントの陰に居たのですが、三人の旅人が近づいてくるのが見えました。暑い日盛りに旅をすることは、たいへんなことです。アブラハム自身、ずいぶん長い旅をして、充分そのことは経験して知っていました。だから、すぐに迎え入れるのです。

 目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。アブラハムはすぐに天幕の入口から走り出て迎え、地にひれ伏して、言った。

 「お客様、よろしければ、どうか、僕のもとを通り過ぎないでください。水を少々持ってこさせますから、足を洗って、木陰でどうぞひと休みなさってください。何か召し上がるものを調えますので、疲れをいやしてから、お出かけください。せっかく、僕の所の近くをお通りになったのですから。」

 その人たちは言った。

 「では、お言葉どおりにしましょう。」

 アブラハムは急いで天幕に戻り、サラのところに来て言った。

 「早く、上等の小麦粉を三セアほどこねて、パン菓子をこしらえなさい。」

 アブラハムは牛の群れのところへ走って行き、柔らかくておいしそうな子牛を選び、

召し使いに渡し、急いで料理させた。

アブラハムは、凝乳、乳、出来立ての子牛の料理などを運び、

彼らの前に並べた。そして、彼らが木陰で食事をしている間、

そばに立って給仕をした。

(創世記一八・二〜八)

 たいへんなもてなし方です。彼は、最初、彼らが神の使いであるとは全く知らないで、最上級のもてなしをしたのです。創世記の著者は、そのあたり、つまり、三人の旅人とアブラハムのやりとりの変化を次のように表現します。

 その人たちは言った。 「では、お言葉どおりにしましょう。」(五節)(三人称複数形) アブラハムの長いおしゃべりの後にしては、とても素っ気無い感じです。それが、アブラハムが懸命に給仕して、食事をしている間に、

 彼らはアブラハムに尋ねた。

 「あなたの妻のサラはどこにいますか。」(九節)(三人称複数形)

 「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、

彼らの一人が言った。

(九節、一〇節)(三人称単数形)

 「彼ら」から「一人」になります。

 「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、

あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」

サラは、すぐ後ろの天幕の入口で聞いていた。

アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、

しかもサラは月のものがとうになくなっていた。サラはひそかに笑った。

自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、

主人も年老いているのに、と思ったのである。

 主はアブラハムに言われた。(一〇〜一三節)

 「彼ら」から「一人」になり、そして最後は、「主」つまり神さまになります。ここで、私は、ヘブライ人への手紙一三章二節を思い起こします。

 旅人をもてなすことを忘れてはいけません。

そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。

 ここで言う「ある人たち」というのは、言うまでもなく、アブラハムたちのことです。旅人、あるいは寄留者を大事にしなさい、ということです。旧約聖書では、このことがずいぶん強調されています(申命記二四・一四〜二二)。自分たちの先祖がエジプトで奴隷であったことを思い起こして、寄留者に便宜をはかってあげなさい、と命じています。

 今では、昔のように歩いて旅をするということは、ほとんどありませんが、日本でも多くの外国人の寄留者がいます。いろいろな不便を味わっています。だから、それらの人たちを大事にする、ということは、聖書の一貫したメッセージです。そのことが神さまをもてなすことに繋がるのです。

 人を愛することが神を愛すること

 信仰というと、神さまとの関係だけを考えがちですが、聖書で示されている信仰は、神様との関係と同時に人との関係、すなわち隣人を愛する、ということが不可分離なのです。人を愛することが、神を愛する、ということなのです。罪は、何も道徳的な問題とは関係なく、人を愛することにおいて、怠慢であったり、無頓着であることを指しています。礼拝の中でのざんげは、人を愛することにおいてのざんげなのです。だから、「天地神明にかけて一点の曇りも無い」ということはありえないのです。

 いわゆるご利益宗教というのは、自分が救われることが中心になっていて、そのためには、人に施しもしなければならない、と救いの条件になっています。一見、同じように見えますが、実は、根本的に違います。

 聖書で示される「救い」は、無条件です。神さまは、どんな人も救っておられます。だから、感謝して、出来るだけ、人に仕えるのであって、人に仕えるのに、これでいい、という物指しはありません。だから、永久に、神さまに、ごめんなさいを言い続けるしかないのです。これが謙遜ということです。

 しかし、ご利益宗教では、自分が救われたと確信すると、まだ、救われていない人を潜在的に見下げてしまいます。自分が救ってあげようと仕えているのに、受け入れてくれなければ、その本人の責任だから、と切り捨ててしまいます。

 だって、すでに神さまがその人を救っておられるのに、人間の側で(自分なり、他人が)勝手に「救い」であくせくする。神さまから御覧になれば全く見当違いなことをしていることになります。

 だから、天国とか極楽が救いの目的になっている宗教は、たとえ、キリスト教と名乗っていてもご利益宗教に過ぎなくなります。

 してあげる、という愛は、相手を対象化していて、見下げています。愛は、キリストがお示しになったように、相手と全く同じ立場、もしくは、もっと下に立ちます。「為に」ではなくて、「共に」ということです。

 幼稚園が見つからない

  キリスト教教育の専門家で、今から三年前に亡くなられた水野誠先生という方がいらっしゃいます。鶴川シオン幼稚園の園長をしておられたのですが、入園式にお母様たちに話されたことが残されています。以前に青山学院大学の神学科でも教えておられたのですが、その授業に、英文科の学生さんが聴講に来ていました。

 英文学を学んでおられる間に、キリスト教についても理解しなければ、英文学は、分からない。と気づいて、聴講していた、ということで、先生も感心しておられた優秀な学生さんでした。卒業した後、イギリスに留学、エリートの方と結婚して、しばらく海外生活をした後に、帰国、子どもさんを幼稚園に入れることになりました。

 そこで、いろいろな幼稚園を訪ねて、保育の内容を確かめました。英語も達者、キリスト教のこともある程度勉強している、というエリートのお母さんから見ると、どの幼稚園の若い先生方がとても頼りなく見えたようです。どうしてもこれだ、という幼稚園が見つからないものですから、水野先生のところに相談に見えます。

 「先生、子どもを預けられるいい幼稚園がどうしても見つからないんですが……」

 「どうしてですか?」

と水野先生が訳を尋ねた後に、こうおっしゃったそうです。

 「あなたは、幼稚園の先生になられても、きっと立派な先生になられると思いますよ。でも、どんなに立派な先生でも四歳の子どもたちの集団の代わりは出来ませんよ。」

 さすがに聡明なその人は、気づきました。

 「ああ、しまった、考え違いしていました。幼稚園に入れるというのは、すてきな先生のところに預けるんだと思っていたけれども、そうじゃないですね。子どもの集団の中に入れるということですよね。」

 「そうですよ。そうでなければ、うちにいてベビーシッターを雇ったらいいんですよ。何で集団保育が大事なんだろうということを、もう一遍考えて幼稚園を探してちょうだい。」

 それから数週間たって、また会いました。晴れ晴れとしたお母さんに言いました。

 「どこに入れましたか」

 「先生、結局、うちから一番近い幼稚園に入れました。そこだとお友達もできるし、買い物に行っても、遊びに行っても、幼稚園のお友達と会うし、とてもいいと思います」

 「よかったですね」

 水野先生のまとめの言葉を紹介しましょう。

 「集団保育ということの持っている意味、つまり子どもは先生が何かを教え込んで学ぶのではなくて、同じような成長過程をたどっている子どもの集団の中で遊んだり、けんかしたり、いじめられたり、助けられたり、いろんな経験をしながら、そこで学んでいくんだ、それが集団保育の持っている意味なんだ、それをまず考えておきたいと思うんですね。」(水野誠「あなたの子どもは大人になれるかー保育の中の聖書―」、新教出版社、一九九九年一二月二八日、二五四頁〜二五五頁)

 どんなに小さい子どもでも、人と人との間で育っていく、そして、人を愛する事を学んでいく、ということが大人になる、ということです。学力や技術が優秀でも愛することができなかったら、幸せになれないし、将来、きっと孤独に悲しむことになるでしょう。だけど、どんなに欠陥があっても、愛することを学んでいれば、どんな状況になっても大丈夫です。

 へその緒とベビー靴

 もう一つ、日本では、お母さんが、子どものへその緒を大事にしていることについて、水野先生が面白いことをおっしゃっているので、お伝えします。

 「どうしてへその緒を大事そうにとってあるのでしょうか。私がアメリカで勉強していたときに、ちょっとこのことを思い出して、アメリカのお母さんたちに聞いてみたんですよ。

 『あなたは、自分のお子さんのちいさいときの何か、記念にとってあるものがありますか』

 『ありますよ』というお母さんがたくさんいるんです。

 『何をとってありますか』

 『この子が初めて履いた靴をとってあります。これを結婚するときに持たせてやろうと思っています。』

 小さな小さな初めて履いた靴で、もちろんおうちの中で、ようやく立っちしたときに履いた靴ですから、フェルトかなんかのやわらかい布でつくった、外を歩く靴ではありませんけれども、小さな小さなベビー靴、それを大事にとってあるんですよ。

 それで私は、へその緒をとっておく愛情とベビー靴をとっておく愛情とは、どういう違いがあるだろうと考えた。へその緒というのは、お母さんと赤ちゃんの連帯のきずなでしょう。へその緒をとっておくことが愛情のあらわれであるという愛情は、どういう愛情かというと、あなたが幾つになろうと、あなたは私の子、私から生まれた子、私につながっているもの、ということでしょう。

 しかし、靴をとっておくという愛情は、どういう愛情でしょうか。これは、あなたが初めて私のひざを離れて、自分の足で立った、その記念ですよ。親から独立して、自立して、自分の足で立ったことを喜ぶ愛情なんです。大変な違いだと思いませんか。

 子どもが自分から離れて、自立していくことを喜んで祝福する愛情と、いつまでたってもあなたは私のものだと言っている愛情とは、大変な違いなんです。」(前掲書、二七五、二七六頁)

 ほんとうに、そうですね。今日の主日の主題は、「神の民の選び(アブラハム)」です。アブラハムが三人の旅人を懸命にもてなしたことを通して、神様の選びがなされた。

 聖書では、神さまが特別にお選びになったとき、不思議な誕生が起こっています。エルカナの不妊の妻、ハンナからサムエルが、そして結婚前のマリアからイエス・キリストが生まれた、などなど。今日の箇所は、アブラハムが旅人をもてなしたことを通して、アブラハムが選ばれた、ということに注目しましょう。

 私たちは、人に仕えるために選ばれました。人を愛することにおいて、自分の欠けや弱さを認識させられる、そのことが神さまに愛されているということに繋がってくるときに、自由を知る、という特権に与かるのです。アブラハムは知らないで神さまの使いをもてなしていました。私たちも日々、人に向かうときに、ひょっとすると、この人が神さまの使いかも知れないぞ、と考えてみませんか。

    (二〇〇二年一一月一〇日、降誕前第七主日、幼児祝福家族合同礼拝の説教要旨)