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「厄介者の受け入れ」

 石川 和夫牧師

 それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。

(コリントの信徒への手紙一・一二・二二)

 「信徒の友」八月号に、私たちの教会員である鈴木満里さんのことが写真つきの記事で紹介されています。「平和・共に生きることから」という特集の中で、「たとえ割高であっても、身近な国際協力として」「『教会のコーヒー』をめぐって」という記事があります。書いておられるのは、日本福音ルーテル聖パウロ教会牧師、松木傑(すぐる)先生です。この先生は、NGO、「わかちあいプロジェクト」の代表をしておられます。

 タイ山岳地帯の人たちの生活向上のために、彼らが生産するコーヒーを労働に見合った適正な値段で購入しようという目的のNGOです。どうしてこのようなNGOを始められたかについて、先生は、こう述べておられます。

 「私が、タイの山岳地域に住む人たちの生活向上のために役立ちたいと思うようになったのは、一〇年以上前にチェンマイを訪問したときの体験からきています。

 そのころ、長く経済発展の恩恵から取り残された山岳地域の村に電気が引かれ、テレビが見られるようになっていました。すると村にはコマーシャルがあふれ、その結果、貧しい村びとは、自分の娘を売って手にしたお金で冷蔵庫やテレビを買う。そんなことが起こっていたのです。

 『村の教会の問題は何ですか』

 こんな私の質問に、神学校の先生がいわれました。

 『教会員が娘を売ることです』

 今も忘れることができない言葉です。」(「信徒の友」八月号、二五頁)

 私たちが普通に飲むレギュラーコーヒーはアラビカ種のコーヒーで、海抜一〇〇〇メートル以上の高地で栽培されます。ケシなど麻薬の栽培と同じ立地条件でもあり、タイのこの地域も、以前は麻薬地帯でした。そこで、この地帯の人びとが経済的に自立できるようにとコーヒー精製のための資材を提供し、コーヒーの栽培を指導しました。

 しかし家族単位の小規模生産のため、単価が高くなり、なかなか売れないので、それでは現地で売ろうということで、昨年、チェンマイにコーヒーショップを開店し、ホームページを作って宣伝につとめた結果、売れるようになってきたのです。

 現段階ではまだ赤字ですが、売り上げの一〇パーセントをNGOの支援活動に使うことを決め、山岳地帯の少女たちを支えるプロジェクトのための調査を始めています。鈴木満里さんは、ここでマネージャーとして働いているのです。

 ちっとも知りませんでした。そのボランテヤの人たちの写真が出ています。二列に並んでいる、その前列左が鈴木満里さんと紹介されているのですが、私の見るところでは、どうも後列左ではないかと思うのですが、これは後で皆さん確かめてみてください。

 このコーヒーが「教会のコーヒー」だったのです。私たちもバザーで扱ったことがありますが、どうも高くて売れない、と評判は、もう一つでした。自分でも買わなかったし、人にも勧めませんでした。お恥ずかしいことです。

 松木牧師は、こう述べておられます。

 「メキシコから、このような訴えが届いています。

 『つい最近コーヒー栽培者が私に語ったところによると、彼らはブローカーを』通じて、日本にコーヒーを一キロ当たり一一〇円(私たちの購入価格のおよそ三分の一です)で売ったそうです。まさに泥棒行為です。世界的コーヒー市場の低落によって、彼らの収入は空前の低さに達しています。多くの栽培者は自分の農地を離れて、米国で仕事を見つけようとしていますが、これはすでに貧しい状態にある家族に、さらに苦難を与えることになるのです』」

 私たちが割安のコーヒーを飲んでいるのは、こういう大手の業者が、叩いて、叩いて安く仕入れて私たちに安く提供して、しかも自分たちは大もうけしているのです。一方で、貧しい生産農家は、さらに貧しくなり、一層条件の悪い仕事麻薬売買に走らざるを得なくしてしまっています。

 「安い」というだけで喜んで買っていてはいけないんだ、とつくづく考えさせられました。

 極端な安売りの背後には、必ず、そのことで泣かされ、不幸になっている人たちがいる、という事実を決して忘れてはならないと思います。安売りを喜んで利用するということは、貧しい人たちを一層貧しくし、ぼろもうけしている人たちに利用されていることになります。

  自分の弱さの受け入れ

 今日のテキストは、コリントの信徒への手紙一の一二章一二節から二六節までです。いわゆる教会はキリストの体です、というパウロの有名な論説です。特に、二六節、

 一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が喜ぶのです。

 しばらく教会生活をされている方には、耳慣れた言葉です。しかし、私たちは知らない間に、弱い人たちがさらに弱くされていることに加担してきたかも知れないのではないでしょうか?アジア、アフリカ、中南米の人々の貧困化を私たちも間接的に助けてきた、ということに気づかされました。

 今日の説教題が「厄介者の受け入れ」となっています。これは、今日の日課の福音書、マルコによる福音書九章三三節から三七節に、弟子たちが、この中で誰が一番偉いか、と議論しているのを聞かれたイエスが、

 十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた、「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなく、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。

に由来します。聖書の書かれた時代には、女、子供は数に入っていませんでした。特に、子供は、未成熟で一人前ではない、時としては、わがままで騒がしい、ということで邪魔者、厄介者扱いされていました。だから、弟子たちもそのような価値観に影響されていましたから、イエス様が話しているところへ子供が来れば、追い払うのが普通だったのです。

 しかし、イエスは、こういう者を受け入れるのはわたしを受け入れるのだ、と言われたことは、まず、神の国においては、自分たちの持っている常識やいいと思っている価値観をひっくりかえせ、と言われていることになります。

 キリストの体、教会においては、強い者が一層強くなることではないはずなのですが、教会の歴史を振り返って見ると、倫理的なことが強調されたために、こうでなければならない、こうであるはずだ、となって結果的には、そうではないと見られる者、弱さが否定され、みんなで一生懸命強さを目指すことになっていました。

 それはまず、自分の弱さを直視して受け入れると共に、他者の弱さを受け入れることです。人間は、自分の弱さには鈍感で、強さを過大評価しがちです。強さ(長所)と同じだけ弱さ(欠点)があるのです。そのように認識している人は、自由です。弱点を指摘されるとカっとなるのは、自己受容が出来ていない証拠です。強さと弱さがバランスを取れて人は始めて自由になるのです。

 自分の弱さを受け入れている人は、他の人の強さから学びます。たとえ嫌いなタイプの人でも、その良さを見出すことが出来ます。あらゆる人から大事な事を学ぶのです。

 その意味で、キリストの体は、弱さにおいて連帯しているのです。弱さから出発するのが、キリストの体なのです。無意識に繰り返している自分の失敗が他の人によって受け入れられ、赦されていることを自覚する、ほんとうに謙遜になることからキリストの体となってゆくのです。

 自分にはやれていることが人には出来ていないと、つい他の人を見下げてしまいがちです。これが人間の持っている「善悪の知識」の必然性です。だから、礼拝で罪の告白をすることがとても重要になるのです。

  同じ目の高さで

 現在、神奈川県の溝口教会におられる大倉一郎牧師が前任の川崎戸出伝道所におられる頃、一九九二年から一九九四年にかけて、カナダに留学されました。その間に、トロントのリージェント・パーク・コミュニティ・ミニストリーにボランティア・ワーカーとして参加されました。

 リージェント・パークは、トロントの中心街から電車で十五分以内のダウン・タウンの一角を占めて、およそ五千人の人々が生活する地域です。約百年前に移住したアイルランドの移民が最初の町を作りました。時代が変わって、今では、非西欧系ヨーロッパ移民の子孫、東南アジア系移民、アフリカ系移民、ラテンアメリカ系移民がほとんどです。彼らには半永久的な失業、母子家庭、心身障害、老齢、孤児など生活困難の問題が多い地域です。日本で言えば、山谷とか釜ヶ崎と似ているでしょうか。

 このミニストリーの主事をしておられるカーメル・ヒーリーさんと一緒に仕事をして。大倉牧師は多くの事を学びました。カーメルさんは、地中海の島国マルタ共和国に生まれ、二十台半ばでアメリカに渡り、後にカナダに移って、現在の仕事をしている小柄で親しみの涌くおじさんです。彼が街を歩いていても、コーヒーショップでも、誰もが「やあ、カーメル!」と気軽に話しかけてきます。彼はニコニコしながら人の話をじっくり聴いて、独特の癖のある英語でいろいろ答えていました。権威的な態度とは全く無縁の人で、どんな人にもまったくの友人として接していました。

 ある日、大倉牧師は、彼に尋ねました。

 「カーメルさん。あなたはここで十年以上働いてきたというが、リージェント・パーク地区の人々と出会って、キリスト者として最も強く考えることは何ですか」

 「ここに生きる人々は、私も同様だが、一人の弱さをもった人間です。人間らしく生きるには、人も社会も新しくならなければならないと思う。そのために誰もが互いに助けを必要としている、私はこのことを強く言いたい。だが多くのキリスト者、とくに牧師や神父、教師と呼ばれる人々はリージェント・パークの人々を助けてあげよう、人々に人間らしい生活を教えたい、という強い使命感をもってやってくる。だけど本当はその人自身も、この社会の中で病んでいる一人であり、人間であるためには、新しくされる必要があるのだということに気づいていない。この町で私が人々から助けられ、癒され、学んで、新しくされたことがどんなに多かったか」。(大倉一郎「河原の教会にて」、新教出版社、二〇〇〇年七月三日、初版、一二四頁)

 いいことをしてあげよう、という姿勢は、無意識に自分を強い立場に置いています。弱い相手を助けてあげなくては、というのでは、最初から自分を強い人、相手を弱い人にしているのです。決して対等ではないのです。それでは、相手の人は嬉しいと思えないのです。憐れみをかけられた、もっと悪い場合は、恩を着せられた、としか受け止められません。

 自分にも同じ、あるいはそれ以上の弱さがある、という自覚が弱さの共感を生みます。さらに、どんな人からも学びたい、それがカーメルさんの目線です。

 大倉牧師は、さらに尋ねます。

 「新しくされる?それではあなたは町の人からどうやって学んできたのですか」

 まず自分の方から人々を訪ねて歩くことだ。そして皆と語り合うとき、同じ目の高さで語り合おうと心がけてきた。そう、人間を求めて歩くこと。同じ目の高さ。それだけだ。」(前掲書、一二八、一二九頁)

 自分自身が解放されること、それを願いながら、人間を求めて歩く。出来るだけ理解しようと同じ目の高さで接していく。自分の弱さをしっかり受け止めること、本当の厄介者は、自分なのだ、という自覚、それがキリストの体の出発点です。

   (二〇〇二年七月二一日、聖霊降臨節第一〇主日第二礼拝の説教要旨)