お話を読むライブラリーへ戻る トップページへ戻る
「癒しへの派遣」

石川 和夫牧師

 どうか、御手を伸ばし聖なる僕イエスの名によって、病気がいやされ、

しるしと不思議な業が行われるようにしてください。

(使徒言行録四・三〇

 「癒やしとはそもそもなんだろうか。人間の存在は肉体のみで成り立っているのではない。肉体と精神と心とで成り立っている。誰も近付こうとせず、誰からも愛されず、自らも死をのみ願っていた病人がイエスの愛に触れたとき、病人の全存在がイエスの光によって立ち上がった。生命力に充ち溢れ、死へ傾斜するのみだった人生の軸先が、生の方向へ転換し向け替えられたのである。 病んだ人間全体が生き返った、と見るべきだろう。」(重兼芳子・前島誠「癒しは沈黙の中に」、春秋社、一九九〇年二月二五日、第一刷、二二頁)

 聖書で示されている癒しの業というのは、単に病気の箇所、怪我の箇所を治してあげるということにとどまらないで、その人が絶望的な生き方をしていたのを希望の生き方に変えられる、人間全体が生き返るということです。

 今日のテキストは、使徒言行録四章一三節以下のペトロとヨハネがなした癒しの業の波紋の箇所です。この物語は、三章一節から始まります。

 ペトロとヨハネが、午後三時の祈りの時に神殿に上って行った。

(使徒言行録三章一節)

 すると、生まれながら足の不自由な男が運ばれて来ます。彼は、いつものように物乞いをしに来たのです。そこへペトロとヨハネが通りかかります。彼は、この二人にも物乞いをします。

 ペトロはヨハネと一所に彼をじっと見て、

「わたしたちを見なさい」と言った。

その男が、何かもらえると思って二人を見つめていると、

ペトロは言った。「わたしには金や銀はないが、持っているものをあげよう。

ナザレの人イエス・キリストの名によって立ち上がり、

歩きなさい。」そして、右手を取って彼を立ち上がらせた。

すると、たちまち、その男は足やくるぶしがしっかりして

、躍り上がって立ち、歩きだした。そして歩き回ったり躍ったりして神を賛美し、

二人と一緒に境内に入って行った。

民衆は皆、彼が歩き回り、神を賛美しているのを見た。

彼らは、それが神殿の「美しい門」のそばに座って施しをこうていた者だと気づき、

その身に起こったことに我を忘れるほど驚いた。

(使徒言行録三章四節〜一〇節)

 ここがとっても大事なところですが、病気が治って大喜びしたというよりも、これが神の業だったということを彼が受け止めて、躍りながら神を賛美したということです。民衆が皆非常に驚いて集まってくると、ペトロは彼らに話を始め、これがイエスの名によって起こったことを雄弁に語ります。

 しかし、神殿の上位の人たち、祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人たちにとっては面白くない。

 ペトロとヨハネが民衆に話をしていると、

祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来た。

二人が民衆に教え、イエスに起こった死者の中からの復活を宣べ伝えているので、

彼らはいらだち、二人を捕らえて翌日まで牢に入れた。

既に日暮れだったからである。

しかし、二人の語った言葉を聞いて信じた人は多く、男の数が五千人ほどになった。

(使徒言行録四章一節〜四節)

 こうして、二人は尋問されるのですが、ペトロとヨハネは全くたじろがないで、堂々と自分の信じるところを述べます。その結末の部分が今日のテキストです。そのすぐ前に、たいへん有名な聖句があります。

 ほかのだれによっても、救いは得られません。

わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです。

(使徒言行録四章一二節)

 つまり、この二人はイエスの名によって生きているという確信を持っています。そして、

 議員や他の者たちは、ペトロとヨハネの大胆な態度を見、

しかも二人が無学な普通の人であることを知って驚き、

また、イエスと一緒にいた者であるということも分かった。

(使徒言行録四章一三節)

と書いてあります。だから、なお驚いたのです。普通の者があんなに雄弁に語り、たいへん力ある業を行った、なんということだろう。ペトロとヨハネを捕らえた人たちは、ペトロたちが語った内容よりもイエスの名が及ぼす大きな影響を恐れたのです。しかも民衆が彼らを支持しているので、下手なことが出来ない。そこで、こっそり今後イエスの名によって語るなと命じます。

 ペトロたちの確信

 しかし、ペトロとヨハネは答えた。

「神に従わないであなたがたに従うことが、

神の前に正しいかどうか、考えてください。

わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」

(使徒言行録四章一九、二〇節)

 つまり、あるがままでしかありえない、そして、わたしの中に働いてくださったのは、イエスの名によって与えられている聖霊であり、神ご自身の力なのだ、ということを確信していたのです。最初に引用した重兼さんが、こう言っています。

宇宙万物の秩序のもとである神は、人間を神に似せてつくられた。だから神の願い、機能、責任などを人間に分担させようとなさっている。また神がなにを望まれるかを感知し得るのが人間の特質なのである。

 イエスが「悔い改めよ」と言われたのは、人間は神を超えることは絶対にできないこと、自分は神の前には壊れた存在であることを認めるように、ということなのである。反省する、とか後悔するとか、そのような倫理道徳とは関係がない。

 「あなたの前では、わたしはまったく不完全です」と、神に告白することである。今まで価値あるものと信じていた自分が、神の前では土の器であり、神によって新しくつくられなければ、新しい価値は生まれないと信じることである。(前掲書一二〇頁)

 つまり、本当の意味で自分に絶望する、ということですが、これが意外にむつかしいのです。だから、彼女は、こう言っています。

 その中途半端なところから、ひと思いに「自分は壊れて不完全な人間だ」と、神の前に心を開いてしまったらどうだろう。そう認めることは、かなり決心が必要だろうけれども、一度そう認めてしまうと、その後の人生がぐっと気楽になるのである。(前掲書一二一頁)

 ペトロとヨハネのあの力強さは、そういう神の前での、いい意味での開き直りの結果ではないでしょうか。破れた、壊れた自分が、そのままイエスの名によって強められている、自分が何かできているのではなくて、イエスの名によって働いてくださっている聖霊が不思議な事をなさってくださっている、というふうに信じていると思うのです。

 その力は、神から

 私は、このペトロとヨハネの姿を見るとマルコによる福音書三章一三節以下のイエスが弟子をお招きになった記事を思い起こします。

 イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられると、彼らはそばに集まって来た。

そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。

彼らを自分のそばに置くため、

また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。

(マルコによる福音書三章一三節〜一五節)

 使徒というのは、遣わされる者という意味です。私たちもイエスに捉えられた者として、同じように遣わされる者なのです。最初の使徒たちと同じ条件が与えられている事を見逃してはなりません。

 まず、イエスのそばに置く。(マルコ三・一四)私たちがイエスのそばにいようとするのではなく、イエスがそばに置いてくださるのです。だから、今日もイエスさまが私たちのそばにいてくださいます。

 次に、派遣して宣教させ(マルコ三・一四)、つまり、見たこと、聞いた事を語らないではいられないと人々に語り、

 さらに、悪霊を追い出す権能を持たせて(マルコ三・一五)、くださる。これは、単に、病気を治す能力が与えられる、ということではなくて、いろいろな形で虐げられて、生きる希望を見失っている人々への共感を持たせてくださっている、ということなのです。そういう人々を黙って見ていることが出来ない、それがイエスに召された者の一番自然な姿なのです。


 自分は、こんな「土の器」

ところで、わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。

この並外れて偉大な力が神のものであって、

わたしたちから出たものでないことが明らかになるために。

(二コリント四・七)

なのですが、イエスの霊がわたしたちを造り変えてくださった、ということを受け止めるのです。

 安皿だからこそ

 東京の梅が丘教会牧師、塩谷直也先生が、この「土の器」について、「あけぼの」六月号でこんなことを言っています。

 いずれにしても箱や器自体が高価になると、その本来の役目を果たせなくなる。パウロの言うように、土の器こそ、器としての役割を果たせるのだ。思えば、我が家の数ある皿の中で、一番活躍しているのは、プラスチック製「機関車トーマス」の絵が描いてある安皿だ。逆に高価な皿になればなるほど、もったいないなんて言ってしまい込んでいる。…………………………

 皿は高価になればなるほど、料理を盛られることを拒否し始め、己の絵柄を誇り始める。車も高価になればなるほど人を運ぶよりも、羨望の眼差しを向けられることに快感を感じ始める。人も同じ。立派になるほど自分の上にイエスを乗せる事を拒絶する。福音の器として、神の道具として使われることがバカらしくなる。だからパウロは念を押す。

 「土の器でいい。いや土の器、安皿であり続けることが重要なんだ。機関車トーマスの皿が、塩谷家の料理を最も多く運んだように、最も安い器こそイエスを、救いの喜びを世界の家庭に運んでいくんだ」

 そうです。安い皿ほど使いやすい。いつでも代わりを買えます。私たちは、そういう「土の器」なのです。いつでも代わりがある。だけど、イエスはそのような器をこそ特に選んで、「よし、頼むよ」と言って用いてくださる。私たちの弱さと欠けを分かった上で用いてくださる、ということをしっかり受け止めなければなりません。

 何かいいことをしようなんてことを、あのペトロとヨハネは考えていない。ただ、見たこと、聞いた事を語らないではいられない。そこに、正しい事をしてあげようというような動機は、全くないのです。黙って、その病人を見つめて、「金銀はわたしにはない。わたしにあるものはイエスの名だけ。そのイエスの名をあげよう」と言って、右手を取って彼を立ち上がらせた。そこに神の力が働いたのです。塩谷牧師の結びの言葉を今日の結びとします。

 神学校を出て、伝道者となって初めて任地に向かうとき、私は不安だった。自信がなかった。自分のような者を見られてキリスト教を誤解されたらどうしようと悩み、クリスチャンらしいクリスチャンにならねばと苦しんでいた。そんな私に先輩の牧師が教えてくれた。「自信はいらない。確信があればいい」と。

 自信などいらない。それよりも、あなたが伝えるものが最高のものなのだとの確信を持っていきなさい。あなたがどんなに自信にあふれ、魅力的な人間であっても、伝えようとする内容に疑いや恥じらいを抱くのであれば伝道者とは言えない。逆にあなたがどんなに欠けの多い土の器、安皿であっても、伝える福音に確信を持っているなら、あなたは伝道者です。

 その先輩の言葉は、私の心の中で今も静かに燃え続けている。

  (二〇〇二年六月二日、聖霊降臨節第三主日第二礼拝の説教要旨)