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「イエスの喜びが私に」

 石川 和夫牧師

しかし、今、わたしはみもとに参ります。

世にいる間に、これらのことを語るのは、

わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるためです。

(ヨハネによる福音書一七・一三)

 

一九八九年十月、東京の六本木の教会に出席した時のことでした。

 東洋英和女学院の落ち着いた校舎玄関の前を通って一人の少女が教会にやってきました。その少女は、礼拝堂の一番後ろの長いいすの、私の横に控え目に座りました。お互いまだ早すぎる時間を、所在なげに外の街路樹の葉が風に揺れるのを目で追っていました。

 突然、一枚の葉が風にもぎ取られて散っていこうとしたとき、

「ここに来られたのは初めてですか」

 その少女は親しい友達に話しかけるように尋ねました。前置きのない言葉に、私はただうなずき返していました。

「おじさんには子供がいますか」と、その中学生らしい少女は、言葉を続けました。

「ひとり、小学生の女の子が一人」そう答えると、少しの間、考え込んでいて、

「ふうん、女の子が一人ね。じゃあ、私と同じだ」

 そして、さらに唐突に、

「飛行機に乗ったことがあるでしょう」と畳み掛けてきました。そして返事を待たずに、

「もし、その飛行機が落ちるとわかった時、何を子供に言い残しますか」

 大きな目が今度は返事を待っていました。

 どうして、このような事を聞いてくるのかと不思議な気もしながら、

「どんなことがあっても、強く生きなさい。神様とパパがいつも空から見ているからね。辛くなったら祈りなさい。ママを頼んだよ」と……。

(何故そのような言葉が浮かんできたのか。私は一年前、カナディアンロッキーの上空で、エアポケットの恐怖を初めて経験した。その時、とっさに考えたことが……。)

 暫く沈黙の後、

「ありがとう」少女はほほえんでいました。

「その言葉を聞いてうれしい。私のパパもきっと、そう言ってくれたに違いない。おじさんは、私のパパにそっくりなんだもの」

(一九八五年八月、日本航空のボーイング747型機は山中に激突し、多くの犠牲者を出した。)

(磯貝暁成「もうしばらく時間をください」、婦人之友社、「聖書 心にひびく言葉」、二〇〇二年三月二五日、初版、二三〜二五頁)

 この少女のお父さんもその犠牲者の一人だったのです。墜落するまで数十分あり、多くの人が恐怖の中で家族や親しい者に、最後の言葉を走り書きしていて、その幾つかが幸運にも焼けずに残っていたのです。そのことが新聞やテレビで報道されたのですが、彼女のお父さんのものは出てきませんでした。彼女は、お父さんの最後の言葉を確かめてみたかったのでしょう。

  生命の喜び

 今日のテキストは、イエスの決別説教と言われる部分の一節です。今のキリスト教会の暦は、ルカによる福音書の記述に従っています。ユダヤ教過越祭の金曜日にイエスが十字架につけられて死に、三日目の日曜日の朝早くに、復活、十字架から四十日後、天に昇られ、それから十日後に聖霊降臨があって、最初の教会が生まれた、とされていますが、ヨハネによる福音書では、十字架、復活、昇天、聖霊降臨が同時になされた、という考え方です。今日のテキストの一七章四節に、

 「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった業を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。」

とあります。「行うようにとあなたが与えてくださった」というのは、日本語として変です。分かりにくいので、他の訳を探してみました。関東学院の院長をしておられた柳生直行先生の訳は、こうなっています。

 「わたしは、あなたに命じられた任務を果たすことによって、地上にあなたの栄光を輝かせました。」

 これなら分かります。さらに、釜ヶ崎で労働者の方々に伝えたいという願いで訳された本田哲郎神父の訳は、もっと分かりやすいです。

 「わたしはこの地上で、あなたがわたしに任ねた生き方を生きぬいて、あなたを輝かし出しました。」

 ヨハネによる福音書の文脈では、イエスが十字架にかけられる前になっていますが、内容的には、イエスが神の民の本来の使命である「世界の祝福の源」として、差別されている人々の側に立ち、愛は何かをその生き方によって明らかにされ、十字架で死ぬことによって、神の栄光を輝かし出したことを意味しています。

 ヨハネによる福音書のテーマは、イエスが、人となられた神ご自身である、ということを強調することです。

 「なぜなら、わたしはあなたから受けた言葉を彼らに伝え、彼らはそれを受け入れて、わたしがみもとから出て来たことを本当に知り、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じたからです。」(八節)

 「私のものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。」(一〇節)

 「わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。

聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。

わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」(一一節) 

 このように、父である神とイエスの一体性、信じた者と神、イエスとの一体性が強調されています。そして、最後に「わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです」と結びます。この「わたしの喜び」とは、何なのでしょうか。一六章にも「喜び」が語られています。

 「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。

女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。

しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、

もはやその苦痛を思い出さない。」

(二〇,二一節)

 「今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。

願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

(二四節)

 この喜びは、「生命の喜び」を指しているようです。内から沸いてくる誰もが奪えない喜びです。イエスは、わたしたちにその喜びを満たしてあげたいと願っておられるのです。

  みんな みんな  よし  よし

 一九九二年五月二三日、日本テレビで、ドキュメント・スペシャル「うめ子先生・一〇〇歳の高校教師」が放送され、大反響を生みました。午後二時台で視聴率のあまり期待されない時間帯なので、せいぜい一,二%くらいだろうと予想していたら、九・九%の視聴率。放送した系列局も二,三しかなかったのに、それであわてて他の系列局も放送したため、結果的には全国放送となりました。

 放送日の直前、四月二八日に、百歳で天に召された山形県の独立学園高校の桝本うめ子先生のことです。前年の一九九九年にも一時入院して、奇跡的に退院されるのですが、そのときにこんな詩を書いておられます。

  うれしいな 生きている

  本が読めて 字が書けて

  うれしいな 生きている

  うれしいな 寝て遊んでいる

  夢でも見ているのかな

  そうではないよ 神様のごほうび

  うれしいな 少し病気になって

  手もふるえ おもしろい

  ちょっとさびしいけれど

  これでいいのね

  思い上がらないで行きましょう

  感謝 感謝ね

 「神様のごほうび」をすなおに喜んでおられます。文字通りの「生命の喜び」です。このうめ子先生が亡くなられてから「絶筆」が見つかりました。

  もうすぐお別れのときよ

  あら かね(鐘)の音が聞こえるわ

  みんな みんな みんな みんな

  よし よし よし よし

 これを見た日本テレビのディレクターの佐々木征夫さんが、こう書いています。

 「これは、いわゆる大往生というよりは、もっと前向きで、肯定的で、生命的な死であった。誰も、このうめ子先生の死という圧倒的事実を否定できる者はいなかった。」(佐々木征夫「うめ子先生――一〇〇歳の高校教師」)

 イエスが与えようとしておられるのは、この「圧倒的事実」としての喜びなのです。

  (二〇〇二年五月一二日、復活節第七主日第二礼拝の説教要旨)