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「振り向く信仰」

石川 和夫牧師

イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、

「ラボニ」と言った。

「先生」という意味である。

(ヨハネによる福音書二〇・一六)

 もう亡くなられましたが、椎名麟三さんの「悪魔の強情」という随筆の中に、こんな話があります。

 熱心なクリスチャンが某心理学研究所で最新型の嘘発見器にかけられます。「汝は神を信ずるや」、「汝は、キリストの復活を信ずるや」などと質問され、彼はもちろん「はい」と答えます。しかし、嘘発見器は彼の答に全て反応し、「この男は、嘘発見器によるテストの結果、神も復活も信ぜず、イエスと出会いたりしと申しおるも真っ赤ないつわりなることを証明す」ということになります。しかし、翌日、彼は同じ研究所で同じ質問をしてもらい、「私は神を信じません」などとすべてノーで答えます。するとやはり嘘発見器は反応し、信仰がないということもまた嘘であるということになります。あまりのことに嘘発見器が自分で分解して自殺してしまうという落ちがついています。

 このことが暗示していることは、「私は固く信じています」という信仰が確かな信仰だとは言えない、ということです。むしろ駄目だなあ、いろんな弱さがあるなあ、だけど、信じさせられている、というあり方が、椎名さん自身の経験の中から、そのことを主張しておられるように思います。

 復活を信じる、ということについても同じことが言えると思います。ごく最近、教団出版局から出された「イエスの復活」という本では、

 「事実は、イエスは墓の中で朽ちて死んだのであって、生き返ったのではない、」と著者の聖書学者が明言しています。「しかし、復活の信仰が無ければ、我々の信仰はない」と強く主張しています。(G・リューデマン「イエスの復活」、日本基督教団出版局、二〇〇一年七月一八日、初版、二〇〇〜二〇二頁)

 一方で、全能の神がなさったのだから、生き返ったのだ、と信じる信仰もあるでしょう。私は、どのように復活したのか、という「現象」を信じるのが大事なのではなくて、自分の生き方の中にイエスが生きているか、どうかが大事なのだと思っています。そうでなければ、UFOを信じるか、ということと同じレベルのことになってしまいます。

 一人で墓に行くマリア

 今日のテキストの主人公は、マグダラのマリアです。彼女は、ルカによる福音書では、七つの大罪を赦されて、すっかり生まれ変わった人とされています。彼女が週の初めの日、朝早く墓に行ったと書かれています(二〇・一)。他の福音書、つまり、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書では、複数の女性たちが、墓が空である事を発見した、となっています。ところがヨハネによる福音書だけは、マグダラのマリア一人で墓に行ったとなっています。ここには、ヨハネによる福音書の編集意図があるように見えます。

 ヨハネによる福音書は、主体的な信仰、つまり、集団的に信じる、というのではなく、個人が明確に信じる信仰が大切なのだという主張を持っているように思います。他の弟子たちが復活のイエスに会ったと証言しても自分がその場に居合わせなかったために、自分は信じないと言い張ったトマスのケースが、その典型です。

 そういうわけで、ヨハネによる福音書では、復活の最初の証人は、マグダラのマリアただ一人としたようです。ところが、マリアの言葉の中に、矛盾があります。一人で見に行ったはずなのに、墓が空であることを発見して、弟子たちに、そのことを告げるとき、「主が墓から取り去られました。どこに置かれているのかわたしたちには分かりません」(ヨハネ二〇・二)と言っているのです。これは誰かといっしょに行ったことを暗示しています。

 しかし、ともあれ、聖書の記事を私たちが読んでいくときに何らかの事実をもとにして、それを多少脚色して信仰の内容をしっかり伝えたいという意図があることを読み取らなければなりません。

 二度の振り向き

 ですから、今日の箇所も矛盾はあるけれど、たいへん大事なことを暗示していると思います。マリアは墓がからであることを弟子たちにつげに帰ったのですが、もう一度、墓に戻らざるをえなかった。マリアは、それほどイエスを愛し慕っていたということが分かります。

 もしかすると、という淡い期待を持って、もう一度、泣きながら墓を覗きますが、依然として墓はからのままです。マリアには悲しみが一層こみ上げてきます。

 そこに白い衣を着た二人の天使が立っていて、声をかけられます。マリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません」(二〇・一三)と答えて後ろを振り向くとイエスが立っておられた。けれど、マリアにはそれが誰であるかわかりません。イエスに「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを探しているのか」(二〇・一五)と話しかけられ、彼女は園丁だと思い込んで、前を向いたまま、「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります」(二〇・一五)と答えます。するといつも聞きなれていた声で、「マリア」(二〇・一六)と呼ばれて、彼女はイエスがそこにおられることに気付いて、振り向いて、ヘブライ語で「ラボニ」(二〇・一六)と言います。当時の会話は、ヘブライ語、厳密に言うとアラム語でした。「先生」という意味ですが、マリアはいつもイエスをそう呼んでいました。イエスの死によって断絶していたイエスとの関係が生き返ったのです。

 今日、特に注目したいのは、二〇章でマリアが二回振り向いていることです。それで私は、「振り向く信仰」という題を付けました。マリアは、イエス様によって生まれ変わらされて生き生きとしていました。現代的に言えば、「前向きに」張り切って生きていました。ヨハネによる福音書では、他の女たちを差し置いて、一人でまず墓に行くほど積極的でした。何度も墓を覗いたり、弟子たちに知らせに行ったりしています。しかし、前向きに必死でイエスを探すのですが、見当たらない。マリアは、自分の後ろにイエスがおられるのに気付かなかった。このことについて、藤木正三牧師は、こう言っています。

 「同じように後ろを振り向きながら、どうしてこういう違いが出てきたのでしょう。それは、一回目はマリアが後ろを振り向いてイエスを探したのに対し、二回目はイエスが声を掛けてマリアを振り向かせられたからです。………マリアはイエスを求めていろいろと努力をしたのです。しかし、実はそういうマリアの後ろにイエスは既に立っておられました。

 ですからその時、マリアは自分自身の思いや努力でイエスを求め続けてきたことの誤りに気付いたに違いありません。つまり、自分は生きているのではなくて、イエスの命に包まれて生かされていたのだと気付いたに違いありません。そして、マリアは『ラボニ』と言ったのです。ですから『ラボニ』は、この生かされているという被造感の告白に他なりません。そして後ろを振り向く必要が人生にあるのは、まさにこの被造感を告白するためなのです。それは、反省のためでもなければ、慎重を期するためでも決してないのです。わたしたちが被造物としての本来の在り方に帰るためなのです。

 復活のイエスは後ろから声を掛けてくださいました。その声に振り向いて私たちは被造物に復活するのです。」(藤木正三「この光にふれたら」、日本基督教団出版局、一九九六年五月二五日、初版、一五、一六頁)

 「前向き」ということも大事ですが、場合によっては「後ろを向く」ということも必要な時があります。自分で何もかも頑張ってやるばかりではなく、私たちは造られたものとして生かされているという「被造感の告白」、「被造物への復活」も忘れてはなりません。

 あなたは偉すぎる

 婦人乃友社から、ごく最近、「聖書 心にひびく言葉」という本が出版されました。婦人乃友という雑誌に毎月証しが掲載されたのですが、それを一冊にまとめたものです。九三年の六月号に釜ヶ崎でケースワーカーをしておられる入佐明美さんの証しが掲載されています。

 彼女は、今から二三年前にネパールで活躍された通称、ひげドクター、岩村昇先生の働きに大感激して、自分も岩村先生のお手伝いをしたいと申し出るのですが、日本の中にもネパールがあります。それは釜ヶ崎だと教えられ、一年間に約三百人の人たちが路上で死んでおり、十人にひとりが結核だということを知ります。

 こうして、彼女はおおいに意気込んで釜ヶ崎でケースワーカーの仕事を始めました。「わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである」(マタイ二五・四〇)という聖書の言葉を実践しようとします。

 張り切って仕事を進めていくうちに、自分自身、何も知らないし、わかっていないということが見えてきました。無力感にうちひしがれて、タイの神学校に入学します。

 『わたしはあなたを用いたい。しかし、あなたは偉すぎる』

という内容のことばが、タイの神学校の入口にかかげてありました。私は背筋が寒くなってきました。このことばが私を待っているかのように感じました。それまで培ってきた信仰の土台が根本からゆすぶられてしまいました。

 頭では神さまの道具として用いてくださいと祈っていました。実際は自分の力に頼ってがんばっていたのです。若くて体力的にも自信がありましたので、病気になった人たちをたちなおらせたいという熱心な思いでかかわっていたことに気付きました。高い所から、『変りなさい』と命令し、相手に変ることを要求してやまなかった自分を発見しました。自分をみつめているうちに、もっとおそろしい心理が見えてきて身ぶるいしました。私は自分の夢を達成したいために、神さまを協力者と位置づけ、釜ヶ崎で生きている人たちを対象物としてあつかってきたのではなかろうかと、思いました。ひとりひとりの労働者をかけがえのない存在として受けとめていなかったのです。

 神さまは私の『主』であることを肝に銘じました。自分の都合のよいように神さまに求め続けてきたことを深く反省しました。神さまが一番望んでおられることは何であるかということを原点に立ちかえって考えました。

 タイから帰り、新しい気持ちで活動を進めました。不思議なことがおこってきました。労働者が以前より近寄ってきて話しかけてくれます。

 『ねえちゃん。元気か』『無理せんと、がんばりや』『わしの友だちが病気や。いっしょに行ってくれんか』

 労働者とのかかわりが順調にいきます。労をねぎらうことばをかけてくれる人もあります。私は仕事が楽しくなってきました。

 本当に変らなければならなかったのは私だったのです。」(「聖書 心にひびく言葉」婦人乃友社、二〇〇二年三月二五日、第一刷、五〇頁〜五二頁)

 状況を変えようと思ったら、私を変えるしかありません。人を変えたいと思ったら、その前に私が変らなくてはいけません。そのことによって主が生きて働いてくださることが分かるでしょう。入佐さんは、こう結んでいます。

 「私は釜ヶ崎に十四年います(九三年当時)。はじめのうちは病気の人が多いため私を必要としているから、釜ヶ崎に行って活動しようと考えていました。今日までのかかわりのなかで、多くのことを知らされ教えられました。つらいときも支えられました。実は私が釜ヶ崎を必要としているんだなあと気付きハッとしました。」(前掲書五二頁)

 これが「振り向く信仰」です。

 (二〇〇二年三月三一日、復活節第一主日第二礼拝の説教要旨)