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「何を願っているのか」

石川 和夫牧師

イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。

このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼(バプテスマ)を受けることができるか。」

(マルコによる福音書一〇・三八)


 イースターまで、後、まる二週間となりました。今日の主題は、「十字架の勝利」です。この教会の礼拝の暦では、福音書が、ずーっとマルコによる福音書で一貫されています。私たちもマルコによる福音書によって、イエスの受難と復活を系統的に学ぶことが出来ます。

 イエスの受難の予告は、今回のテキストで、三回目になります。

 一行がエルサレムに上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた。

それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた。(マルコ一〇・三二)

 弟子たちは、エルサレムやその周辺には、イエスに敵対する者たちが大勢いたことを知っていました。そのエルサレムに向かって、イエスが先頭に立って進んで行かれた。この姿を見て、彼らは恐れながら従った、と書いてあります。

 これも私たちの姿に似ていると思います。決然と喜びを持って主に従うというわけには行かない場合があります。どうかな、と心配しながら、あやふやな態度で主に従っている姿が、ここには示されています。そこで、イエスは三度目の受難の予告をされます。

 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。

彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。

そして、人の子は三日の後に復活する。」

(マルコ一〇・三三)

 ここでは、長老たちという言葉が省かれていますが、中身は同じです。当時の最高裁判所、サンヒドリンのことで、七〇人で構成されています。その最高裁判所に有罪な者として引き渡される。そして死刑を宣告されて異邦人に渡される。異邦人に引き渡される、というのは、当時のユダヤは、ローマ帝国の占領下にありましたので、自分たちで死刑の執行をすることが許されていなかったのです。異邦人、つまりローマ人の総督のもとで、つまり、ローマ軍の兵士たちの手によって死刑が執行される、ということを意味しています。

 マルコによる福音書では、このイエスの予告の通りのことが起こったと記載しています。ところが、弟子たちにとって非常に深刻なイエスのこの宣言を聞きながら、彼らは、きわめて手前勝手な願いをイエスに向かって述べるのです。

 見当はずれの願い

 ゼベダイの子ヤコブとヨハネが進み出て、イエスに言った。

「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが。」(マルコ一〇・三五)

 ヤコブとヨハネの兄弟は、どちらかというと、イエス様お気に入りの弟子です。お坊ちゃん育ちのわがままで短気な人たちだったようです。良くも悪くもいわゆる「単細胞」の人だったでしょうか。怒るのも早いが感激するのも単純でした。ペトロと共に、何か大事な場面には必ず登場します。この感激屋の二人がイエスに頼み事をします。

 二人は言った。「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、

もう一人を左に座らせてください。」(マルコ一〇・三七)

 「右に」というのは、神様の側、栄光の座、を意味します。一番の席ということでしょう。その次が、左ということになります。言ってみれば、内閣総理大臣と官房長官に据えてくれということです。

 実は、「栄光を受ける」ということが、逆説的な意味があったのに、弟子たちは、そのことを全然理解していなかったのです。マルコによる福音書の特徴は、弟子たちが生前のイエスに対して全く無理解だったと記録し続けていることです。

 これが、ルカになると少し違います。ルカは、信徒の模範として弟子たちを描こうとしていますから、マルコのように全く無理解だったとは、表現していません。

 イエスは言われた。「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない。

このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼(バプティスマ)を受けることができるか。」

(マルコ一〇・三八)

 これは、十字架の死を意味しています。たいへんな屈辱と精神的、肉体的苦痛、それは簡単なことではないはずですが、彼らは、「できます」と答えています(三九節)。自分に陶酔してしまっているときには、事柄の正確な把握ができなくなるのでしょう。簡単に、その気になって、「できます」と答えます。

 お叱りにならないイエス

 しかし、それに対して、イエスは、彼らをきつくお叱りになっていない。

 イエスは言われた。「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、

わたしが受ける洗礼を受けることになる。」(三九節)

 マルコによる福音書が書かれたのは、紀元七〇年ころと言われていますが、紀元四四年に、このヤコブは当時のヘロデ・アグリッパ一世に捕らえられて剣で殺されました。最初の殉教者の一人となりました。マルコは、そのことを知っていたと思われます。イエスの言葉がそのことを暗示しています。

 イエスは、ヤコブたちの考え違いを諭しながら、いちばんになりたければ、ビリの役をせよ、と逆説的な真理を教えられました。一番指向も悪くないけれど、ほんとうの一番になりたければみんなの奴隷になれ、というわけです。

 わたしたちも、そのとき、そのとき、礼拝を通して、イエス様を通して、神様に従っているつもりでいます。時には、このヤコブたちのように多少、感情的になって、これだ!と突き進むこともあるかもしれません。逆に、熟慮して決めることもあるかもしれません。しかし、イエス様から見ると、やはり見当違いをしていることがしばしばあるのではないでしょうか?しかし、イエスは、それをたしなめてはおられない。そうだろう、とまず受け入れてくださって、そして最後は、その見当はずれのゆえに、ご自分で苦しんでくださり、はては、十字架に死んでくださっています。

 わたしたちは、いろいろな場合に自分で決断して志を立てます。しかし、それが神様から御覧になって仮に見当違いだったとしても、でもご存知で、後始末を必ずしてくださる。今日の福音書から、そのようなイエス様の愛を聞くことが出来ます。

 タアちゃんの願い

 灰谷健次郎さんという作家がいます、子どものことを沢山書いていらっしゃいます。その中にたいへん有名な「子どもの隣り」という作品があります。これは、タアちゃんという四歳の男の子の物語です。お母さんが早くに亡くなって、お父さんと二人で暮らしています。保育園では、あまり仲がいいお友達がいなくて、いじめられたりしているのですが、保育園に行くのをいやがってはいません。

 このお父さんがちょっと変わっていて、新しく出来たガールフレンドとのデートの場所に競馬場を使っています。そこへ電車で出かけてゆくのですが、お父さんが切符を買いに行っている間に、駅のベンチにいつもたむろしているおじいさんたちと仲良くなります。ところが、保育園で、給食を仲間から外れて一人で食べていることを知らされてお父さんはびっくりしてしまいます。そのわけを聞き出そうとして、公園にジョギングに連れ出します。でも、すぐいやになって、ベンチに腰掛けて話を切り出そうとしますが、話をはぐらかせて、なかなか乗ってこない。タアちゃんは違う話ばかりを持ち出します。

 「パパ。パパは女の人といっしょにおふろにはいったことある?」

 なぜ、そんなことを聞くのかといぶかったお父さんは、駅に寝泊りしている痴呆気味のおじいさんにロマンポルノをやっている映画館に連れて行かれて、その映画で見たことを知り、そのおじいさんに文句を言いに行きます。

男は一気にしゃべって

「二度とそんなことはしないでください」

声の調子を強めた。

老人はぼんやり男の子を見た。そして

「としぼん、いこか」

といった。

男の子の目がおびえた。

「なんやこのオジン。このごろようすがおかしいで」

と隣りの老人が男にいった。

「ぼく、としぼんとちがう」

顔をひきつらせながら男の子はじりじり後退りした。(タアちゃんは、そのおじいさんの死を予感したようです)

  その夜、お父さんは子どもの泣き声で目を覚ます。死ぬのがこわいという。あのおじいさんが、もうじき死ぬと言ったので、そうなるとおじいさんに世話になっているおばあちゃんも死んでしまう。二人も死んでしまうことになるので、かわりに死んであげると言ってしまったらしい。たが、実際は、死ぬのがこわい。お父さんはそっと子どもを抱きしめた。抱きしめるほかになにもできなかった。

つぎの日、男の子は保育園で小さなおとむらいをした。

兎の子が生まれて、すぐ死んだので子どもたちは兎の子を、けやきの木のそばに埋めた。

男の子はずうっと三歩くらい後ろにさがって、その作業を見つめていた。

みんながその場所を去ってからも、男の子はじっとそこにいた。

ひとりの保母が声をかけた。

「タアくん、兎の子死んじゃったの?」

男の子のそばにきて保母はしゃがんだ。

「どこに埋めてあげたの?」

男の子は黙って、そこを指さした。

「死んじゃったの。かわいそうね」

その保母は男の子がなにか口の中でつぶやいているのに気がついた。

「あれっ、タアくん、なに言ってるの」

男の子の口もとに耳を近づけた。そして男の子のつぶやく通りに、それを声にした。

「死んでも、死んでも、死んでも、死んでもいい。ここにおるもーん。死んでも、死んでも、死んでも、死んでもいい。また、生むもーん。」

あら、とその保母はいって男の子の顔を覗きこんだ。

「死んでも、死んでも、死んでも、死んでもいい。ここにおるもーん。死んでも、死んでも、死んでも、死んでもいい。また、生むもーん。」

歌をうたうようにその保母は男の子のことばをくりかえした。(灰谷健次郎「子どもの隣り」、新潮社、235-241頁)

 タアちゃんが、かわりにぼくが死んであげると言ったのは見当はずれのことかも知れません。それが彼にとっての最善の決断であったときに、そして、彼は自分の決断の矛盾に気付きながら命をいとおしんでいる。それを聞いたお父さんは黙って彼を抱きしめていた。

 私たちの願いが見当はずれでもいいのです。仕方ありません。神様ではありませんから。それが一生懸命のものであればあるだけ、

 「いいよ。分かっている。見当はずれだけど、私が代わって背負うから、とイエス様が私たちを見つめていてくださるのです。

 (二〇〇二年三月一七日、復活前第二主日第二礼拝の説教要旨)