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「二一世紀の箱舟として」

石川和夫

あなたたちと共にいるすべての生き物、

またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、

箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。

(創世記九・一〇)

  「どうも日本人というのは何LDKだとか、容れ物(建物)にこだわりすぎる。しかしその容れ物のなかでどのように過ごすか、住まい方というのはあまり問題にされない。住まいというものを一つのハードもしくは財産として考えすぎているのではないか。だから建ててしまうとそこで建物の命が終わってしまう。」

 これは、大変著名な建築家、安藤忠雄さんの言葉です。この方は、光の教会(茨木春日丘教会)という会堂を建てられましたが、彼の言葉は、私たちにとってもとても大事だと思います。建てることが目的ではなくて、出発点であります。どのような出発にするか、ということについて、募金趣意書に記しましたように、「地球のすべての人と自然の癒しの箱舟」と掲げました。

 先ほど読んでいただいた創世記の箱舟の物語において、従来の教えでは、箱舟は教会を意味していました。しかし、よく読んでみますと、これは狭い意味での教会ではなくて、人類を指していることが分かります。最近、日本語で出版されたのですが、R・W・アンダーソンという人の著作「新しい創造の神学」―創造信仰の再発見―という本の中で、創世記一章と九章は、コインの裏表のように密接にかかわっていることが指摘されています。

 一章の二節に、 「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、」とありますが、それを神は順次開いて世界をお造りになったことが書かれています。それが、六章になりますと、

 「この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。神は地を御覧になった。

見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。」

となります。そこで、神は裁きとして洪水を起こされた。そして、ノア一家によって新しい世界を造ろうとされた。

かいつまんで申しますと、こういうことになるのですが、箱舟は狭い意味での教会ではない、と私が受け止めたのは、アンダーソンが、ノアが人類の先祖、代表として描かれていると指摘していることによるのです。

神のイメージとは?

創世記の書かれたころの世界は、地中海を中心とした世界でした。ノアの三人の息子たち、セム、ハム、ヤフェトは地中海周辺の民族の名前でもあります。だから、ノアは全人類の代表だ、ということです。

さらに、アンダーソンの指摘は続きます。創世記一章で、

「神は御自分にかたどって人を創造された。

神にかたどって創造された。」(二七節)

と言われています。これを普通の言葉で表現すると、御自分のイメージに人を想像された、ということになります。このイメージということは、人間の性質、理性とか、意志とか、良心とか、不死の魂などについて言うのではなく、「男と女からなるadamの身体的、歴史的存在としての役割について言っている」、というのです。

 だから、神のイメージということは、神様がなさろうとすることを人間がするように託されている、ということを示しています。

 これまでは、人間が地球の管理を神様に任された、と解釈してきました。そうではなくて、神様が御自分のしようとしておられたことを人間に、「お前、頼んだぞ」と託された。そして、九章一〇節を見ると、

 「あなたたちと共にいるすべての生き物、またあなたたちと共にいる鳥や家畜や地のすべての獣など、箱舟から出たすべてのもののみならず、地のすべての獣と契約を立てる。」

とあります。

 つまり、神は人のみならず大地とも契約を立てられたのです。昔習ったノアの箱舟の物語においては、ノアたちといっしょに箱舟に入った対の動物たちというのは、お添え物の感じで、なぜ動物たちがいっしょに箱舟に入らなければならなかったのか、については、あまり説明がなされなかった気がします。

 「対で」ということは、生命が増えていくためです。

 「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」(九・一)

という言葉は、一章二八節の

 「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。」に対応しています。ということは、神は再創造されて、「産めよ、増えよ、地に満ちよ。」と祝福され、これからは決して地を滅ぼさない、と約束された。

 ということは、ノアに代表される全人類が私のイメージとしての使命を果たせ、ということだったのですが、このことがずーっと無視され続けて、また再びあの暴虐に満ちた時代になっている思いがするのです。

  宣教の原点に戻ろう!

 ですから、私たちは二一世紀を迎えて、宣教の原点としてここに戻る。そして、それはクリスチャン・エリート意識をもってではなく、地のすべての人といっしょに神がなそうとしておられる地の保全に加わる。

それは人間に対してのあらゆる差別や暴虐を許さない、ということだけではなくて、自然に対しても同じです。そして、地にほんとうの平和が来ることを目指す。そういう宣教の拠点でありたい。

ですから、自分たちだけがそのようなこをするという思い上がった考えではなく、少しでも神のイメージとして働こうとしている人々とは喜んで協力し合い、手伝い、仕えていく、という姿勢も大事です。

だから、この教会は、具体的に、こういう活動をします、という姿勢はとらないけれどあらゆるそのような活動に対して協力していくという開かれた姿勢を持ち続けることが大切だと思っています。

自己目的的な勢力拡張だけの宣教では、完全に神様に身捨てられるのではないでしょうか。皆様よくご存知の「地雷ではなく花を」という絵本の作家、葉祥明という人、この方はカトリックの方ですが、「あけぼの」という雑誌の昨年の八月号に、こういうことを書いておられます。

「エネルギーって何でしょう? それは石炭・石油・電気ばかりを言うのではありません。空気も、日光も、海も川も湖も、山も森も大地も、渚も……生きとし生けるもの、全て、エネルギーです。地球そのものも、大きなエネルギです。何かは大切で、何かは大切でない、何かは貴重で、何かはつまらないもの、ということはありません。ある種のものだけを取り上げて、それを問題にするのではなく、この世に存在するもの全てが、無限の形をした、エネルギーだ!という見方をすることが、必要ではないかと私は思うのです。

そして、より大切なのは、それら目に見えるものの奥にあって、それらをそのようにあらしめている力、すなわち、スピリチュアリティー(霊力)に人間はもう気付くべきです。全ての背後に、霊的な力が働いている。すなわち『神がおわします』という事実こそ、重要です。

そこで初めて、人間は、身の周りのものを大切にし、また、もったいないと思い、感謝する、という心が生まれるのではないでしょうか。そう、問題は、人間の心の在り様です。」

その心の在り様を私たちは礼拝を通して、もう一度新たにされながら、礼拝が終わって、神様から遣わされるときには、神様のイメージとして神様からの「頼んだぞ」という声を背中に受け止めて仕えていきたい、あるいは、少しでも手伝っていく、そういう教会となることを目指したいと願っています。

 (二〇〇二年一月二七日、献堂感謝礼拝の説教要旨)