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「神が呼んでいる」

石川和夫

しかしバルナバは、サウロを連れて使徒たちのところへ案内し、サウロが旅の途中で主に出会い、

主に語りかけられ、ダマスコでイエスの名によって大胆に宣教した次第を説明した。

(使徒言行録九・二七)

   「世にある教会は、全体として、聖霊を受けて世に派遣される教会であり、伝道する教会であります。閉じられた戸は、世界に向かって大きく開かれなければなりません。世から隔絶して、その戸に鍵をかけ、自分たちだけの内輪の楽しみにふける教会は、キリストの教会ではなく、ペンテコステの教会ではありません。それはペンテコステ以前の、キリストの復活に出会う以前の弟子たちの姿でした。キリストの教会は、もはやペンテコステ以前に戻ることはできません。派遣の主はキリストであり、そこで弟子(ディサイプル)は使徒(アポストロス)に、すなわち「つかわされる人」になるのです。」(森野善右衛門「大いなるバビロンが倒れた」、新教新書二三六、五六頁)

 これは東北学院大学の教授であり、今は、関東教区の巡回教師をしておられる森野善右衛門先生の言葉です。「弟子」は、すなわち「ディサイプル」は、「使徒」、すなわち「アポストロス」、「つかわされる人」になる、と言っておれらます。

 今日の主題は、「宣教への派遣」、中心の聖書は、使徒言行録九章二六節から三一節までです。ここでは、サウロ、後のパウロがエルサレムを訪ねて、弟子の仲間に加わろうとしたけれど、以前の激しい迫害を覚えている弟子たちは、本当に回心したとは信じないでいた。しかし、バルナバが執り成しをしたので、パウロが仲間入り出来、大胆に宣教をし、使徒たちと自由に行き来できるようになった、ということが示されています。

 しかし、その後、パウロを殺そうとする人たちが現れたので、海路、彼の故郷のタルソスに出発させた、と書かれています。でも、このあたりのことは、パウロ自身の言葉、ガラテヤの信徒への手紙一章の記述と食い違います。

 そこでは、パウロは、一人でエルサレムへ行ったと述べており、また、海路ではなく、陸路で帰ってきた、と書いています。当然、史実としては、本人の記述の方が正確だ、と言えます。だから、史実の詮索よりも大切なことは、この箇所を通して、著者のルカが言いたいことを受け止めることです。

 それは、パウロが、「旅の途中で主に出会い、主に語りかけられ、ダマスコで大胆に宣教した」(二七節)ことです。つまり、パウロは、主に出会って、主に「つかわされる」者となったのです。

 「弟子」から「使徒」へ

 私たちも「弟子」(ディサイプル)から「使徒」(アポストロス)となることが求められています。それが「宣教する教会」ということです。これまで私たちは、どちらかというと伝道は、専門家の牧師の仕事、信徒は、それぞれ仕事を持っているのだから、専門家の牧師を支えることだと考えられてきたと思います。

 しかし、ここで大事なことは、私たちすべてが「つかわされる」者であることを忘れてはなりません。伝道するということを一部の人たちがしているように、個別訪問をするとか、キリストを信じなさい、と説得することだと考えてはなりません。それも伝道の一つではありますが、もっと大事なことがあります。それは、私たちの存在そのものが宣教なのだ、ということです。

 言葉や行動で、どれだけ伝道しても、私たちの存在そのものがキリストを示していなければ、宣教になりません。逆に、私たちが語っても語らなくても、行っても行わなくても私たちの存在が変えられていれば、そのことが宣教になります。

つまり、病気で何も出来ない人が宣教することもあり得る。

では、存在が宣教するとは、どういうことでしょうか。それは、私たちの存在がどんな生き方をしているか、ということです。

 先ず第一に、私たちは、イエスの弟子だ、という認識に立つことです。マルコによる福音書の三章に、イエスが弟子をお選びになったことが書かれていますが、そこにイエスが「これと思う」人々を招いた、とあります。

 イエスの弟子とは、イエスに「これと思われた」人です。お選びになったのは、イエスであって、私たちの方に理由がありません。弟子たちの中には、非常に目立つ働きをした人がいましたが、福音書に名前が出ているだけで、何をしたか、さっぱり分からない人もいます。しかし、その弟子たちの集団が全体として宣教したのです。

 復活のイエスに出会う前までは、弟子たちは、誰が話しがうまいとか、人当たりのいいのは誰だ、誰はいてもいなくてもいい、などと比べあっていました。だから、ヨハネによる福音書に時々登場する「イエスの愛しておられる弟子」という表現がありますが、それが気になります。なんて自意識過剰な奴なんだ、とちょっと嫌気が差します。

 それは、他の弟子たちから見ると、あいつはイエスに一番可愛がられている、俺なんか、いてもいなくてもいい存在だ、というやっかみの表現とも言えそうです。

 ところが、復活のイエスに出会ってからは、弟子たちがすっかり変わります。自分たちは、同じなのだ、同じ罪人、同じくイエスを裏切って、同じようにイエスに赦された、そして、同じように、イエスに「つかわされた」という共感が生まれます。

 自分たちは、目に見える働きは、それぞれに違うけれど、とにかくイエスに「これと思われた」のだ、と思えるようになったのです。イエスさまの用い方は、それぞれの個性が生かされるので違うけれど、イエスに用いられている、という点では、同じだったのです。

 だから、私たちは、目に見えるところで判定するのではなくて、みんなイエスさまに「これと思われた」人なのだ、私たちには、あの人がどうしてイエスさまに「これと思われた」のか分からない、という場合、そのように見えたのは、自分たちの目が狂っている、と受け止めなければいけません。イエスさまが、とにかく「これと思われた」のだ、と考え方を変えなければなりません。教会では、いつもその考え方に立たなければなりません。

 信徒が伝道するということ 

 その思いが、自然に宣教につながります。一生懸命何かを言わなければならない、と頑張るのではなけて、私たちは、どういう訳か分からないけれど、イエスさまに「これと思われ」て罪を赦されて、弟子とされた、イエスさまがいつも共にいてくださって、私たちの味方をしてくださっている、という思いです。

 逆に、何かに追いつめられている、ということから常に解放された自由な生き方、そして、喜んで人に仕えようとする生き方、その自由、心のゆとりは自然に人に伝わります。そのことをしっかり受け止めることなしには、宣教は、あり得ません。

 あなたのそのままが主を語っているのです。それは、私たちの考えているようなこと、人が期待していることとは一切違う、だけど、イエスさま、ありがとうございますと心から思っている存在、ダメなのにイエスさま、どうしてお選びになったのですか?、という感謝を持ちながら、でも出来ることは何でもやります、という自由さが人々にキリストのかおり(二コリント二・一四、一五、一六)を漂わせるのです。これが宣教の原点です。

 信徒が伝道する、ということは、一人一人の存在、すなわち生き方が自然に伝道している、ということです。だから、教会の中で、信徒らしい言動をし、振舞う、ということではなくて、礼拝が終って普段の生活に入るところから宣教が始まります。わたしたちのあるがままが宣教します。

 挫折や誘惑の時が伝道のチャンス

 特に、私たちがほんとうに謙遜になっている時に宣教が進められます。だから、そのために神様は私たちに挫折や誘惑を与えられるのです。

その時がとても大事なときです。その時に、いつも一緒におられるイエスさまに、

「どうして、こんな目にあわせられたのですか?」

と問い続ける。このことを繰り返すことによって私たちは新たにつくり変えられます。だから、挫折の時、行きつまりの時、誘惑の時こそ、宣教の時なのです。

 「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、

キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」

(二コリント一二・一〇)

 ミシエル・クオストというフランスの神父がいます。彼は素晴らしい祈りの本を数々出版しておられますが、その中に、日本語訳で、「神に聴くすべを知っているなら」という本があります。この本の中に、私たちが誘惑に遭ったり、挫折した時にふさわしい祈りが出ています。その祈りを今日の祈りにしたいと思います。

 「きみはあまりにも、ごうまんすぎた

 きみはまだ、自分を頼りにしている

 もし、すべての誘惑に、負けず弱らず

 しずかにおちついて、打ち勝とうとするなら

 きみは、きみ自身をわたしに明け渡さねばならん

 きみは、けっして大きくもなく強くもないことを認めねばならん

 そして、子どものように手をひいてもらわねばならん

 わたしの子どもよ

 さあ、おそれないで手をお出し

 どろ沼があれば、おんぶして運んであげよう

 だから、きみは小さく小さくなりなさい

 小さな子だけが、父におんぶしてもらえるんだから。](ミシエル・クオスト「神に聴くすべを知っているなら」、日本基督教団出版局、二二八、二二九頁)

 

  (二〇〇一年八月一二日、聖霊降臨節第一一主日第二礼拝の説教要旨)