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「畏れを知る」

牧師 石川和夫

これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが捜し求めさえすれば、

神を見いだすことが出来るようにという事なのです。

実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。

(使徒言行録一七・二七)

 渡辺和子さん(清心学園理事長)が七年ぶりにエッセイ集を出されました。「目に見えないけれど 大切なもの」(PHP研究所)という本ですが、その中に、こんな文がありました。

 東北地方を旅していた時のことでした。その日はあいにく雨がひどく降っていて、周囲の景色は何も見えません。バスのガイドさんは、さも残念気に、「晴れていれば、このあたりには美しい湖がごらんいただけるのですが、本日はおあいにくさまです」と謝るのでした・

 観光客の誰しもが残念がりながらも、そうかといって、「いいや、見えていない湖があるはずはない」と抗議した人は一人もいませんでした。

 信じるということは、案外こういうことなのかも知れません。到底ありそうにない湖の存在を、ガイドさんの言葉ゆえに、「ある」と信じて疑わないということです。

 同じことが、神の存在についても言えるのではないでしょうか。「世の中」というバスに今日も乗りこんでいる私たちに、イエス様がバスガイドになって、「今は目に見えませんが、神様は確かにいらっしゃいます。その方は私たち一人ひとりを限りなく愛していてくださる優しい御父なのです」と、説明してくださっているのです。

 時には、「あなたが今経験していることは、父なる神の御業とは到底思えない、理不尽で苦しいことかも知れませんが、お信じ下さい。私が保証します」と、すまなそうにおっしゃることもあります。そして私たちは、イエス様というガイドさんの誠実さを知るがゆえに、その言葉を信じて、生きる勇気を頂くのです。

 私たちの人生の中にも、晴れた日には、くっきりと見えるものが、雨の日に見えないことがあります。天候のいかんにかかわらず、「湖の存在とその美しさ」を信じてバスの旅を続けること、それが取りも直さず、「信じて生きる」ということなのではないでしょうか。

 聖パウロも言っています。信じるということは、「望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することだ」と。(前掲書四一、四二頁)

 イエス・キリストが私たちの信じることの保証人だと信じるのがキリスト教信仰です。今日の主題は、「悔改めの使信」で、中心聖書は使徒言行録一七章二二節から三四節までです。パウロのアテネでの説教の箇所です。

アテネで

 パウロはアテネで二人を待っている間に、

この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した。

それで、会堂ではユダヤ人や神をあがめる人々と論じ、

また、広場では居合わせた人々と毎日論じ合っていた。

(一七章一六、一七節)

 パウロは、新しい町に入るとまず、ユダヤ教の教会、「会堂」へ行き、そこで、みんなが待望しているメシアは、十字架にかけられて死に、三日目によみがえられたイエスがそれだ、と論証しました。言ってみれば、よその教会に行って、そこの信者たちの心を動かして、新しいグループを生み出していましたから、当然、ユダヤ教を守ろうとする人々からは、「分裂主義者」として憎まれ、迫害されます。「神をあがめる人々」というのは、現地の人々(ユダヤ人から見れば、異邦人)でユダヤ教を信じている人々のことです。

 また、エピクロス派やストア派の幾人かの哲学者もパウロと討論したが、

その中には、「このおしゃべりは、何を言いたいのだろうか」と言う者もいれば、

「彼は外国の神々の宣伝をする者らしい」と言う者もいた。

パウロが、イエスと復活について福音を告げ知らせていたからである。

(一七章一八節)

 「復活」という言葉は、ギリシア語で「アナスタシス」というのですが、女性名詞なのでギリシア人にはイエスという男神とアナスタシスという女神の話と受け取ったようです。

 そこで、彼らはパウロをアレオパゴスに連れて行き、

(一七章一九節)

 有名なパルテノン神殿のある丘がアクロポリスと呼ばれていましたが、その丘の標高が一五六メートル、そこから尾根続きにあるアレオパゴスの丘の標高が一一五メートルで、この丘には司法会議の建物があったようです。この会議の真ん中に立ってパウロが説教した、その内容が今日のテキストです。聖書学者たちによると、この内容は、パウロのものではなく、使徒言行録の著者、ルカのギリシア人に向けたメッセージだそうですが、だから、価値が無いと言うことにはなりません。

 知られざる神に

 「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、

わたしは認めます。

道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、

『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。

それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。

(一七章二二、二三節)

 『知られざる神』となっていますが、もともとは『知られざる神々に』だったそうです。実際にその碑文は発掘されてはいませんが、記録は発見されていると言うことです。ルカはそれを単数形にして唯一の神を知らせようとしたのでしょう。話の導入としては巧みなやり方ですね。

当時のギリシア人は、今の日本人と似ていて、様々な神々を拝んでいました。もともと宗教は、不条理な出来事を神々の祟りだとして、祟りをなだめるものとして生まれたようです。人間にとって心配なことはいろいろあります。その心配の一つ一つにその専門の神様を拝みます。日本の八百万の神と同じです。分業の神様と言うことです。受験の神様は縁結びの神様ではありませんし、病気に強い神様は、商売繁盛の神様ではありません。あらゆる不幸から逃れようとすれば、それだけ多くの神様が頼みになります。ひょっとして洩れてはいけない、というので『知られざる神々』が挙げられたのでしょう。何か涙ぐましい感じです。

 また、彼らが捜し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。

実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。

皆さんのうちのある詩人たちも、

『我らは神の中に生き、動き、存在する』

『我らもその子孫である』と、

言っているとおりです。

(一七章二七、二八節)

 最後の引用は、紀元前二七〇年頃のストア派の詩人、アラトスのものと言われます。ルカの教養の深さがうかがわれます。

 ルカは、こうした「人あるがゆえに神あり」という発想ではなく、逆転の発想、「神あるゆえに人あり」なのだ、ということを知らせます。こうしてすべての根源は、唯一の神にあると話を進めて、こう言います。

さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、

今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。

(一七章三〇節)

「悔い改めよ」というのは、ルカの得意な表現です。私たちにとって、これは、どういうことなのでしょうか?

私は、「畏れを知れ」ということと受け止めました。畏れを知るということは、第一に、自分の限界を受け入れる、と言うことです。自分の欠点や弱さを素直に受け入れると不思議に気持ちが楽になります。第二に、自分を愛し、いつも味方してくださる全能のお方がいる、ということを受け入れる、ということです。

どうして牧師に

私は、時々、「どうして牧師になったのですか?お父様が牧師だったのですか?」と聞かれることがありますが、その時には、「映画を見過ぎたからです」と答えます。

一九四五年四月に出張中の中国で父が急死し、八月六日の神戸大空襲で家が全焼、転々とした挙句、母の故郷の高知で貧乏暮らしが始まりました。一年間の禁欲的な受験勉強の後、旧制の国立高知高校に入学、高校生活を楽しもうとクラブ活動にのめりこみます。コーラス、新聞部、そして映画研究会に入ったのが極め付き、その上、三年生になると教会生活も加わり、成績は下落一方。なにしろ一ヶ月に三六本の映画を見たのですから、勉強の暇もありません。

大学受験の方向を決定する一学期の成績表を貰って仰天します。悪いのは覚悟していたのですが、予想を遥かに越えて三八中の三七番、しかも病気長欠が一名いましたから、文句なしのビリです。当時は、成績がよほど悪くない限り、東大か京大に入れたのですが、三八分の三七では、無理と判断し、中国生まれで諦めが早かった私は、夏のキャンプの時に、つい同志社の神学部に行こうかな、と口をすべらしたのが忽ち教会中に広がって後に引けなくなってしまいました。

新年の初週祈祷会は、既に早くから決めていたもう一人と共に創立以来始めての二人の献身者のため大変盛り上がりました。しかし、私自身はためらっていました。一つは、予想される貧乏暮らし、もう一つは、毎週話しをする為は勉強をしなければならない、その両方とももう沢山でした。

その頃の土佐教会は主任牧師が京都に移って、若い伝道師が責任を負っていました。この伝道師がまことに頼りない人でした。すべてにだらしがなく、人にたかることしか知らないみたいに見えていました。この伝道師にまだ迷っていることを打ち明けたのですが、「そうか、困ったなあ」というだけで何も答えが来ません。結果的には、それが幸いしました。人のせいにすることがなかったからです。

結局、私は自分で結論をつけました。母に打ち明けていなかったので、その母の返事次第で決めようというわけです。我ながらいい方法を見つけた、とほくそえんでいました。当時、母親とは、断絶状態で半年くらい会話も絶えていましたから、母親がかんかんになって反対すると百パーセント自信がありました。そうなれば、一家を救うため、という大義名分が出来てメデタシ、メデタシです。明くる朝、弟たちが登校した後、母に打ち明けました。ヒステリックな母のわめき声にしばらく耐えれば、それで万事解決と決め付けて頭をさげていました。ところが帰ってきたのは静かな声でした。

「自分で決めたのだから、気のすむようにしたらいい。応援します。」

背中に電気が走りました。「畏れ」が生まれていました。神がお招きになったのだ、という思いでした。当時でも同志社は学費が高かったのですが、そんなことも一切気になりませんでした。

 わが行くみち いついかに

 なるべきかは つゆ知らねど

 主はみこころ なしたまわん

 そなえたもう 主のみちを

 ふみてゆかん ひとすじに

の心境でした。

 後で分かったのですが、母は生け花の先生をしていて、その母の先生が土佐教会の会員で、とっくに知っていて覚悟は出来ていたのです。コミュニニケーション不足で私が知らなかっただけでした。その後、何度も挫折しかけたのですが、お招きになった方が万事を益に変えてくださって、今日に至っています。「畏れを知る」ことによって、腹が座るのです。

(二〇〇一年六月一七日、第二礼拝の説教要旨)