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「本当が見えない」

牧師 石川和夫

 しかし、ファリサイ派の人々はこれを聞き、「悪霊の頭ベルゼブルの力によらなければ、

この者は悪霊を追い出せはしない」と言った。

(マタイによる福音書一二章]二四節)

 「『パリサイ人』というのは、『ある特定の時代の偶発的な歴史的現象ではない』。むしろ『善と悪についての知識のゆえに神に感謝しつつ、神の栄誉のために、彼の隣人と自分自身とをさばくところの、まったくあっぱれな人間』である。」(ボン・ヘッファー)

 今日の福音書に登場する人物は、このファリサイ派の人々とイエスです。「ファリサイ」とは、もともと「分離する」という言葉から来たもので、罪人と分離した歩みをします、という主義の人たちを意味するようになりました。清いことを求め、正しいことを実行しようとする「あっぱれな」人たちです。見た目には、良い人と映ります。文字通り「善の塊」です。

 ところが今日の主題は「悪と戦うキリスト」となっています。イエスが誰から見ても「悪と戦う」人だったら、決して十字架にはつけられなかったはずです。なぜ、イエスは十字架につけられねばならなかったのか?それは、イエスが善と戦っているとしか映らなかったからです。

 ここがとても重要なことですが、古来、私たちが聖書を読むときには、最初からイエスは「善玉」、イエスに敵対する人たちは「悪玉」として読んでいました。こういう「悪玉」になってはいけませんという読み方をして来ました。

 実は、私たち自身が心の内でイエスに敵対しているのではないか、ファリサイ派になっていないかをいつも検証することが大事です。イエスについている人たち、「善玉」、イエスに反対する人たち、「悪玉」という割り切り方では、イエスの十字架の真意を受け取ることができない、ということを自覚しなければなりません。

 今日の物語は、イエスがたいへん重い障害のある人を癒された、それを群集は単純に驚いたという話です。この「驚いた」という言葉は、他の箇所では、「気が変になった」と訳されています。気が変になるほどに驚いて、「この人は、ダビデの子ではないだろうか」(二三節)と言ったのです。

 「ダビデの子」というのは、旧約時代以来、メシア、つまり圧迫されているイスラエルを救い出す救い主、敵を圧倒して追い散らす力強い救い主を意味していました。群集の直感は正しいところをつきます。

 しかし、ファリサイ派の人々は、もともと群集を軽蔑していました。軽薄で無責任で、付和雷同する「ろくでもない連中」としか思っていません。その上、イエスが彼らにとっての金科玉条ともいうべき律法をしばしば無視しているのに、群集には、妙に評判がいい、ということも不満でした。おそらく群集を煽動する要注意人物だったのでしょう。

「善の塊」ファリサイ派

 「善の塊」であったファリサイ派の人々は、かねてイエスの言動を見聞きしていて、これはとんでもない人物だと思い込んでいました.彼らの価値観からすれば、到底救われるはずがない下層の人々といつも一緒にいて、彼らの方が先に救われて、こんなに一生懸命善を追求し、正しいことをしようと努力して、社会にも貢献しているはずの自分たちが地獄に落ちるというようなことを言う、とすれば社会の秩序はどうなるか、と本気で心配していたと思います。

 そういう認識を持っていれば、イエスが障害者を癒されたという出来事を見ても、またまた人気取りをしていると苦々しく思ったに違いありません。彼らなりの正義感が、「冗談じゃないよ、たかが悪霊の頭ゼルベブルを利用して驚かせて見せただけじゃないか、ここは愚かな群集に真実を教えておかなければいけない」と思ったとしても不思議ではありません。

 「ベルゼブル」というのは、もともと異教の神の名称であったとか、「蝿の王」(バアル・ゼブブ)から来たと説明されていますが、いずれにしても神に敵対するものでした。そのような神に敵対する力を利用して群集を惑わすひどい人間がイエスだったというわけです。

 それに対して、イエスはたいへん論理的に反論されます。サタンを使ってサタンを追い出すなら、内輪もめじゃないか、そしてファリサイ派の人々の中で同じような癒しを行う人も同じことか?もっと素直になって物事を見ろ、

 「わたしが神の霊で悪霊を追い出しているのであれば、

神の国はあなたたちのところに来ているのだ」(二八節)

と言われます。

 ここがマタイの一番言わんとするところと思いますが、この並行箇所のルカによる福音書では、「神の霊」が「神の指」となっています。つまり神の国がすでにここに現れているのに、ファリサイ派の人々は全然気づいていない、本当が見えていないということをイエスがおっしゃる。そして、

 「わたしに味方しない者は私に敵対し、わたしと一緒に集めない者は散らしている」

(三十節)

と宣言します。

 この言葉を聞くと、彼らは益々いらだち、とんでもない自意識過剰の偽善者だ、これは早く始末しないととんでもないことになる、という危機感に襲われます。こうして、イエスが十字架につけられる下準備が加速することになります。

「ファリサイ派」はわたしだ!

 このファリサイ派の態度は人事ではありません。私自身も牧師になりたての頃、キリストを信じる者、天国、信じない者、地獄という単純な分け方に立って、懸命に努力した時代がありました。

 学生時代は、たいへん荒れていまして、いわゆる「不良神学生」でしたが、卒業して苫小牧に赴任するときには、まさに神に遣わされるのだから、というので、パッと切り替えて完全に禁酒禁煙を実行しました。若さにまかせて一生懸命に伝道しました。その結果、少しずつ人も増え始めました。

 その頃、とても感心な女子高生が通っていました。日曜学校の講師もしていました。病身の父の面倒を見ながら、生活費はお兄さんに支えてもらって頑張っていました。私はとても期待をかけていたのですが、その子が妻子ある男性と同棲しているということを聞いて、仰天してしまいました。

 私は若さにまかせて、彼女のところに飛んで行って、

 「姦淫がどんなに大きな罪か分かっているか」

 「汚れた奴とは、早く別れなさい」

 「このままでは、除名しかない」

などと、今から考えると毒々しい言葉を彼女に浴びせ掛けていました。そして、早く別れさせるために、貧乏なのに、彼女の病身のお父さんを布団ごとタクシーに乗せて、牧師館に連れて来てしまいました。

 ところが、しばらく経つと、相手の男性と一緒に彼女がやって来て、別れるわけには行かないと主張しました。私は、諦めざるを得ませんでした。言うまでもなく、彼女は、二度と教会に姿を現すことはありませんでした。

 その後、何かの牧師たちの集まりがあった時、

 「今の若い娘は分かりませんねえ。陰で何をやっているのか分からないんですよ。」

とぼやきながら、事のいきさつを話しましたら、先輩の牧師に、

 「お前は、なんということをやったのか。彼女の苦しい胸のうちを少しでも思いやったことがあるのか」

と厳しく叱られました。

 それで初めて私は目がさめました。当時の私は、良いこと、正しいことに命をかけて一生懸命でした。そうすると、生理的に、道徳的にいけないことには拒絶反応を起こすのです。そして、体の方で勝手に動いてしまう。

 だから、この時のファリサイ派の心の動きがよく理解できます。良いことに一生懸命になっている時は、結局、自己中心になってしまいます。自分は正しいことをやっているのだから、周囲の人にもそれがわかるはずだ、分からない奴は、どうしようもない地獄行きだ、悔い改めるまで待ってやるしかない、と思ってしまいます。

もうひとつ、救いを!

 自分の価値観がすべてになって、客観的な「本当」が見えなくなってしまいます。ということは、他の人の隠れた気持ちに全く気づかなくなってしまう、ということです。藤木正三牧師は、こう言っています。

 「清い人格は人を高めます。美しい行為は人を感動させます。ではそのように生き得ない、それどころか罪深い人の一生は、一体どういう意味があるのでしょう。別に何もなく、ただ生き損ねただけですが、しかし、その彼もそのままの姿でひとつの大切なことを語っていることを見落としてはなりません。彼は、人間は救いを求めるべきものであることを語っています。清さ、美しさ、正しさを求めるだけでは、人間は十分ではないのです。そう思うのは人間の傲慢、もうひとつ、救いを求めてこそ、人間は人間です。」(ヨルダン社、「福音はとどいていますか」、六八頁)

 私たちは、そのような「罪人」を簡単に、生きる意味がないとか、しょうがない人と考えがちです。「彼は、人間は救いを求めるべきものであることを語っています」と受け止められるでしょうか?心のうちで切り捨ててしまっています。

 良いこと、正しいこと追求に一生懸命だと前よりはましになったな、と自分を見る眼が自然に甘くなってしまいます。周囲の目が、そのような自分を認めてくれないことにいらだち、「信仰を持っていない人は仕方が無い」と決め付けて、自分の傲慢さには、全く気づきません。

「救いを求めてこそ、人間は人間です」ということは、他人に当てはめても自分に当てはめることはありません。他人の反応を自分中心に判断して切り捨ててしまう。「聖書を読んでいないから、分かっていない」とか、「頑なで仕方が無い」、「ゆがんだ可愛そうな性格」と決め付け、そのような自分が家族や集団の中で浮き上がっている存在なのだ、ということに気づきません。挙句の果てに、「あの哀れな人たちをお救いください」と祈って、自分が一番哀れなのだ、ということを認識できません。

聖霊に逆らう罪

 「我々が人間の可能性の限界内で生きるよりほかないとすれば、たといどのように理想的な生き方を描き、それを意図しても、いな、理想的人間を欲すれば欲するほど、ひとりの『パリサイ人』になる以外はないであろう」(K・バルト)

 イエスは、ファリサイ派の人々の自意識過剰な「善」という「悪」と戦われたのです。しかし、見た目の「善」には誰も反抗できません。隠れた傲慢に人は気づいていても、そこまで追求できる人は、あまりいません。イエスが十字架につけられるのを誰も阻止できなかったことがそれを物語っています。イエスは、

 「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、

『霊』に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。

しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることはない。」

(三一、三二節)

と言われます。神を信じていると公言しながら、その実、神を無視し、自分を神の審判者の位置に置く者は、神にとって、無信仰者よりもはるかに性質の悪いものとなります。

 「ただ一つ赦されない罪がある。それは、赦されるということを信じない態度、すべての罪の赦しなどあり得ないと主張する人間の傲慢である。赦しがないと言い張ることが聖霊に逆らう罪となる。」(K・バルト)

 神はご自分がお創りになった人間を一人も滅ぼそうとは考えてはおられない。一人残らず神の国に迎えようとされているのに、人間の方で、あの人はダメだ、とか、見込みが無いなどと決め付けることは、慇懃無礼(いんぎんぶれい)の罪になります。顔では従っていて、心は反抗している、こんな大きな罪はありません。気をつけないと私たちは、いつの間にかこのような姿になっているかも知れません。だから、礼拝の始まりの部分でざんげして、自分の「本当」を自覚した上で、御言葉を聞くのです。藤木牧師の言葉を結びにします。

 「私達が人間として醜くなってゆくのは、そして人間関係が歪んでゆくのは、

 一つには、自分の身勝手さに気づいていないからであり、

 二つには、自分のありのままを認めようとしないからであり、

 三つには、自分の物差しで人を審くからです

 いずれも心の小さな傾きに過ぎませんが、聖書が悪魔の働きとして描いているほどに、それらは私達を支配し苦しめています。ですから、それに抗するために、その逆を祈りとしましょう。

 『いつもにっこり笑うこと』

 『自分の醜さを恥じないこと』

 『人の身になって思うこと』(真山美保「泥かぶら」)」(ヨルダン社、「福音はとどいていますか」六九頁)

 (二〇〇一年三月一一日、第二礼拝説教要旨)