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「別れの決断]
石川和夫 ここで別れようではないか。 あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。 あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。 (創世記一三・九) 今日の主題は、「神の民の選び アブラハム」です。与えられたテキストが創世記一三章一節から一八節までです。 今日の説教題を「別れの決断」とつけましたのは、今日の主人公アブラハムの生涯は「別れの連続」だったということに関連します。彼は、まず十二章一節で、神様から 「あなたは生まれ故郷 父の家を離れて わたしが示す地に行きなさい」 と言われます。まず、住み慣れた故郷、父、親族と別れなければなりませんでした。ヘブライ人への手紙の言葉を使いますと 「行き先も知らずに出発したのです。」(ヘブライ一一・八) こうしてパレスティナにやってきますが、飢饉に見舞われます(十二・一〇)。そこで、エジプトに避難するのですが、妻サライがあまりに美しくてファラオの目にとまり、自分の身の危険を感じて、彼女を妹と偽ってファラオに差し出します。妻と別れなければならなかったのです。この嘘がばれないかという不安を抱きながら、彼は賭けに出るのです。案の定、ばれるのですが、不思議に殺されずに済んだばかりではなく、 「羊の群れ、牛の群れ、ろば、男女の奴隷、雌ろば、らくだなおを与えられ」るのです。 (一二・一六) そして、今日の箇所では、一緒に旅を続けた甥のロトとの別れを彼自身が決断します。この後でも女奴隷のハガルによって与えられた男の子イシュマエルとの別れ(二一・一四)があり、さらに一〇〇歳で与えられた跡取りのイサクを焼き尽くす献げ物として献げなさいという神様からの命令を受けて、イサクとの別れを決断します(二二・二)。 信仰は「賭け」 別れの決断は、「賭け」でもあります。今までとは違う生き方に入るということですから、それが本当に良いか悪いかは全く分からない。でも、神様に賭けてみる。それが信仰ということです。 函館で「旭ヶ丘の家」という明るい大変評判のいい特別養護老人ホームの施設長をしておられるフィリップ・グロード神父が「好奇心だよ、好奇心」という本を出しておられますが、その中で、神父はこう言っています。 「たしかに賭けをしない人生は味気ないし、そのスリルに身を置かない人は人間として成長しない。賭けに興じる遊びのなかに、見えざる世界と自分とのかかわりを探る人間の本能がかいま見られる気がする。 パスカルは、無神論者たちに皮肉たっぷりにいった。神が存在することに賭けよ、と。なぜなら、たとえその賭けに負けたとしても、そのときには自分はまったくの無に帰って賭けそのものも無に帰してしまうのだから。負けて後悔する余地のない賭けだ。勝てばそれこそもうけものではないか!」 「賭けは冒険である。もちろん賭けごとにのめりこんで人生を破綻させるのは愚の骨頂だから、賭けが人間の本能にもとづいているとしてもそのコントロールは大切だが、しかし本能そのものは自然で言いものだ。賭けることを知らない人は、平凡な人生しか送れない。歴史に名を残した人、愉快な人生を送った人、そういう人たちは皆何ものかに賭けるタイプだったにちがいない。」(女子パウロ会、「好奇心だよ、好奇心」、九八、九九頁) 私たちは、頭からギャンブルは良くないと決め込んでいますが、改めて神父さんに言われてみると「賭け」の良さをある面で楽しむことはいいことなんだな、と考えさせられます。 アブラハムの別れに戻りますが、別れというのは、必ず何かを失うわけです。別れが生み出すものは喪失です。しかし、それは同時に新しい出発の時でもあります。別れとは、喪失と出発の時なのです。私たちは、別れというと喪失のことばかり考えますが。それが新しい出発なのだと考えると前向きになります。 アブラハムの場合、その別れを自分で選ぶこともありましたが、多くの場合、与えられた別れでもありました。 私たちも否応無しに別れを経験しなければならないのですが、実は、そこで真実に信じているか、どうかが問われるのです。本当に信じています、と言えるのは、別れを受容できるか、どうかにかかわります。逆に言えば、信じるために、別れが与えられると考えていいのではないでしょうか。 自分の思いのままに生きない 決定的な別れは、死です。藤木正三先生は、マルタとマリヤ姉妹の弟のラザロが死に瀕したときに、マルタに、 「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる。生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死ぬことはない。このことを信じるか。」(ヨハネ一一・二五,二六)と言われたイエスの言葉について、次のように述べておられます。 「この言葉の前に立つとき、私の示されますことは、人が生きるということは、《その人がどれだけ自分に死んだかで計られるものだ》ということです。言い換えれば、《人がどれだけ自分の思い通りに敢えて生きなかったかで計られるものだ》ということです。敢えて自分の思いどおりには生きない、これは動物にはできない、人間だけにできることです。私たちの命は贈られてある命、戴き物の命です。したがって、自分の思いに死ぬ時に、初めて輝くのです。この命の仕組みを心に留めて、日々自分の行きたくないところへ連れて行かれるような生き方、それで人生は計られると思うのです。」(近代文芸社、「系図のないもの」、一三四頁) つまり、敢えて自分の思い通りには生きない、あるいは、生きられない出来事が起こされてしまう。だけど、それが「信じる者はだれも、死ぬことがない」という意味なのだ。決定的に神に委ねる、信じるしかない、それは賭けでもあるわけです。 アブラハムが「信仰の父」とよく言われるのは、彼の生涯においては、常に神に賭けていたからです。別の言い方をすれば、思い通りには生きられない色んな出来事にぶっつかりながら、それを受けとめて、神に従って生きていた。そういう意味で、「信仰の父」と言われたのだと思います。 一三章二、三節を見ると、 「アブラムは非常に多くの家畜や金銀を持っていた。ネゲブ地方から更に、ベテルに向かって旅を続け、ベテルとアイとの間の、以前に天幕を張った所まで来た。」とありますが、それは、一二章八、九節の 「アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った。」、つまり、もっと南に下がり、更に西へ進むとエジプトに到るのですが、今度はエジプトからの帰りですから、来るときの逆のコースを辿った、ということです。 そこで、ロトの家畜を飼う者とアブラムの家畜を飼う者との間に争いが起こったので、アブラムは、ロトに、 「ここで別れようではないか。」(九節) と提案します。 「あなたが左に行くなら、わたしは右に行こう。あなたが右に行くなら、わたしは左に行こう。」 普通は、目上の者に選択権があるのが当時の常識だったのですが、アブラムは、ロトに選択権を譲ります。そうすると、ロトは見た目、たいへん肥沃な「ヨルダン川流域の低地一帯を選んで、東へ移った」(一一節)のです。 この「東へ移った」という表現は、旧約聖書では、独特の意味を持っています。罪を犯したアダムとエバは、エデンの楽園から追放されて「エデンの東」に移されました。(創世記三・二三、二四) 「東」というのは、神から逃げて行くことを象徴しています。ロトは目先の利益に惑わされて、結果的に神の約束の地「カナン」から東へ出て行ってしまいます。そこで、一二節には、 「アブラムは(神の約束の地)カナン地方に住み」とわざわざ書いてあるのです。 この彼の「別れの決断」が結果的に、神から祝福を受けることになります。私たちもいつ起こるかも知れない別れの危機、あるいは今直面している別れの危機に際して、これをまっすぐに受けとめ、そして「イエスと共に死んだなら、イエスと共に生きる」(ローマ六・八)という信仰に徹したいと思います。 今日の日課の使徒書は、ガラテヤの信徒への手紙ですが、その三章7節に、 「だから、信仰によって生きる人こそ、アブラハムの子であるとわきまえなさい。」 とあります。福音書の日課はマタイによる福音書ですが、三章八節には、洗礼者ヨハネが、こう言っています。 「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。」 とアブラハムの子であると思ってもみるなと警告しています。つまり、本当の信仰によって生きていない。自分たちは御心にかなう行いをしているという思い上がりだけがあって、すべてを神に賭けるということをしていない、ということが対照的に挙げられています。 「侍」の「別れ」 先週は、招かれて神戸女学院の宗教週間の講師として、中学高校と大学のチャペルで説教をしました。たいへん恵まれたときを過ごすことが出来て感謝しているのですが、その往復の新幹線で遠藤周作の「侍」という小説を読みました。いつもであれば、ビールでも飲んでゆっくり一眠りして行くのですが、今回は全く飲み食いはしないで夢中になって読み切ってしまいました。 この「侍」は、支倉常長という伊達政宗の家臣で、一六一三年から七年かかって、メキシコ、スペイン、ローマへ使者として派遣された人のことです。彼は、本来の使命であるメキシコとの貿易を始める許可をスペインの国王から受けるために、通訳として同行した宣教師の勧めを受け入れて、本来、信じていないし、大嫌いだったキリシタンになります。ところが、彼の留守中に、日本はキリシタン禁制になります。勿論、鎖国政策も始まりましたから、彼らの長旅は全く無意味になるのです。 キリスト教人名辞典によると、帰国後は政宗の配慮でキリシタン迫害を避けて奥羽の知行地に隠退し、その地で信仰生活に励み、一族をキリシタンに改宗させた、となっていますが、事実は、明確ではないようです。 遠藤周作は、この主人公の信仰と自分の信仰を重ね合わせて物語を作っています。つまり、遠藤は母親の信仰によって、幼いときに受洗しますが、本来、着物を着る者が無理やりに洋服を着せられた違和感を感じて、長い間、抵抗しました。しかし、「弱い者と共にいる弱いイエス」という信仰に到達して信仰を全うして生涯を終えるのですが、「侍」も使命を忠実に果たす手段として受洗するのですが、帰国するとそんなことは一切認められず、処刑されるという結末としています。「侍」の忠実な従者である与蔵だけは、ある出来事を通して、本気でイエスを信じるに到るのですが、身分が低いために、お咎めなし。この小説のラストシーンを紹介しましょう。 「雪が屋根できしみ、また滑り落ちた。その音は侍に帆綱の軋(きし)む音を思い出させた。帆綱が軋み、白いウミネコが鋭い声をあげて飛びかい、波が船腹にぶつかり、大きな海に向かって出帆したあの瞬間から運命はこうなると決まっていた。長い旅は彼を今、運ぶところまで運ぼうとしていた。 与蔵がいつの間にか雪の庭に正座してうつむいていた。彼は用人からすべてを知らされたにちがいなかった。眼をしばたたきながら侍はしばらくこの忠実だった下男をみつめ、『今日までの苦労……』 と言って咽喉をつまらせた。 与蔵は主人が今日までの苦労をかたじけないと言ったのか、今日までの苦労が恨めしいと呟いたのか、聞きとれなかった。そしてその主人が、用人と立ちあがる気配を頭上で感じた。 侍は屋根のむこうに雪が舞うのを見た。舞う雪はあの谷戸のしらどりのように思えた。遠い国から谷戸に来て、また遠い国に去る渡り鳥。あまたの町を見た鳥。あれが彼だった。そして今、彼はまだ知らぬ別の国に……。 『ここからは……あの方がお供されます』 突然、背後で与蔵の引きしぼるような声が聞えた。 『ここからは……あの方が、お仕えなされます』 侍はたちどまり、ふりかえって大きくうなずいた。そして黒光りするつめたい廊下を、彼の旅の終わりに向かって進んでいった。」(遠藤周作「侍」、新潮文庫、四〇四、四〇五頁) 与蔵の言う「あの方」は、十字架と復活のイエスです。 「ここからは……あの方がお供なされます」 絶対孤独の世界でも復活のイエスが共におられるのです。 「ここからは……あの方がお仕えなされます」 与蔵の手のとどかない世界へ移ろうとする「侍」に復活のイエスが私に代わって仕えてくださると与蔵は言いたかったのです。侍は、あれだけ拒絶していたイエスを受け入れます。 「ふりかえって大きくうなずいた」のです。 (二〇〇〇年一一月一二日、第二礼拝説教要旨) |
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