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「言行不一致]
石川和夫 御言葉を行う人になりなさい。 自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。 御言葉を聞くだけで行わない者がいれば、 その人は生まれつきの顔を鏡に映して眺める人に似ています。 鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐに忘れてしまいます。 しかし、自由をもたらす完全な律法を一心に見つめ、これを守る人は 、聞いて忘れてしまう人ではなく、行う人です このような人は、その行いによって幸せになります。 (ヤコブの手紙一章二二節〜二五節) 現代仏教の大指導者、松原泰道先生の「一期一会」―禅のこころに学ぶ―(総合労働研究所。昭和五五年四月二三日、第三刷)という本に、こんな話があります。 いま・ここが地獄 白隠禅師(一八世紀の禅の高僧)に、一人の若侍が「地獄」の有無を問う、地獄が有るか無いかは、今でも仏教座談会などには必ずといってもいいほど飛び出す問題だ。古くて新しい疑問だが、地獄・極楽の示唆する思想内容は極めて深く、いつの時代にも生きた教えを持つ。 白隠は、あの大きな眼で若侍をぎょろりと見すえて言う。 「貴公は見かけは立派な武士だが、その年齢になっても、まだ地獄の有無がわからぬようでは、貴公の教養のほども知れたものだのう。刀を差しているが刀掛けに過ぎんなあ」と。 白隠の罵言は、いよいよエスカレートして止まるところがない。 はじめは、高僧の言うことだと思い歯を食いしばって耐えていた若侍も、あまりの雑言に堪忍袋の緒も切れたか、やにわに刀を抜いて切りかかる。白隠は巧みに逃げまわり、なおも彼を嘲笑するが、ついに本堂の一隅に追いつめられまさに切り伏せられようとする刹那、白隠の鋭い叱咤の大声が飛んだ。 「そこが地獄だっ!」 白隠の一喝に、若侍ははっと気がついた。――怒り、憎しみ、自分を正しいとする思いあがりが自他を傷つけ、ともに地獄に落ちる道理であることを。また、地獄は遠い存在ではない。現にいま・ここが地獄だ。地獄の中に住み、地獄の中に生き、さらに自分自身の中にも地獄があることを思い知った。 若侍は刀をさやに納め、髪や衣服の乱れを直し、恥じらいと喜びに面を赤らめ「わかりました」と、深々と頭を下げる。 白隠は若侍に追われて逃げ回ったので、呼吸も荒い。しかし、言葉は静かに彼を指して言い切る。 「それ、そこが極楽よ!」 若侍の顔は、白隠の言によって更に明るさを増していく。それは、彼がそれまで考えていた「極楽」とは全く違うからである。彼が思い、ときには軽べつ的に考えていた極楽は、地獄とは反対方向にあるのではなく、地獄をつきぬけて、初めて観ることの出来る世界であることも、合わせて合点せしめられたからだ。 それだけではない。彼が地獄・極楽の所在を身体で理解した刹那に、彼が、いま・ここに生きる厳粛な意味に初めて目がさめた。 以上を、白隠の逸話として笑って聞くのはやさしい。しかし、そのときの白隠も若侍もいずれも命をかけてのやりとりであった事実を忘れてはなるまい。なぜなら、もしも、白隠が地獄を若侍にさとらせる前に殺されたら、白隠の生涯は全く無になる。また、もしも、若侍が白隠を先に殺したら、彼は地獄を解決出来ずに、殺人の責を負って切腹しなければならなかったであろう。思えば、白隠にとっても、また若侍にあっても、ともに死を賭けての質疑応答である。 このように命と命とのふれあいがなければ容易に理解出来ないのが「地獄・極楽」の問題である。観念遊戯の質疑応答では、かりに知的に理解されても、心の深層でのうなずきという静かな理解は生まれないであろう。(二〇一〜二〇三頁) 今日は、「地獄と極楽」の話ではなく、松原先生が「極楽は、地獄とは反対方向にあるのではなく、地獄をつきぬけて、初めて観ることの出来る世界である」と言っておられることに注目したかったのです。 言行不一致を突き抜けて 今日の御言葉は、「御言葉を行う人になりなさい」(ヤコブの手紙一・二二)ですが、言ってみれば、「言行一致」でいなさい、ということだと思います。ここで、松原先生の表現を借りるならば、「言行一致は、言行不一致の反対方向にあるのではなく、言行不一致をつきぬけて観ることの出来る世界である」ということを申し上げたかったのです。 それが「自分の顔を鏡に映して眺める人に似ています。鏡に映った自分の姿を眺めても、立ち去ると、それがどのようであったか、すぐ忘れてしまいます」(一・二三,二十四)ということだと思います。 「言行一致」でなければならない、と言われれば、大概の人は、自分もそのようにしている積りです、と答えるでしょう。私もその積りでいます。「言行不一致」を「言行一致」の反対方向に置いていると、仮に「言行不一致」があったとしても「それがどのようであったか、すぐ忘れてしまいます」。 松原先生が「いま・ここが地獄」という認識があって初めて「いま・ここが極楽」を知ることが出来る、と言われたように、「私は言行不一致」という認識があって初めて「言行一致」に至るのだと思います。 ヤコブの手紙の著者、ヤコブは、実在した何人かのヤコブの誰にも当てはまりません。なぜならば、「わたしの兄弟たち、自分は信仰を持っていると言う者がいても、行いが伴わなければ、何の役に立つでしょうか。そのような信仰が、彼を救うことができるでしょうか」(二・一四)と言って、誤ったパウロ主義を批判しているから、明らかにパウロ以後の人です。 パウロは、 「人は律法の実行ではなく、ただイエス・キリストへの信仰によって義とされると知って、わたしたちもキリスト・イエスを信じました。これは、律法の実行ではなく、キリストへの信仰によって義としていただくためでした。なぜなら、律法の実行によっては、だれ一人として義とされないからです。」(ガラテヤの信徒への手紙二・一六)、 「わたしたちは、人が義とされるのは律法の行いによるのではなく、信仰によると考えるからです。」(ローマの信徒への手紙三・二八) と主張しました。これを曲解して、信仰さえあれば、何もしなくてもよい、と考える人たちが出てきたようです。これらの人たちに対してヤコブは、 「行いの伴わないあなたの信仰を見せなさい。 そうすれば、わたしは行いによって、自分の信仰を見せましょう。」 (ヤコブ二・一八) と主張したのです。だから、実行あるのみ、とだけ言っているのではありません。自分は信じているから、いいのだと何も自分を振り返ろうとしない人たちを責めているのです。 「両方を見る自由」
では「二」はというと――これはちょっと目も当てられない。「二枚舌」「二番煎じ」「二束三文」「二束のわらじ」「二心」「二の次」「二刀流」「二の足を踏む」「二流」「二重人格」「二股をかける」などなど。「二」に対する世間の扱いの低さに改めて驚き、「二の句がつげない」。「二」とい言葉には、不純とか不誠実、どっちつかず、残り物、まがいものといったイメージがこびりついている。「二」は、誰も引き受け手がないような「ことば業界」のつらい仕事を背負わされたまま、人生の裏街道をとぼとぼと歩いて来たようである。これはいったい何か。僕たちはかえすがえすも「一」が好きである。何とかして「一」になりたいのだ。あるいは何とかして「一」という言葉で表されるピュアな状態でいたいという願望があるのだ。それが「二」に対する不当なまでのさげすみとして脈々と受け継がれたのではないだろうか。(二四七、二四八頁) 確かに「『一』という言葉で表されるピュアな状態でいたいという願望がある」のは事実ですが、「二」で表される不純なものもあることも事実です。問題は、どっちかだけに目を向けていることです。長所と欠点についても同じです。長所は裏返せば、そのまま欠点なのです。だから欠点だけに目をとめてもいけないし、長所だけを見ていてもいけないのです。常に両方が同居していることに素直になると自由になります。言ってみれば、長所と欠点は、神様がお作りになったものですから、どっちかだけに目を止めていると「おいおい、違うだろう?」と神様が困惑されます。神様は、わたしたちをまるごと受け入れてくださっているのです。だから、どちらかに偏ってしまうことに気をつけましょう。いいことをしよう、ということだけに心を奪われないことです。 奉仕しすぎる フランスのミシェル・クオスト神父の祈りを私たちの祈りとしたいと思います。
親しくしている全ての人たちにとって、わたしたちはセントバーナードです。 わたしたちは言うべき言葉を知っているし、 ほほえみが必要なことも、 どんなしぐさが必要かも知っているのです。 わたしたちはよいしもべかも知れませんが、「役に立つしもべ」には絶対なれないでしょう。 なぜなら、わたしたちのこの態度ゆえに、他の人びとはいつまでも小さく、わたしたちは、いつもりっぱな人としてとどまるからです。 彼らが貧しいままでいるのに、わたしたちは富んだ者となり、 ひとたび彼らがわたしたちを必要としなくなれば、だめになってしまう人間なのですから。 主よ、愛することを減らすのではなく、機械的に奉仕することを減らさせてください。 わたしたちは小さくなり、他の人びとが成長しますように。 彼らに前より少なく与え、より多く要求し、 彼らを救おうとする代わりに、彼らを救い手とならせてください。 そうすれば主よ、わたしたちは 恩人でも 親代わりでもなく 兄弟に対する兄弟となることができるでしょう。
(ミシェル・クオスト「イエスが新聞を読まれたら」、―奉仕しすぎる―教団出版局、一九七四年七月五日、初版、五二,五三頁) (二〇〇〇年一〇月八日、第二礼拝説教要旨)
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