聖書(--逆説の書--死からの復活が背後に活きています--死は終りではなく、始まりなのだ、という逆説を主張しています--一貫して流れている主張は、「人間の判断は、当てにならないぞ」ということです--独善的で傲慢なキリスト教もこの逆説を理解していないように思います--人間が持つ価値観の中で、不幸におとしいれられ、あるいは自分が不幸だと思わされている人に、そうではないのだよという福音を知らせること、これが神様のわざです。このことを神様は歴史の中に示されています--)
ハンナとマリア(--当時の社会的差別の対象となった--神は差別されている人を用いて奇跡的な大きなわざをなさいます--)
ユルゲン・モルトマ(--神学者--逆説をしっかりと受け止めています--なぜ、わたしが生きていて、あの、善良な友達が、先に死んだのだ」--イエス様も、神様によって、不条理な苦しみを与えられました。神が自分の呼びかけに答えない中でも、イエスは、なお神を呼び続けました。モルトマン博士は、「イエス様に神からの答えがなかったのなら、自分に、答えがないのは当然なのだ」と理解しました。このイエス様なら、今のわたしを理解することが出来ると感じたのです--御子の神に見捨てられたこの死には、ただ一つこの答えがあるだけです。すなわち、「死は勝利に飲まれてしまった」--私たちを苦しめている問いには、そもそも答えは存在しないことになります--ユルゲン・モルトマン「無力の力強さ」--新教出版社--)
久世そらち(--牧師--「礼拝と音楽」127号、85頁--「神のみ業としての『受胎告知』は、この世の圧力、社会が押し付ける価値観のゆえに涙する人々への、神からの強烈なプレゼントなのだ--子がない女と、結婚前に身ごもった女と。いずれも人に蔑まれ、貶められるべき存在だった。しかし、神は彼女たちを用いてみ業を成し遂げる。わけしり顔の、秩序を重んじる、生真面目な人間たちの思いを打ち崩し、あざ笑うかのように--)
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