2005/07/03 「岩を土台として」 マタイ 7:15〜29  (MP3)   
 山上の垂訓”説教”(--一見倫理の教えに聞こえるがこれをこのまま実行できる人はいない--イエスが高慢になるなということを気付かせようとした逆説的な教え”分かったような顔をするな。神様はお前たちに完全にわかられるようなお方ではない”--当時の熱心な信者に対して鋭い批判をされた--)
 現代の社会はよいこと追求がマスコミ主導で行われている(--差別を生む構造となる--悪いことを排除する構造を生む--) 二元論(--わかりやすいくて入りやすい--一時は自己満足する--そのあと自己矛盾に苦しむ--)
 神様はわからない方だということを前提としているか(--自分のしていることはこれでいいのかという問いがいつも出てくる”このことが謙遜さを生む”--)
 人についても分かるはずがない(--自分自身についてすら分かっていないことがある--)
 村上 和雄(むらかみ かずお、日本の分子生物学者。筑波大学名誉教授。農学博士「家族を看取るとき」 --科学者というのは一種の信仰者なのです--サムシンググレート”両親の両親これを繰りかえさないと私の存在がない--さらにさかのぼると48億年前、生き物を生み出した親のようなもの”--その親が”信じるから助けましょう。信じないから助けない。というようなことを言うでしょうか。ましてよその宗教に行ったら罰が当たりますよとか。そんなケチなことを言うわけがない。親は子供が信じようと信じまいと親は親なのだ--生きているとはすごいことだと思います”--)
 イエス様が嫌った人たち(--わかったような顔をして人を裁く人たち、自分は大丈夫だと思い込んでいる人たち--)
 わからないけれども従っていきます(--イエス様のおっしゃったことに気付いて”そうだ”として自分の生き方を改めてゆこう”このような人は「岩の上に家を建てた人たちだ」”--岩は”イエス様。分からなくても大丈夫だよとおっしゃっている”--)

2005/07/10 「信じたとおりに」 マタイ 8:5〜13  (MP3)   
 異邦人(--当時のユダヤ社会ではランクが下--)
 信じたとおりなる(--自分は本当に信じているかな--)
 アンピョンム牧師(--韓国神学研究所所長--「絶望の中の希望」--絶望は神の声を聴きえる関門に似ている--)
 絶望の中に希望がある
 キリスト教の傲慢(--信仰者であるとかないとか区別しないほうがよい--) 

2005/07/17 「共感への招き」 マタイ 9:9〜13  (MP3)   
 マタイによる福音書(--六十年ぐらい経った頃に書かれたと言われますから、現在の私たちが、太平洋戦争を振り返るのと同じぐらいの期間に相当します--生き証人が段々と減ってきます--イエス様が一番ひどい十字架の刑を受けなければならなかったのかということについて、いろいろな理解の仕方が出てきました--贖罪論信仰が生まれてきました。同時に、イエス様は、三日目に蘇られたという証言があり、それが広まって、復活信仰が生まれてきました--六十年たった後では、事件の解釈の仕方がさまざまに変わります。イエス様の出来事についても、伝えられていくうちに色々と変わっていくことも自然でした--聖書学者たちによって、イエス様の弟子であったマタイが書いたことは間違いであるということが分かりました--)
 嫌われ、差別された徴税人(--人にいやがられる仕事なんで、徴税人という職業そのものが貧しい被差別者の仕事だった--)
 晴佐久神父(--「恵のとき」--病気は恵みのときなのだ、例え、直ろうと直るまいと、素晴らしい恵みのときなのだ--病気になったら 心ゆくまで感動しよう--食べられることがどれほどありがたいことか--歩けることがどんなにすばらしいことか--新しい朝を迎えるのがいかに尊いことか--忘れていた感謝のこころを取り戻し--この瞬間自分が存在している神秘--見過ごしていた当たり前のことに感動しよう--またとないチャンスをもらったのだ--いのちの不思議を味わうチャンスを--)
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「分類キーワード(悲しいとき)」

2005/07/24 「内臓が痛んで」 マタイ 9:35〜10:16  (MP3)   
 あわれむ(--はらわたがちぎれるほどに共感する--)
 平野美津子(--「たくさんの愛をありがとう」日本キリスト教団出版局 --"近づく死への準備"--自分の思いだけで引き留めようとしないで逝かせてあげることはなかなか難しいことでしょう。死にゆく患者さんは残された方たちが大丈夫なのか見届けようと、たとえそれで苦痛が続いても たいてい持ちこたえようとします。あなたが死にゆく患者さんをこの心配から解放してあげ体の限界が来た時には「いつでもいいよ」と言ってあげられるなら、それはこの時点であなたがしてあげられる最大限の愛の業です。患者さんが死ぬ時が来てあなたも逝かせることができるときそれは「さようなら」をいう時なのです。「さようなら」をいうことはあなたが愛する方にしてあげられる最後の贈り物です--)
 本田哲朗神父(--「小さくされた者の側に立つ神」--苦しむ人々の共感こそ福音宣教の力です。痛みの共感があった時初めて職務だからとか掟だからとか、あるいは建前としてではなく本気で主の御業に協力したいという思いに駆られるものです。それは神とイエスキリストが抱いておられる"痛みの共感"に参与することなのです。その意味で痛みの共感は恵みでもあります。この恵みは苦しみと痛みのさなかにある人々と立場を共にすることなしには決して与えられることはないでしょう。--) 

2005/07/31 「憎まれても」 マタイ 10:16〜25  (MP3)   
 斉藤聡次郎(--宮沢賢治「雨ニモマケズ」のモデルになった人か?--日露戦争に反対した--)
 ヘンリ・ナウエン神父(--苦難を神の意志であるとと説明することがあるのですが、それは誤りです。神が与えたいのは苦痛ではなく喜び、戦いではなく平和、苦しみではなく癒しなのです。私たちが苦痛や苦悩を感じているとき、その苦しみのただなかで神の愛のみ顔を見出したいものです--)


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