2005/06/05 「そのままのわたしでいい」 マタイ 5:13〜16  (MP3)   
 塩(--立派な行いをする人になりなさいと解釈すると”私にはできないとうなだれてしまう。自分はダメだとうなだれてしまうことは神様を信頼しないということになります。神様はあなたを作った計画をもっています”--聖書ではあなたはすでに地の塩であると語っている”その塩味を失ってはいけないといっている”--塩は浸透力を持っている--)
 ジグゾーパズル(--私たちはパズルの一編である”同じ形のものはない”--一つのピースはそこでしか使えない--このピースを作るのは神様である--)
 晴佐久昌英神父(--「星言葉」--「こうして来てくださるだけでどれだけ励まされているか」--痴呆症のために寝たきりでほとんど何もわからなくなっている方も多い、そんなある方をお訪ねした日のこと、いつものように耳元で「今日は、教会の神父です。お祈りに来ましたよ」というと。その日に限って八ちりと目を開け両手で僕の手を握り始めてはっきりこう言った「えらいねー、ご両親も喜んでいるよ。あんたの悪口言う人いないよ。」--ちょうどこのとき人間関係でつらい気持ちを抱いていた時で天の声かと思った。涙がこぼれそうになった。--私を通して何か素晴らしいことを事を使用としている意思に協力するとき、私はもっとも私らしくなにかをすることができる--)

2005/06/12 「それでいいのか」 マタイ 5:21〜37  (MP3)   
 律法(--当時のユダヤ人の信仰と生活に関する「決まり」、「法律」です。その決まりを大事にして守っている人は、本当のヤダヤ人、それを無視する人は、駄目な人、罪人という見方になるわけです--)
  思っただけで、有罪(--神さまに逆らっているのではないでしょうか--「自分は無罪だ」と思うな、とイエス様が言っておられると思います--あなたは、心の動きを問題にしておられる方の前に立っているのだよ、自分の本当の姿に気づきなさい、あるいは、それを受け入れなさい--)
  青木和雄 吉冨多美(--教育カウンセラー--「ハッピーバースデイ」--おじいちゃんと、おばあちゃんに引き取られたあすかは、平和な毎日の中で、徐々に自分を取り戻していきました--六十億に一つの奇跡で結ばれた父と子の絆--)
 (--いい信者になろうとか、いい何々になろうとかすると、見失ってしまうものがあります。自分は悪いのに、これだけ恵まれているのだな、と思えば得します。素直になって、自分は、悪いやつだと徹したほうが、良いような気がします。「ありがたいな、嬉しいな」という思いで生きることによって、それが人にも伝わります--)
詳しくはここをご覧ください

「分類キーワード(悲しいとき)」

2005/06/19 「共に座るところ」 マタイ 6:22〜34  (MP3)   
 共に座っている(--けっして見放さない主にある共同体--)
 思い煩い(--将来に対する心配--)
 山折 哲雄 ”やまおり てつお”(--宗教学者--日野原 重明著「家族を看取る」の中で主治医”中野進”から医師として守る三原則”痛みを止める、ほめる、さする”があるといわれた--)

2005/06/26 「自分の目にある丸太」 マタイ 7:1〜14  (MP3)   
 裁き(--自分の中の欠点は認めないで人の欠点が気になる--)
 イエスの教え(--気づきなさいと言っている--)
 菅原 伸郎”(スガワラ ノブオ”(--朝日新聞記者,論説委員--「宗教の教科書 12週」トランスビュー社--久松真一”禅宗”の言葉を紹介している--これからは信の宗教ではなくして覚の宗教になってこなければならない。普通は信が宗教的作用と考えられているが、私は信が宗教的作用であるような宗教は結局中世的なものにならざるをえず。覚がそれであるような宗教こそが近世を超えてゆく宗教でなければならないと考えたいと思う--菅原さんの言葉”私は宗教とは信じるものでわないと思うようになりました。判断力や理性を捨てて何かを えぃやっと信じるなくともいいのです。世の宗教家はとかく仏さまにせよ神さまにせよ、ともかく信じなさいと教え勝ちですが、それは怪しいのではないでしょうか。そうではなくて宗教とは気づくものなのです。疑って疑ってその挙句に ハッとして、なんだそういうことかと了解するものです。こちらから無理に信じなくていもいいのです。なぜなら、阿弥陀様にせよ神様にせよ、こちらが信じなくてもちゃんと存在しているはずです。こちらが信じなければ存在しないようでは本当の神とは言えません。悪口を言おうが、無視しようが、忘れようが、それでも存在しなければなりません。念仏を唱えようが、唱えまえが、阿弥陀仏はおられるのです。そのことに気が付く、つまり、覚でなければならないと久松さんは述べておられるのです。”--)
 浅原才市”あさはら さいち”(--浄土真宗の妙好人--宗教詩作者--”わしがおやさまみたことあるよ よくよくみればわしがおやさま なむあみだぶつ”--)
 狭い門から入れ(--苦労してはいるのではない”倫理的に聞く必要はない”--気が付くとは大変なものだ、今ぴんとこなくても大丈夫だ、道は狭いのだから、そのうちに あっとわかるよ--)


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