昇天(--三好迪”みよしみち”--新共同訳新約聖書注解--「昇天」とは、キリストが見えざる神の領域に入り、見えざる神的な力に満ちたという復活体の側面を表現する用語だが、ルカは神の救いの歴史――時空に規定されたもの――を伝えるという立場から、時空に位置づけられた別れと言う意味を「昇天」の中心にする-- キリストの可視的昇天という形の資料伝承はルカ以前には存在しない--)
伏し拝む(--礼拝をする--本当に、イエス様は神様なのだ--)
思い上がるな(--イエス様の頭の上に、金ピカの輪が付いた偶像--教会の外に救いなし、というような大変傲慢なあり方をする--神の救いが既に完成しているのに、教会を通らなければ、救いは無いという傲慢さ、それは次第にキリスト教だけが本物の宗教で、ほかの宗教は全部間違いというような驕りにつながります--)
笠原芳光・佐藤研(--春秋社--「イエスとはなにか」-- キリストという呼び方はいやだ”イエスを偶像化したから?”、という人もいれば、それはどうでもいいけども、今のこれは違うとか、そのような極めて批判的に聖書とイエスについて議論をしている本--)
荒井献(--「イエスと出会う」--岩波書店--彼女も生身の人間だった。入院したときも、毎晩のように、戸をたたいて、早く帰りたい、帰りたいと泣かれたこともあった、そのように、人間的な側面を十分持っていた--もし、恵津子に真実の意味におけるクリスチャンらしさがあったとすれば、それは歓喜の絶頂にあっても、一番うれしいときであってもなお、人間の内なる闇を見据えていたこと--)
「無条件」が「条件」に?(--神さまは無条件で罪人を赦してくださる、と言いながら、よく注意してみると、無条件ではなく、条件がたくさんあるのです。 「無条件」が「条件」になっています--)
そのままで大丈夫(--「大いなる然り」をいただいているのが、この礼拝のときなのです。何が足りないとか、そのようなことを言う前にまず、満ち足りていることにしっかり目を向けなさい。そして、満ち足りていながらまた、一方で足りないぞという、その両面があって、初めて健全になります。足りない、足りないでばかりいたら、いつも落ち着きを失ってしまいます。あるいは、欲求不満の塊になってしまいます。満ち足りた。それだけでいると独りよがりになります。そうではなくて、何時でも、その両面がある。そして、それを神様が「よし、いいぞ」とおっしゃっていてくださっています。礼拝はそういう自分を発見する機会なのだと思います--)
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