2005/04/03 「事実と真実の違い」 マタイ 28:11〜15  (MP3)   
 マタイによる福音書の強調点(--ユダヤ教”旧約”を完成させるものがイエスキリストである--ユダヤ教批判がある--世界のすべての人を救うためにイエスキリストが来た--)
 復活の事実(--神によって起こされる--四つの福音書とも大きく食い違っている--)
 事実(--客観的にわかる出来事--それぞれの人によって違う--)
 真実(--その人にとっての一番大事なもの--人によって違う--)
 ユルゲン・モルトマン(--ドイツの神学者。希望の神学を提唱--絶望的な状況”戦争の中なぜ自分は生き残ったのだろう”--イエスは私の絶望をわかってくださる方だと信じた--「終わりの中に始まりが」”聖書全体が終わりから出発している”--この終わりは何かの始まりである--)

2005/04/10 「今を生きる」 マタイ 12:38〜42  (MP3)   
 牧師業(--私の罪は許された--自分の間違いや弱さに気が付かなくなる--私の声は神の声だと思い込む--)
 ヨナのしるし(--イエスの復活--)
 山浦玄嗣(贖罪信仰をきちんと受け止めないで許されたというところばかりを強調”自分にはもう罪がない”とすると傲慢”人の罪をも許さなくなる”になる--魔女裁判のようなことが平気でできるようになる--自分の罪意識も大事--娘に伝統的なキリスト教の郷里で十字架の意味を説明した時、娘は目にいっぱい涙を溜めてこういった”「私そんなに悪いことしていないもん」”--罪という言葉は”過ち”と訳したほうがよい--ヨハネによればイエスは過ぎ越しの羊--世のハマルティーヤ”過ち”を取り除くべく渾身の努力をした末に、敵に捕らえられ、おのれの命を捨ててまでも相手を大切にするというその心を人々に示そうとして、徹底的な無抵抗の末に殺されたのだ--愛し合うとは大事にすると訳す--イエス様の十字架は鯛の刺身--栄光を受けたとは”お父様から褒められた”ということだ--そのうれしさで喜びに輝いている--ケセン語訳”俺は神さまの思いを人に伝えるためにこの世に来た。すべての人間の心の中には神様の息が吹いている。--そのことをお前たちに伝えるために来た。そこでだ、これを伝えたからには俺の使命は終わる。だから俺は去る。--俺がこのまま居続ければお前たちはこの俺を絶対視し、自分でものを考えなくなるだろう--お前の心を導いているのは神さまなのだぞ、だから自分自身で考えろ--勇気を出せ--人と人との真の交わりは神さまと人との真の交わりに通じるのだ--”)
 イエス様が私の罪のために死んでくださった(--大概の人は人を殺したような罪は犯していないので、私がイエス様を十字架につけたわけではないと思い込む--) 

2005/04/17 「信じているのか」 ヨハネ 11:17〜27  (MP3)   
 信じる(--わたしたちの力で、可能になるのではなく、わたしたちの内にいて働いてくださる聖霊が、信じる心を与えてくださるということ--誰も聖霊によらなければ、礼拝に出席することは出来ない、と言い換えることもできます--信仰を持っているということは、わたしと違う方が、善意を常に持って、わたしを守り導いてくださっている、と信じているということです--)
 証し(--うまくいった話、信じたおかげで、駄目だったのが、このように良くなりましたという、成功物語につながらないと、信仰の証しだと思わない傾向が強かったのです--失敗も素直に受け止めるという勇気がなければいけません。失敗ばかり繰り返しますと、わたしの信仰はどこに行ったのだろうと考えてしまいがちです。あるいは、何か悪いことがあると、わたしの信仰が駄目ですからというように、成功するか、失敗するかと区分けして考えてしまいます--)
 加賀乙彦(--作家--「あけぼの」、2000年1月号"対談"--信仰というのは「向こうからやってくる」--57歳のときに、洗礼を受けました。上智大学で、教えたり、その前には、フランスに留学して、いろいろな神父さんと知り合って、キリスト教とは近しかったのですが、何とはなしに、その年まで、洗礼を受けるには、至っていなかったのです--では、どうして洗礼を受ける気になったのですか、と問われたときに、信仰というのは「向こうからやってくる」と答えました。自分で、御釈迦様とキリストのどちらが偉いかを考えて、キリストを選んだというのではなくて、「向こうから、わたしのほうに来た。それがキリストだったのだ。もしも、向こうから来てくれなかったら、わたしはいまだに不信の徒だったのではないか。信仰を持たない人間のままで、いたかもしれません。どうして、と言われても、うまく説明できません。何かがきっかけで、信じるというように変えられました」と言いました--「それでは、信じて、何が変わったのですか」と聞かれたときに、加賀さんは、ぼくは自然科学を学びました。その世界はすべて疑うことから出発します。疑い、分かち、比較し、推定して、真理だと考える。しかし、それは、ほんとうは真理に近いものに過ぎません。今の科学の水準とはそんなものです。ところが、信仰というのは、疑うという心をやめてしまうのです。すると、脳の死んでいた部分が急に活性化されて、世界がパッと広がるのです。別な脳が動き出す。疑うことばかりやっていた自分が何にも疑わず、比較せず、百パーセント信じる。これが、信仰の世界です。」と、言い切りました。すると、インタビュアーは、「はあ、すると、気持ちいいでしょうね」とたずねました。「気持ちいいですよ。うれしいですね。それが分かると聖書がすごく分かるようになる。イエスに『我に従え』と言われたペテロが、何もかも捨てて従ってしまう。なぜ?何が起きた?」。 「ペテロと同じことが加賀さんにも起きたのですか。」。 「そうです。ペテロはイエスを百パーセント信じようと思ったのですね。ぼくもかつて新約の中の奇跡の話など、うそだと思っていました。」。 「ああ、加賀さんもそうなんですか。」。 「信仰の世界ですね。その人が一番困っていることが信仰によってなくなる、ということでしょう。ぼくもある日、おれはだめだ、実にひどいものだと思ったけれど、だからこそ、もう少しイエスのおっしゃることがわかりたいと思って……要するに信仰は理屈ではありません。向こうからくる。」--「御釈迦さんか、キリストか、と自分で選んだのではなくて、向こうからやってきた。結果的に、僕はキリストが好きになったのです。恋愛みたいなものですよ」--)
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2005/04/24 「神が見える」 ヨハネ 14: 1〜11  (MP3)   
 独善性(--イエス様だけが本当なのだ”これだけを主張すると独善的になる。イエス様の頭に金の輪をつけることになる”--イエスの業”何をなさったか”を通して神を見ることにより独善性は無くなる--)
 荒井 献”あらい ささぐ”(--新約聖書学者--「イエスと出会う」--奇跡物語--手を置いたら病気が治った”現象を見るのではなくイエスの姿勢が大事”--奇跡物語ができた原因を理解する”病気をいやすだけの話なら他の宗教でも語られている”--法によってそういう人”差別された人”と交わることをはっきり禁じられていたのに、その法を乗り越えるのですから、これは殺されるに決まっている。つまり、殺されるということをわかっていて、そういう人々の中に飛び込むことは奇跡的な行為だと私には思えます--だから後世の人はイエスのそういう振る舞いからイエスにいわば神を見たということになるのではないでしょうか--) 神を見る(--神さまはどんなひとも見捨てない--)
 ヤヌシュ・コルチャック”Janusz Korczak”(--児童文学作家で教育者、 ホロコーストの犠牲となった”特赦を断ってガス室に送られた”--困難な状況におかれた子供たちを何とかしなければと思った”孤児院を始めた”--よくわからないなら口出しするな。手助けをしないなら文句を言うな、批判をするな--)


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