棕櫚の主日(--イエス様がエルサレムにお入りになるときに、民衆が棕櫚の枝を振って、イエス様を迎えたという記事に基づいています--)
わたしたちもイエスをののしる?(--キリスト教も、一番肝心のイエス様をクリスチャンが、牧師が、十字架につけている場合が多かったのではないかということをしっかり読み取らなければいけないと思います。イエス様を十字架につけたのは、この、律法学者や祭司長たち、長老たちばかりではなく、わたしたちも入るのです--)
「他人は救ったのに、自分は救えない」(--えい!とばかりに十字架から飛び降りて、人々を、あっ!という間に救ってみせる奇跡の力があるのが本当ではないかと誰でも思います--イエス様を十字架につけた人たちは、本当に快哉を叫んだのです。自分たちは、悪の極みを滅ぼした。インチキの神を滅ぼしたのだ、そういう意識を持ったにちがいありません--)
シュバイツァー(--説教集「神は言葉の中に」ヨルダン社、--ここで彼らは、イエスは彼が助けようとされたまさにその人たちのことのみを考えていたがゆえにこそ、自分自身を救おうとはされなかったということを、理解すべきであったのです--)
ザアカイだけを見つめたイエス(--その当時の常識から言えば、一番いけないことをイエス様は自分から進んでやりました--それほどまでに、ザアカイに集中したのです。ザアカイだけを思いました。これが、他人は救ったが自分は救わなかったということなのです--イエス様はそのときに、ザアカイのことしか考えていませんでした。エリコのことがどうなるか、エリコの人たちが自分のことをどう思うかは、一切考えなくて、ザアカイのことしか頭にありませんでした。この、愛がわたしたちを救うのです。神の愛は、わたしだけに向かうのです--)
ユルゲン・モルトマン(--説教集「無力の力強さ」新教出版社--神はわたしたちのことで苦しまれる(Gott leidet an uns)、なぜなら神はわたしたちが好きだからです(denn
er mag uns leiden)。語呂合わせどころではありません。この言葉の中に非常に多くのことが秘められています。つまり、神はわたしたちを好きなのです。またわたしたちは、ほんとうに神に好かれているのです--人間が希望を失うところ、無力になって、もはや何一つすることができなくなるところ、そこで、そこでこそ、試練にあい、ひとり見捨てられたキリストは、そういう人びとを待っておられ、御自身の情熱(ライデンシャフト)にあずからせてくださるのです--人間が、希望を見捨て、幻想を追いかけるところ、その将来や最も大切なものを力でねじ曲げるところ、そこに、祈りつつ叫び、神のみ心を勝ちとるキリストが彼らを待っておられ、御自身の苦難(ライデン)にあずからせてくださるのです--)
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