イエス様の洗礼(--正教会ではイエス様の顕現"イエス様が洗礼をお受けになったのは、単に罪を清めるということではなくて、まさに、神の子であることを公にして、神の子の即位式をなさいました。ここに現れた"というように表現している"--洗礼は罪を清めていただいて、新しく生まれ変わる式と受け止められてきました--イエス様は神様が人となられた方だから、清めていただく罪はないのに、なぜ洗礼を受けるのかと、古来続いた議論です。正教会では、早くからイエス様の洗礼は、私たちが受ける普通の洗礼とは違うと受け取っています--神様の心にかなうということを、これから表すということ、それを公にした--) 私たちの洗礼(--イエス様の洗礼に共通したものがある--つねに古いわたしに死んで、新しいわたしが、神の息をいつも受けて、神の息吹の中で、生き生きと生きる--)
山浦玄嗣(--「ふるさとのイエス」、キリスト新聞社--洗礼を「お水くぐり」と訳した--水をくぐるのである。沈むのでもない。もぐるのでもない。くぐるのである。「沈む」は水の中に入って水面から見えなくなってしまうことである。「もぐる」は自分の体を頭ごと水中に沈めることである。「くぐる」は身をかがめて、物の下や、狭いところを通り抜けることである。この場合は水面下を通り抜けることである。「沈む」と、「もぐる」には「通り抜ける」意味はない。「くぐる」の持っている、この、「通り抜ける」という意味が、バプテスマの持っている心を表すのにまことにふさわしい--ヨハネは洗礼を受けたいと希望する人を川の深みに導いた。そこでその人は身をかがめ、ズブリと全身を水に沈める。するとどうなる。当然、呼吸が出来なくなる。普通の人は二分と我慢できない。一分でも相当に苦しい。窒息死か溺死がその先に待っている。水の中にもぐりながら、その人は考える。今、自分はこれまでの自分と別れるのだ。今までの生と別れて、今ここで死ぬのだ。うーっ、苦しい。鼻や口からブクブクと空気が漏れる。もうだめだ。ザバッと彼は水面に顔を出す。苦しげに顔をブルブルッと振って大きな口を開け、ブァーッと息を吸い込む。新鮮な空気が窒息寸前だった彼の肺の中に奔流のように吸い込まれる。新たな命が彼の全身に流れ込む。喘ぎながら彼は思う。俺は今新たな命に生き返ったのだ。これからは新たな自分になるのだ--)
G・Sホプキンス(--「私にとって『復活』とは」、日本基督教団出版局-- この凡夫、凡句、とるに足らぬ陶器のかけら、木屑、すべては不滅のダイアモンド、そう、消えることのないダイアモンドなのだ--)
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