2004/05/02 「あなたは?」  ヨハネ 21:15〜25  (MP3)   
 アガペーとフィレイン(--3回繰り返される--「アガパオ」”神の愛、アガペー”--肉親の愛「フィレイン」--)
 ペトロ(--人間愛で、一所懸命最善を尽くしたことをイエス様、あなたはご存知でしょう、と言いたいところでしょう--彼の心の中はどきどきしていました。イエス様が十字架にかけられる前に、彼は三度、「あの人は知りません」と強く否定しました。三回も裏切った。それが非常に気にかかっていました--)
 島崎光正”詩人”(「自主決定にあらずして」--たまわった いのちの泉の重さを みんな湛えている--生まれたときから脊椎損傷--友だちに馬鹿にされ、しかも、お母さんを三歳のときに失うということで、愛情にも恵まれないで、いろいろな不遇を経験された--)
 藤木正三牧師(「神の指が動く」(ダビデ社)--「自主決定にあらずして」、身体的不自由さ、生い立ちの不遇さ、泣こうが喚こうが、どうにもならぬわが身に降りかかった不条理、この自主決定にあらざるものを、怒り、嘆き、呪う、孤独な迷いの中を通り抜けて、「たまわった」と島崎さんが受け止められるに至るまでの心の旅路の長さ。 このことを思ったときに深く感動した。自分では呪いたくなった、こんなものいやだと何度でも思いながら、それが実は、「たまわった」、神様からいただいた命の泉なんだと受け止めなおす。その大きさ、しかも、そういう命の泉は、ここに参加しているすべての人に賜っている、いただいているのだ、みんなが持っているぞと--)
 神はどこへ導かれるのか?(--こういうことさえ無ければとか、わたしがもうちょっとこうだったらとかは誰もが思うことです。だけど、それは神様から賜った命の泉なんだぞ、それは重いぞ、そのように受け止めなおそうということなのです。そのときにこそ、本当の自由があります。これさえなければと思っている間は、自由がありません。豊かさに入ることはできません--)
 鈴木秀子”聖心会シスター”(「神は人を何処へ導くのか」三笠書房--神はあなたを、あなたのいる場所へ導いています。いま、あなたのおかれた場で、あなたは、かけがえのない存在として、目に見える世界を突き抜けて、真の現実を見、真の人間性を発揮するように導かれているのです--)
 これからどういうふうになるのだろうか(--神様はどこへ導こうとしているのだろうかと考えるときに、どこへじゃないよ、今あなたのいるところ、そこに導いているのですよ。今あなたの置かれた場で、あなたはかけがえの無い存在として目に見える世界を突き抜けて、真の現実を見、真の人間性を発揮するように導かれているのですよ。今自分の置かれているところ、それは主が、神様が、導いてくださっておられるところ、だからそれをもう一度受け止めなおす、それが信仰なのですよと--今、置かれているところ、そこが命の泉なのだ。その大きさをしっかり捕らえなおして見なさい、それが福音なのだ--)
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「分類キーワード(不安なとき)」

2004/05/09 「弁護人がいる」  ヨハネ 15:18〜27  (MP3)   
 弁護者(--聖霊のことです--晴佐久昌英神父--「イエス様が、聖霊を弁護者にたとえたのは、この言葉が一番傍にいて、その人を助けてくれるというそのような意味を持っている言葉だからです。自分の言うに言えない思い、誤解されて誰も理解してくれない、魔がさしてやってしまったこと、取り返しがつかないさまざまな自分の罪、神の親心がそのようなわたしの一番近くにあってそんなわたしのために働いてくれていることを感謝します。」--) 
「愛する」(--弁護人になる--晴佐久神父の言葉をそのまま借りたら、”自分の言うに言えない思いそれを察する、あるいは誤解されて誰も理解してくれないという状況あるときにそのことを察することです。少なくとも何かあるなと思ってその人の傍にたつことです。「愛する」とは徹底的に弁護人になるということです”--)
 弁護人である聖霊(--常にわたしたちと共にいてくださいます--聖霊はわたしたちが呼ばないと来てくれない方ではない--悪いことであっても、素直になることで、いいのです--悪いことをしているときも、神の手の中にあるということを忘れてはいけません--)
 「愛」は感じたまま(--人が怒ったら「あら、ごめんなさい」と素直に言えるのです。「何よ、人の善意を」と、こちらがふくれたりする必要がないのです--素直に出した言葉が、人を怒らせたりするのだったら、人を責めるのではなくて、自分の感じ方を責めるしかないのです--誰も責める必要がないのです--霊の業は、感じたことを素直にしたときに、自分の計算以外のことを起すのです--霊の賜物をたっぷりいただいています弁護人がわたしたちと共にいて導いていてくださいます--取り返しようのない癖が身についています。失敗は、全部その身についた癖が起こすのです。だからこれは、もう、しょうがないなと受け止めるしかないのです。それがわたしなのですから。--)
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「分類キーワード(愛、悲しいとき)」

2004/05/16 「究極の勝利」  ヨハネ 16:25〜33  (MP3)   
 イエス様の平和(−−世が与えるように与えるのではない−−病気で苦しみがあるときに、その苦しみが取り去られることによって平和が与えられるのではなくて、苦しみがあるが、しかし同時に平和もあるというあり方イエス様が常に共にいてくださるということを通して、どのような状態にあっても、あなた方には世で苦難がある。嫌なこと、そして、耐えなければならないこと出来れば取り去りたいこと、そういうことがある、しかし、勇気を出しなさい、わたしは既に世に勝っている。苦難と一緒にイエス様がいる。しかも一緒にいるイエス様は世に勝っている。復活をして、そして、神の右にいてくださる。だから、このわたしがいるから苦難があるけれども、あなたは必ず勝利を得るという−−)
 痛みを捧げる(−−森内俊雄「福音書を読む」、日本基督教団出版局、2001年5月21日、初版、80−81頁−−あるとき、左手首を複雑骨折しました−−退院して、ミサに出ました。ミサが終わった後で、主任司祭に「痛いですか」と尋ねられたので、「痛くありません」と言うと嘘だから、「痛いです」と答えました。そうすると神父が「どうか、その痛みを世のもっと痛める人々のために捧げてください」。これを聞いたとき「わたしは心の隙間にそれこそクサビを打ち込まれた思いがした」と言うのです−−「わたしの肉体の痛みはあくまで自分ひとりのものであって、ただひたすらこれに耐えていくしかない、と思っていた。痛みを覚えるのは、治癒に向かっている証拠なのだから、耐えていればよいとだけしか考えていなかった。しかしながら、この世にはわたしより、もっと辛く絶望的な痛みにわが身をさらしている人もいるのである。痛みすら覚えない極限の痛みもあるのである。わたしは神父の言葉に衝撃を受けたが、だからといって、それで痛みが消えて無くなってしまったわけではない。だが、痛みの意味が変わってしまった。この自分のささやかな痛みが、誰か知らない罪なき人の痛みの幾分かの助けになるのならば、この痛みを真摯に捧げようと決心した。−−捧げるような謙虚な思いで痛みと向き合ってみればずいぶん楽にもなれる。痛みでさえ捧げられるのならばわたしたちは実に多くの奉げものを所有しているのではないだろうか。わたしは自分が非常に豊かな人のような気持ちにもなれる。」−−)
 捧げられないものは何も無い(−−捨て去りたいと思うもの、それも捧げる。どんな小さなものでも捧げるということをとおして、主はそれを何倍にも生かしてくださる−−痛みさえ捧げる。あるいは悩みも捧げる。自分よりもっと重い人もいるかもしれない、そういう人々と連帯して捧げるのです−−)
 連帯(−−主イエス・キリストがそれらの人と共にいて、傷を、その痛さを負っていてくださるということです。それが、「あなた方には世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」”33節”ということではないのでしょうか。−−)
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「分類キーワード(平和)」

2004/05/23 「ひとり立ち」  ヨハネ 7:32〜39  (MP3)   
 平野美津子(「たくさんの愛をありがとう」日本キリスト教団出版局”末期がんの夫と共に”−−お父さんが亡くなっても笑っていられるかね−−何もやることがないほど退屈になると孤独になる。孤独になると神様と話ができる。孤独になって神様と出会え−−「祈りは聞かれるのだろうか」私たちの祈りは聞き届けられなかったのでしょうか−−心の中のうめきを聞いてくださる神様”神様私に苦しみを乗り越える力と、この苦しみを受け入れる勇気を与えてください。私を一人にしないでください。共にいてください”−−"詳しくはこちらをご覧ください") イエス様の昇天(−−イエス様が見えなくなって飢餓状態になった私たちはどうなるのか−−)
 遠藤周作(「沈黙」−−神は沈黙していたのか”私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいた”−−)
 うまく祈れない(−−それでも大丈夫−−神は心のうめきを聞いておられる−−)

                                                                                                            

2004/05/30 「自分の言葉で」  使徒言行録 2:1〜11  (MP3)   
 聖霊(−−ギリシャ正教では”聖神”−−ケセン語聖書では”息”−−”神様の息吹”がふさわしい−−)
 ペンテコステ(五十日目)
 神の息吹によって語り出した(−−自分自身の言葉で語り出した−−)
 伊沢記念男牧師(−−「絶望からの救い」−−障碍に苦しみ、自殺しようとして線路に横たわった。汽車が来るのを待っていると路傍伝道している人たちの賛美歌が聞こえてきた”--さまよう人々立ち返りて−−”このことによって救われ牧師になった−−)
 水野誠先生(−−奇跡を信じられなかったが伊沢先生に出会って癒やしの奇跡が信じられるようになった−−聖書の表現を使って伊沢先生をみたらこのように書かれるのではないか”絶望して死のうと思って線路の上に寝ていた。そのとき賛美の歌が聞こえた。神はみ言葉を与えて立たしめた。彼は躍り上がってリンゴ箱の上に上がって説教を始めた。”−−これこそ不明瞭であっても自分の言葉で生きた言葉を語り出し、命そのものを示した−−)


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