2003/11/02 「見当違いの判断」 創世記 3:1〜15  (MP3)   
 主題(堕落) 
 ヘンリ・ナウエン(「生きている間、母はごくわずかな人のものでした。しかし、母はこの世を去ることによって全ての人のものになりました。」)
 永眠者記念日礼拝(--礼拝においては常に天上にいる方々も私たちの礼拝に参加しておられるという信仰に基づく--死というのは神様の罰ではなく、イエス・キリストにある時には新しい永遠の命への誕生の時--死が終わりなんだという考えには基づかない--住む所が変わるだけ、だけど存在している--あんなすばらしいいい母なのに、何でそんなに苦しんで死ななきゃならないのだろう?というふうな思いに捉われたのですが、ちょうどそのお母さんの亡くなり方とイエス・キリストの亡くなり方と、彼は重ね合わせたんです--ナウエン神父はこう言われるんです。「私は嘆き痛まなくてはならないのです。そうすれば聖霊がやってきた時に、聖霊をいただく心の用意ができているのではないでしょうか?」--悲しんじゃいけないとか、早く忘れなくちゃいけないじゃなくて、それは思いっきり心のうちに持ってていい、だけど、それがきっと高められて、どこか遠くに行ったのではなくて、今や自分の内に住んでいるんだと思えるようになる--)
 いろんなものを既に召された人の中から受けている(--それが自分の中に生かされている。私のものになっている--) 
ユーモア(--デーケン先生--まだ日本語が上手でない時に、いろんな失敗をされたことを、告白されています--日本の家庭に夕食に招かれたんです--アメリカ人の先輩に相談したんです--すると、こういうふうに教えてくれたんです。ルールは3つだけ、簡単だ、第一はいつもニコニコしていること、第二はときどき頷くこと、第三はたまにそうですね、ということ。この3つを守っていたら間違いないと教えらた--夕食会が終わって帰るときになって、奥さんが「お粗末さまでした」と言った--彼はニコニコして、大きく頷きながら、「そうですね」って答えたんです。そしたら、奥さんがとてもびっくりした顔をしているので、何かとんでもないことを言ったということに気が付いたんです。そして落ち込むわけです。--彼はその後、聖霊の助けのうちに、そうか、自分の失敗をジョークにしてしまおう、だから、同じ外国から来た人で、言葉に困っている人に、自分も最初こうだったんだよ、と話すと、みんなが笑う、誰でもやっているんだ、というふうになる。そして和やかになる。つまり、本当の親しい交わりというのは、失敗を明かしあえる交わり、それが本当の交わりなんです。立派なことを自慢しあうところで、本当の交わりは生まれない。教会の交わりは失敗を互いが笑いあえる、それはしかし、失敗した本人が自分を笑う、それがユーモアということですね。私たちはそういうユーモアへと変えられる。喪失の悲しみをユーモアに変えられる、その霊に導かれているということを感謝したい--)

「分類キーワード(不条理)」

2003/11/09 「神様に選ばれた」 創世記 12:1〜9  (MP3)   
 山浦玄嗣”やまうらはるつぐ”(--「ふるさとのイエス」--マタイ13章52節”取り出す”山浦訳「放り出す」--一切合財蔵から放り出して蔵を空っぽにする--)
 加賀 乙彦”かが おとひこ”(--日本の小説家、精神科医--カトリック信者--洗礼--「突然質問することがなくなったのだ、と、曇っていた空が裂けて一条の日差しが庭をぱっと明るくした。何か透き通った光が心の奥底まで照らし出す感覚があり、心が風に乗って漂い、体も軽くなってふわふわと浮き上がるような気がして喜びが私の心身に満ちた。--知識が飛び去り一気に信仰の世界に入ったのだ。知識にはいつも疑問がつき物である。--信仰の世界には疑問はない。それはイエスキリストを百パーセント信じて、その十字架と復活の生涯に自分を参加させたいという内なる衝動であり喜びであった--おびただしい知識をつんで得られない--知識という疑いを含む心の作用が信仰の障害になる--知識なんかどうでもよくなったのだ--」--)

2003/11/16 「愛と知恵に囲まれて」 出エジプト 2:1〜10  (MP3)   
 主題(救いの約束)
 出エジプト(--後から作られた物語の可能性がある--だから真実ではないとは言えない--聖書は何を伝えたいのかが大事--) 
 モーセ(--偉大な王になる印として一度捨てられる--太閤秀吉の子、”おひろい”の例がある--) 愛の布石(--神様に選ばれている--人生のあらゆる出来事が大事”忌まわしい出来事も、思い出したくない出来事も”神の行き届いた配慮と受け取ることが信仰--)
 アルフォンス・デーケン(--「よく生き、よく笑いよき師と出会う」新教社--最後の講義”一代記”--父からの手紙”一代記”--母からの手紙”一代記”--神様がいかに私を愛してくれたかの記録--妹の死”4歳で白血病で亡くなる”父は死の意味を伝えた--一人の死を扱うことがどんなに大切か--ヒトラーの安楽死法に反対--長崎の二十六聖人”ルドビコ十二の話に感動”--敵を許すことの難しさを体験--)
 話を聞く父(--子どもは一生懸命になって話す--)

2003/11/23 「神様ありがとう」 エレミア 23:1〜6   (MP3)   
 主題(王の職務)
 聖書偶像主義(--聖書はどのような場面で何を目的に語っているかを判断して読まないと聖書の言葉を盲信してしまう--)
 預言者(--神の裁きと救いを語る”どのような状況になっても必ず救いはある”--)
 阪田 寛夫”さかたひろお”(芥川賞受賞--カトリック雑誌「あけぼの」”痴呆症の妻”--どのような信仰かと問われた”自分は礼拝に出ることだと思っていた”--白鷺教会武井牧師がたずねてきたとき痴呆症の妻が「せっかくのお話伺っても覚えられなくなりました」といったのに対し武井牧師は「東北で伝道している牧師の話ですが,教会に通いだし始めたおばあさんが”自分の頭はざるのようで先生のお話聞いても片端から漏れてしまいますから教会行かなくても同じみたいですからやめます”といったので牧師は”ざるで水を込むとこぼれるけども水のそこにざるを漬けておけばいつまでも水をたたえていられるますよ、だから続けて教会に来ているだけでいいんですよ”と言われた」--坂田さんの言葉「私はすぐ忘れてしまう妻に代わって、こっちも穴あきバケツなみの記憶力ながら一所懸命覚えこんで妻が嘆くたびにその話を繰り返します」--)

2003/11/30 「だから、信じて、待て」 イザヤ 52:1〜10   (MP3)   
 (--チコという名前の犬マルチーズ--信仰の先生--善悪の知識を持っていない--チコは、何が良くて、生きているのだろうかなぁ、毎日、同じ物を食べさせられて、どこか、珍しいところへ行くわけでもなし、いつも同じところに居て、何が面白いのだろう。でも、人に会ったら、あんなに喜んでいる。私はそれを見たときに、彼らは、待つということが、生きるということだなぁ、と思うのです--)  
何を待っているか?(--何を待っているのかということが、はっきりしていない人は振り回される--)
 アドベント(--来臨--キリストがおいでになる--)
 終末(--最後の審判だけが強調される--信仰を持っていない人は、地獄に落とされる--間違いだと思います--最後の審判はあるのですけれども、神は、必ず全ての人をお救いになる--完成と発表の日--)
 第二イザヤ(--預言者--「奮い立て、奮い立て、王が必ず来られるぞ、」--左近淑先生(--東京神学大学--「『神を待ち望む』とは現実の事態に<反して>とる態度であり。それによって、現実の暗さと重みとを乗り越える、在り方を指す。」--左近淑「低きに下る神」、ヨルダン社、七七頁--)
 待ち望む(--事態が好転するということを期待しているのではなく、それに向かっていく態度--どんなことがあっても、神が完成してくださるところに向かって生きている。それだけが、究極の望みなのです。そのことを待ち続けるのです。だから、今がどうであっても、まだ立てる。これが、待ち望むという信仰の基本なのです--本来的に信頼の行為である--「まだか、まだか」と待っていることは、自分の期待への依存です--事態がどうであっても、神が究極は、完成されるのだ。だから、そのことを目指して生きていこう。これが信じて、待つという生き方の基本--何を待とうとしているのかということを、このアドベントの期間、振り返ってみたいと思うのです--)

「分類キーワード(不安なとき)」


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