2003/09/07 「多様な従い方」 ルカ 14:2〜16  (MP3)   
栗林 輝夫(くりばやし てるお--日本の神学者、関西学院大学教授--「ブッシュの神と神の国アメリカ」日本基督教教団出版--プロテスタント主流教会の停滞、福音派や原理主義者の伸張という昨今の趨勢の中でアメリカの神は星条旗をまといつつ大統領と宗教右翼にかつがれて国家護持のキリスト教にますます染まっていくのは間違いないようだ--「人間イエスをめぐって」”悪者イエス”--イエスがパリサイ派からも民衆から憎まれたのは「悪人が神の国に入るためには悪人のままでいい」と言い切ったからである--これを聞いた人たちはイエスは神を冒涜するものとして処刑した--神を冒涜するものは殺していいと当時の善良と認識している人たちは判断した--)
 善悪(--はっきり分けることはできない--人間の悲劇は善悪を判断できるようになったから発生する--) 信仰の強弱(--弱い人”条件をつけていないと迷う人”--強い人”条件は必要でないと思っている人”--)
 パウロの主張(--あなた方も互いに相手を受け入れなさい--神様が選んでいる人たちだから良い悪いはない--)
 信じる人は救われ、信じない人は救われない(--前非を悔いた人は救われるそうでない人は救われない”この判断が他者を排除する伝統的な考え方”--ブッシュの言葉に正義の神はでてくるがイエスはでてこない--)
 神様への服従(--神様によって救われた私たちが信じない人を裁く立場にない--)

2003/09/14 「無報酬の報い」 コリント2 11:7〜15  (MP3)   
 パウロが威張っているようです(--正直言って、あんまり感動しません--でも、待てよ、示されたパウロの言葉があります--”わたしのうちにあるキリストの真実にかけて言います”がありました--)
 パウロの弁明(--パウロのことを悪く言う人たちがいた--パウロは、復活のキリストに任命された、と称したのです--パウロが、本来の使徒を批判し、その教えが間違っているなどと主張したのです--十二使徒から悪く思われても不思議ではありません--)
 多種多様な教え(--ユダヤ教とあまり変わらない条件付の福音--)
 永山教会誕生の背景(--創立記念礼拝--創立者--四十三歳で、この地上を去った一人の若い牧師の死が出発点--残された方たちにとっては、どうしていいか分からなくなる真暗な絶望的な出来事--敗戦の混乱期にクリスチャンになった人たち--混乱した日本をキリスト教によって復興したい--「神よ、この敗戦国日本に住む私たちを、お救いください。あなたはどこを向いておられるのですか。この苦しみをどう理解せよと仰せられるのですか」牧師婦人野口京子編著「人生涙多けれど」椋の木社、一九八七年七月三〇日、初版、五九頁--京子さんが、故郷の日野に帰った--ゆりのき保育園を開いた--日曜学校が盛んになり、その奉仕者たちが、自分たちの主日礼拝を守るようになって、永山伝道所が開かれ--一九七四年九月一九日で独立教会として認可された--)
 野口牧師の祈り(--「この牢獄にも等しい私の生も、神の知り給うところ、すべてみ心のままにお導きください。素直に従わせてください」と心静かに祈れるようになりました。そして、次第に心身の傷は癒されて、また新たな「生きぬく力」が与えられたのでした--信仰による「生きぬく力」、それはあくなき闘志を湧きたたせて勝利を得、自我を拡充し、世の支配者となることを指しているのではありません。まったくその反対です。自我を捨て、キリストの内在によって、パウロの言うように 「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きておられるのである」--ガラテヤ二・二〇--この信仰に生きることです--前掲書、五九,六〇頁--)
 「キリストの真実」によって生きている信徒(--全身全霊で礼拝を守っている--どの時代が全盛期、どの時代が衰退期と分けて評価してはならない--教会の主は、ご自分の民の滅亡に等しい「バビロン捕囚」をも生かして、旧約聖書を生み出し、復活の信仰を起こされる方だからです。成功、失敗という価値観で歴史を見てはなりません--神が何をなさったかを見いだすことです--わたしたちの内にあるキリストの真実、それが、この教会を支え、私たち一人一人を支えている事を常に心に留めましょう--)
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2003/09/21 「関係の再創造」 ガラテア 6:14〜18  (MP3)   
 主題(十字架を背負う)
 使徒パウロ(--せっかく自由になったのに律法時代に戻ることに反対した--世の中の常識にはとらわれない--神はすべたの人を受け入れてくださっていることを信じた--)
 大貫 隆(おおぬき たかし--聖書学者--「一神教文明からの問いかけ」講談社版--イスラム教とキリスト教の一神教同士がどうして争うのか--「イエスの今と私たちの今」--”わが神、わが神どうして私をお見捨てになったのですか”信仰の言葉ではなくて問いかけである--イエス自身がわからなかったものである--弟子たちは旧約の実現だと信じた--イエスが伝えようとした神の国は命のことだ。それが十字架を通して明らかにされた--神は細かいところに現れる”小さな群れを大事にしている”--命のかけがいのなさ”一人ひとりの命がみな違う大事さ”--時間”今を生きる。過去に戻ることはできない、未来はまだ来ていない、過去は未来からしか読解できない”--私は言う”イエスの冒頭の言葉、限界を持った私が神様にかけて、自分の責任でものを言う。結果は神にゆだねる。神に変わって審判しない”--) 十字架の福音(--今までのキリスト教が思い込んできたものを根底から問い直す必要がある--原点に戻る--伝統、信条だけに頼らない--もう何も持たなくても大丈夫--)
 関係(--新しく作り変えられる--古いものは過ぎ去った--)

2003/09/28 「キリストが宿る」 ルカ 15:11〜32  (MP3)   
 主題(新しい人間)
 放蕩息子のたとえ(--レンブラント「放蕩息子の帰郷」を見て感動したヘンリ・ナウエン牧師--無限に許す父--レンブラントの絵は右手と左手が異なっている--左”働く人の手”--右”優しい手”--はだしの足”貧困のきわみ”--兄”父の言うことを聞いてまじめに暮らしているが弟を許していない目をしている。喜んでいない。ナウエンは兄、父、律法学者を見てこれは自分であると感じた”--)
 父なる神(--嘆くものとなる--戻ってきたものを喜ぶ--兄はいずれ気づくと信じている--惜しみなく与える--)
 私たちはいつも饗宴に招かれている

レンブラント「放蕩息子の帰郷」


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