2003/08/03 「共に戦う女性」 フィリピ 4:1〜3  (MP3)   
主題(女性の働き)
 エウオデアとスントケ(--出来る者同士で対立していたと思われる--)
 重兼芳子(「癒やしは沈黙の中に」”十字架のイエス修道女会。--障碍を持った人たちの修道女会”--屋根の低い日本家屋のような聖堂建築が出来あがる--建築の力がどこから来たのか不思議に思えた--その力は非力にある--非力であることをそのまま認めて神に預けてしまった人のすがすがしさ、明るさ。周囲の健康な人たちはその明るさに接するとどうしても助けなければと思わされてしまう。人に甘えずに一生懸命に働いている人たちの姿に接するとこちらの方が励まされ、力を与えられ、いま活かされていることの喜びがわいてくる。いつの間にかシスターたちの魅力の虜になり、私は太る体質なのにクッキーを大量に買い込んでしまい、手芸用品にも思わず手が伸びる。私だけでなく修道院を訪ねる一人一人がみんなそうするので非力なシスターたちにも関わらず聖堂は完成した。--人には優しいシスターたちだが神との関係がいかに厚いか、イエスへの友情がいかに深いか、私には想像できる。不自由な肉体にもかかわらず生きる意欲を熱く掻き立てるには神への信頼しかないのであるるシスターたちが人々から好かれるのはうちに燃える火が熱いからだろう。--)

2003/08/24 「人の子よ」 テサロニケ 1 1:11  (MP3)   
 主題「主の来臨に備える」
 備え(--行いを問題にしない--神の声をどう聞いているのかが重要--)
 人の子よ(--イエス様をさす場合と神が人間に語りかけている場合の二通りの使い方がある--神は愛をもって呼びかけている--お前は有限性を持った人間だよ--)
 日野原 重明(ひのはら しげあき 医学博士 財団法人聖路加国際病院名誉院長--「人生の秋を輝くスピリットを持って生きるために」信徒の友--老いを創める--古希を迎えたとき私の年齢にも秋が来たと思った--マルチンブーバーの本”われと汝”を読んだ--神との関係は二人称と一人称しかなく三人称はない--”人は創めることさえ忘れなければいつまでも若い”という言葉に気づかされた--75歳からが新老人--20歳まではしてもらっている人生--75歳から新しく創める--”はっぱのフレディ いのちのたび、レオ・バスカーリア作のベストセラーとなった同名の絵本を舞台化したミュージカル”--死は新しい命への誕生--)
詳しくはこちらをご覧ください。

「分類キーワード(不安なとき)」

2003/08/31 「魂を救う御言葉」 ルカ 13:10〜17  (MP3)   
 山浦玄嗣(--やまうらはるつぐ ケセン語訳聖書による”山上の説教”朗読--聞いた女の人から”いがったよ おら こうして 長年教会さ かよってね イエス様の言葉も さまざま聞き申してきたどもね きょうぐれいイエス様の気持ちがわかったことはながったよ ” 彼女のイエス様は上品でハイカラな近寄りがたい標準語ではなく、虐げられた者の虐げられた。 泥臭く訛ったずーずー弁で、身を低くして彼女に語りかけたのです) 
イエス様が生活した地域は地方訛りのずーずー弁に近かった(--虐げられた地方でもあった--)
 魂を救うことのできる言葉(--御言葉--心に届く神の言葉--自分の心に響く言葉に翻訳する--イエス様ならこのように話されたと自分が納得する--)
 説教(--心に届く神の言葉を伝える--道徳的な講話ではない--)
 晴佐久昌英神父(--人は言葉で救われる。私たちの根源に神の言葉が流れているからだ。私たち自身が神の言葉でできているからだ。天地万物をよしとして祝福している言葉が私たちに聞こえるはずだ。神ご自身が”大丈夫だ”といっているのである。もはや何を恐れよう。--私は言葉を信じる--もはや私は言葉だ--言葉となった私はもはや永遠だ--神の口から出る一つ一つの言葉になる--)
 礼拝(--神との会見の場--神の愛に触れて、よし、大丈夫だぞ今週も生きてゆける--御言葉を聴きに行くという姿勢がいつのまにか受身になっていないか--説教しだいとならないように--)


                                                                                                 ページのトップへ戻る