2003/07/06 「最初の一歩」 使徒言行録 8:26〜38  (MP3)   
 ピリポはさびしい道”荒れ果てたところ”にいって福音を伝えなさいと天使から言われた カンダケの高官で、宦官(--異邦人、傷のある人としてユダヤ教の選民意識から外れた人--エルサレムの礼拝には普通の人と同じようには扱ってもらえない--ピリポからイエスのことを告げられその場で洗礼を受けた--)
 礼拝(--巡礼とも訳せる--必ず意味がある--ピリポと宦官の生活のリズムを創っていたので出会うことができた--)
 晴佐久昌英神父(--「毎日が巡礼」--旅に出よう巡礼の旅に 己の小ささを知り過ちを許しあうために 聖堂にゆき旅の仲間と祭壇を囲もう 自らの弱さに打ちひしがれ 新しい一歩を踏み出す勇気を持てなくても 命のパンを食べて感謝の祭儀を捧げよう みよ みつかいたちの舞い降りる至聖所 光の差し込む大聖堂でずっとひざまずいていたいけど ほんとうは 私自身が神の宿る生ける聖堂 私の人生こそ犠牲と愛を捧げる永遠の祭壇 毎日が巡礼 ここが聖地 )

2003/07/13 「神がそうなさる」 使徒言行録 11:4〜18  (MP3)   
 主題(すべての人に対する教会の働き)
 ヘンリ・ナウエン(--ラルシュ共同体--私たちの神、父であり母である神は比較なさらない、けっして。 しかし、それが真実だと頭では知っていても私の全存在でそれを丸ごと受け入れるのは今もって非常に困難だ--母なる神の愛”どの子も比較しない”--もし、私が神の愛のまなざしを持って世界を見ることができたら、そして、神の見方はよくある地主や家長のようではなく、あるいはどれほどうまく行動したかに応じて子を愛する父のものでもなく、すべてを与え、すべてを許す父の見方であることに気づけば、私の本心からの反応はただただ深い感謝でしかありえない--)
 私たちの世界はあまりにもいろんなものを比較する(--比べてみるということが身にしみている--人と比べられて劣れば落ち込む--聖書に示される神は比較なさらない--放蕩息子の兄の立場--)
 神がそうなさる(--すべての人を救う--自分にこだわっていたことを切り替える--自己矛盾に気づく--礼拝において気づく--)
 放蕩息子のたとえ(--私たちが神を捜し求める前に神はわたしたちを必死で探しておられる--)

「分類キーワード(信仰)」

2003/07/20 「生き返る」 使徒言行録 20:7〜12  (MP3)   
 パウロの奇跡(ペテロの奇跡に対抗している)
 ヘンリ・ナウエン(--母を失う--「母の死と祈り」を出版”キリスト教の業界用語を使用しない”--母の愛を受けて神父になった--母は癌でなくなったとき大変な痛みを伴った。神はなぜこのような苦しみを与えるのか理解できなかった--愛する母を失った痛みから長い間立ち直れなかった--自分は早く母のことを忘れてこの状況から立ち直らなければとあせった--母の痛みと苦しみはイエスの死の苦しみに預かっているのだと信じた--母の苦しみを忘れる必要はないと思った--イエスの弟子たちも十字架上のイエスの苦しみの姿を忘れずペンテコステの日に聖霊を受けたことを思い出した--その聖霊が真理をことごとく悟らせるとのイエスの言葉を思い出した--母が私に何をさせようとするのかは考えなくても良い、ただ任せればよいのだと思った--イエスの死の意味も私のものとなった--母は聖霊となって私を生き返らせるのだイエスの復活のように--死が終わりではない--)

2003/07/27 「見限らない」 ガラテア 6:1〜10  (MP3)   
 山浦玄嗣「ふるさとのイエス」(--今、私たちが読んでいる、この新共同訳聖書は、聖書の本当に言いたいとしているところを表現していないのではないか」、という疑問も持たった--ヨーロッパ的な感覚での翻訳--だから、”日本人になかなかピッタリ来ないのだ”と思われた--ケセン語”山浦先生が命名された言葉でその地方で使われている方言です”--イエスさまもズーズー弁だったのではないか--イエスはズーズー弁でお話になったに違いない。そして、ズーズー弁で話す者の味方をなさったはずだ--それじゃあ、新約聖書をケセン語に訳そう」と思った 今までどうして気がつかなかったのだろう。エリコの盲人がイエスに向かって『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫んでも(ルカ18章39節)、どうしてわたしはそれを変だと思わなかったのだろう。でも。これをケセン語になおそうとしたら、とたんにはっきりと『変だ!』と感じたのだ。これをこのままケセン語になおして、『アブラハムの子』とか『ダビデのお息子さま』などとやったら、気仙衆は何と思うだろう。『新聖書大辞典』によるとアブラハムの生きていた時代は紀元前1700年代のことだ。もしイエスがアブラハムの子なら、彼の年齢は1千7百歳近いということだ。ダビデ王の子なら、1千歳にもなる勘定である--セン語では、「子孫」と訳されまた--祝宴の席上、余興で、山上の説教の一節をケセン語で読みました--小山サクノさんというおばあさんが彼のところへ走り寄って来て、ケセン語で、「良かったよ。何十年も教会に通ってきたけれど、今日ぐらいイエス様の気持ちが分かったことはなかった。」と言いました--自分たちのことばで語られるイエスさまのことばを聞いたとき、何の説明も解説もないのに、彼女はイエスさまの気持ちが本当によくわかったのだった--)
 ケセン語になりにくい“愛”(--「愛する」ということばを「大事にする」と訳すことにした--一番大事なことは、書かれている言葉の表面的な意味にあんまり捕われないで、言わんとしている所を受け止めるということです--キリストの心は、一人一人を本当に大事にしてくださるということではないでしょうか。だから、私たちもそのように大事にする。自分を大事にし、隣人も大事にする。今日の旧約で、ダビデが自分の命をねらっているサウルを大事にしました。それは、神が負うとして大事にすると約束された方だから、ということでサウルを殺しませんでした。私たち一人一人も神様によってとても大事にされています。だから、私たちもできる限り色んな人を大事にしていきましょう。これがキリストの心なのではないでしょうか--) 以上は。」(山浦玄嗣” やまうらはるつぐ”「ふるさとのイエス」、キリスト新聞社、2003年6月30日、第1刷、28、2、32、67頁)からの抜粋です。

「分類キーワード(愛)」


                                                                                                 ページのトップへ戻る