2003/07/27
「見限らない」 ガラテア 6:1〜10
(MP3)
山浦玄嗣「ふるさとのイエス」(--今、私たちが読んでいる、この新共同訳聖書は、聖書の本当に言いたいとしているところを表現していないのではないか」、という疑問も持たった--ヨーロッパ的な感覚での翻訳--だから、”日本人になかなかピッタリ来ないのだ”と思われた--ケセン語”山浦先生が命名された言葉でその地方で使われている方言です”--イエスさまもズーズー弁だったのではないか--イエスはズーズー弁でお話になったに違いない。そして、ズーズー弁で話す者の味方をなさったはずだ--それじゃあ、新約聖書をケセン語に訳そう」と思った 今までどうして気がつかなかったのだろう。エリコの盲人がイエスに向かって『ダビデの子よ、わたしを憐れんでください』と叫んでも(ルカ18章39節)、どうしてわたしはそれを変だと思わなかったのだろう。でも。これをケセン語になおそうとしたら、とたんにはっきりと『変だ!』と感じたのだ。これをこのままケセン語になおして、『アブラハムの子』とか『ダビデのお息子さま』などとやったら、気仙衆は何と思うだろう。『新聖書大辞典』によるとアブラハムの生きていた時代は紀元前1700年代のことだ。もしイエスがアブラハムの子なら、彼の年齢は1千7百歳近いということだ。ダビデ王の子なら、1千歳にもなる勘定である--セン語では、「子孫」と訳されまた--祝宴の席上、余興で、山上の説教の一節をケセン語で読みました--小山サクノさんというおばあさんが彼のところへ走り寄って来て、ケセン語で、「良かったよ。何十年も教会に通ってきたけれど、今日ぐらいイエス様の気持ちが分かったことはなかった。」と言いました--自分たちのことばで語られるイエスさまのことばを聞いたとき、何の説明も解説もないのに、彼女はイエスさまの気持ちが本当によくわかったのだった--)
ケセン語になりにくい“愛”(--「愛する」ということばを「大事にする」と訳すことにした--一番大事なことは、書かれている言葉の表面的な意味にあんまり捕われないで、言わんとしている所を受け止めるということです--キリストの心は、一人一人を本当に大事にしてくださるということではないでしょうか。だから、私たちもそのように大事にする。自分を大事にし、隣人も大事にする。今日の旧約で、ダビデが自分の命をねらっているサウルを大事にしました。それは、神が負うとして大事にすると約束された方だから、ということでサウルを殺しませんでした。私たち一人一人も神様によってとても大事にされています。だから、私たちもできる限り色んな人を大事にしていきましょう。これがキリストの心なのではないでしょうか--) 以上は。」(山浦玄嗣” やまうらはるつぐ”「ふるさとのイエス」、キリスト新聞社、2003年6月30日、第1刷、28、2、32、67頁)からの抜粋です。
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