2003/05/04 「一緒に食べるイエス」 ルカ 24:36〜43  (MP3)   
 河合 隼雄”かわい はやお”と笠原 芳光”かさはら よしみつ”対談(--笠原”別の言い方からすれば「気づく」ということだと思うのです。だから何か知識を獲得して、だんだん知識を増やしていくという面もありますが、ふと気づく、直感的に気づく、そうゆうことは特に宗教的な場合に大事だと思います。”--河合”そうです、だから気づきに大してオープンじゃないといけない。ところが信じるというふうパッといってしまうともう気づかないのです。神を信じて全部救われているわけだから余計なもの入らないわけです。日本は神国なりと思い込んだらもう勝つしかないんだから。ところがひっとしたら負けるんじゃないかということは心が開いていないとだめじゃないか”--笠原”つまり信仰というものはそういう懐疑を排除して信仰一本になってしまう。私はむしろ懐疑が信仰を深くすると思うのです。--)
 疑いが信仰を深くする(--34節--弟子の信仰がぐらついている”信じたといいながらまだ戸惑っている”--)
 矛盾(--創世記も矛盾したことを平気で書いている”そのことを受け入れ矛盾に無頓着”--読者を信じている”すべてのものを神が作られたという”--この矛盾は信仰にとって大事なもの.”矛盾がそのまま矛盾としてある”--矛盾なしとすると何も見えなくなる”気づかなくなる”--愛さなければいけないと思いながらでも愛せない--)
 教会が社会から浮いてしまっている(--信者”謹厳な人たちだけがいるところ”だけがいるところと世間は受け止めて、自分には関係がないと受け止めている--不純な動機でくることはいけないといっている--) 一緒に食べられたイエス(--食べているうちに気づく”実在に気づく”--)
 椎名 麟三”しいな りんぞう”(--聖書がよくわからない--矛盾”キリストの復活”は深まる一方だった--生き返ったという言い方はよくない”十字架上の死は本当でない”--矛盾の向こうに真の光が見えた--矛盾こそキリスト教の生命--私の見たものを私から取り去ることはできない”矛盾の壁を越える”--)
 死ぬことが終わりではない 

2003/05/11 「命の根源」 ヨハネ 6:34〜40  (MP3)   
 主題(--命のパン--イエスは”私が命のパンである”といった--)
「世界がもし百人の村だったら」マガジンハウス(--二十人は栄養が十分でなく、一人は死にそうなほどです。でも、十五人は太りすぎです”日本にも当てはまりそうです”--)
 飢え(--聖書の時代にも存在していた--)
 心の乾き(--あるホスピス病院の医者の話--人間には必ず命の終焉が訪れるが命は無限のような気がする。その死に際し三つの和解ができていない人は大変な苦しみの表情のなか死んでいく。もしも和解の必要があると思うなら、もしも苦しみたくないなら今から和解の準備をしておきなさい。それは自分自身のためだけでなく次の世代のために。三つの和解とは第一に自分との和解、第二は家族を含む大切な人との和解。そして第三が神との和解です。人の死は単に肉体なことではなく、社会的、宗教的、霊的で膳人格的な出来事なのです。霊的痛みは身体的痛みの何十倍も激しいように見えます。--)
 神との和解(--神とご自身”イエス”の和解が十字架上でなされた--自分との和解も可能になり人との和解も可能になる--)
 聖餐式(--繰り返される洗礼式--)

「分類キーワード(不安なとき)」

2003/05/25 「神の言葉を信じる」 ルカ 7:1〜10  (MP3)   
 晴佐久昌英神父(--人は言葉で救われる。僕はそう信じている。この場合の言葉とは単に何かを伝えるための言語ではなく人を人たらしめている根源に流れている言葉、いうならば神の言葉のことだ。その言葉で人は人になった。その言葉で人は生きてゆくことができる。だから、その言葉でこそ人はあらゆる闇から救われる。当然のことだろう。後はわれわれがその言葉を聞くことができる。聴いたその言葉を互いに語り合うことができるかである。--言葉は今も創造のわざを続けている。言葉はさらに人を人たらしめようとしている。言葉は生まれたがっている。詩とはこの神の言葉への奉仕である。詩が散文と違うのは散文が言葉を道具としているのにたいし、詩が言葉の道具になっているという点にほかならない。--散文が言葉を道具としている以上、そこにある種の暴力性が潜むのは当然のことだ。自分の言いたいことを必死に相手に伝えようとしているとき、実は人は相手を支配しようとしているのである。支配されまいとして相手も必死に言葉をひねり出す。言葉と言葉のぶつかり合い、捻じ曲がり、押しつぶされて自然発火する。詩はそんな権力闘争と無縁だ。むしろ詩は散文で傷ついた心を癒し、散文に縛られた魂を開放しようとしている。詩は本来の言葉のもつ命で人を包み、目覚めさせ、新たに生まれさせようとしている。そのような意味ではイエスの言葉はすべて詩である。--イエスの語った例え話も傷つき打ち捨てられた人への慰めと励ましも、点の父への賛美の祈りもすべて詩であったといえる。それを散文として読む人は決してイエスに出会うことはない。イエス自身が神の言葉であったという信仰を理解することもできない。--私も言葉によって生まれた”生きよと”--言葉を信じる私はもはや言葉だ--言葉となった私はもはや永遠だ--私は今神の口から出る一つ一つの言葉になる--)
 百人隊長の信仰(--長老からの信望も厚く神を信じるようになった人--「おいでにならなくてもよいです。ただお言葉だけをください」”イエス自身が命を作り出した神の言葉、ロゴスであることを受け止めていた。人を生かすものが何なのかを受け止めていた”--)
 神の言葉を信じる(--信仰の大事なポイント--礼拝はそれを確認するときである--)


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