2003/05/25
「神の言葉を信じる」 ルカ 7:1〜10
(MP3)
晴佐久昌英神父(--人は言葉で救われる。僕はそう信じている。この場合の言葉とは単に何かを伝えるための言語ではなく人を人たらしめている根源に流れている言葉、いうならば神の言葉のことだ。その言葉で人は人になった。その言葉で人は生きてゆくことができる。だから、その言葉でこそ人はあらゆる闇から救われる。当然のことだろう。後はわれわれがその言葉を聞くことができる。聴いたその言葉を互いに語り合うことができるかである。--言葉は今も創造のわざを続けている。言葉はさらに人を人たらしめようとしている。言葉は生まれたがっている。詩とはこの神の言葉への奉仕である。詩が散文と違うのは散文が言葉を道具としているのにたいし、詩が言葉の道具になっているという点にほかならない。--散文が言葉を道具としている以上、そこにある種の暴力性が潜むのは当然のことだ。自分の言いたいことを必死に相手に伝えようとしているとき、実は人は相手を支配しようとしているのである。支配されまいとして相手も必死に言葉をひねり出す。言葉と言葉のぶつかり合い、捻じ曲がり、押しつぶされて自然発火する。詩はそんな権力闘争と無縁だ。むしろ詩は散文で傷ついた心を癒し、散文に縛られた魂を開放しようとしている。詩は本来の言葉のもつ命で人を包み、目覚めさせ、新たに生まれさせようとしている。そのような意味ではイエスの言葉はすべて詩である。--イエスの語った例え話も傷つき打ち捨てられた人への慰めと励ましも、点の父への賛美の祈りもすべて詩であったといえる。それを散文として読む人は決してイエスに出会うことはない。イエス自身が神の言葉であったという信仰を理解することもできない。--私も言葉によって生まれた”生きよと”--言葉を信じる私はもはや言葉だ--言葉となった私はもはや永遠だ--私は今神の口から出る一つ一つの言葉になる--)
百人隊長の信仰(--長老からの信望も厚く神を信じるようになった人--「おいでにならなくてもよいです。ただお言葉だけをください」”イエス自身が命を作り出した神の言葉、ロゴスであることを受け止めていた。人を生かすものが何なのかを受け止めていた”--)
神の言葉を信じる(--信仰の大事なポイント--礼拝はそれを確認するときである--)