H.ゴルビッツァー(「ヒットラー政権下の教会においてなされた公開説教」--教会の弱さ、惨めさ、無力さ、教会の復活の福音に対する不信は彼らが死人の中に生きた方をたずねたということから生じているのです-- 福音書のなかで、弟子たちがイエスを理解しなかったとしばしば言われているのですが、それは、弟子たちがイエスの思想の飛躍について行かなかったということを意味するのではありません。そうではなくて、彼らが理解できなかったのは、彼らがイエスを結局は、やはり死人のうちにたずねたこと、すなわち、イエスが、以前にガリラヤで彼の生涯の最初の頃に、いっさいのことが起ころうとするとき、あらゆることが死の世界のただなかにあって、神の偉大な勝利に終わろうとしているということを、あらかじめ弟子たちに語っていたにもかかわらず、イエスを死の世界に属する者とみなしていたということ、そのことによるのです。彼らの無理解は、彼らが神をなるほど理論的には、この世の主としてはいましたが、しかし実際には、次のように考えていたという点にあったのです。すなわち、神はただご自分の天国においてのみ本当の主であり、ここ地上においては、そこに出現するすべてのものは、このイエスさえも結局は死んでしまうということです。彼らが、このことを信じたからこそ、彼らは純粋に観念的な信仰にとどまったのです。--それで彼らは、この世においては神が無力であると言う信仰を持つのです。弟子たちがこの世につく信仰を持つかぎり、彼らはこの世にとって危険でもなかったし、また助けにもなりませんでした。--弟子たち”「死んだら終わり」という「常識」から抜け出せていなかった、つまり「墓から死を見ていた」のです--イエスを慕っていた婦人たち”マグダラのマリア、ヨハナ”ヘロデの家令クザの妻、ヤコブの母マリア、一緒にいた他の婦人たち”--やり残した遺体に香料を塗る作業をしに墓に行きました--遺体が見当たらなかった--天使の言葉を聞く”生きておられる方を死者の中に捜すのか”--これを聞いた婦人たち--ただちに生きた方という言葉でだれが意味されているかを知った--神の生命の臨在として認めました--同時に改めてこの二,三日の苦しみがよみがえってきました。彼らが全く生きた方として認めていたそのかたが彼らの目の前で息絶え、彼らの目の前でうちひしがれた死体となって墓のなかに葬られたという恐ろしい矛盾の苦しみがよみがえってきました--あなたがたの人間的可能性でもって判断--死んで横たわっているので、その使命は終り、神はそれで満足しておられるかのように考えるほどに、あなたがたは、神の力を信ずること少なく、死の力に対して恐ろしいくらい敬意を払うのですか。いったいなぜ、神のキリストがこのような矛盾のなかへおもむいたのでしょうか。どうして、決して死ぬことのできないかたが真に恐るべき死を死ぬというようなことが起こったのでしょうか。--それは今や生きた方が死人のなかにいるということではなくて、神の生命が死に対しても勝利を得るということが、あなたがたに告げられうるためなのです。「イエスの死と復活」、新教出版社、一九八六年七月二五日、初版、一四六頁、一四六、一四七頁、一四八?一五〇頁、一五一頁)
健康産業ブーム(--健康にいいという情報で溢れています--みんな死を恐れている証拠です--死は必ず訪れます--”死んだらおしまい”という価値観に支配されたままです--)
イースター(--死は、神に破れた、死んだらおしまいではない--)
安炳茂”アン・ピョンム”牧師(--イエスの復活の重大な意味のもう一つの側面--”イエスは、不義なる者の手にかかって死んだ。彼は、われわれを代表して死んだといわれるが、果たしてどのようなわれわれを代表してであろうか。これまでわれわれは、単純にわれらの罪の身代わりとなったという所に力点を置いてきた。それはそれでよいとしても、しかし、われわれに最も重要なもう一つの事実を忘れていたのではないだろうか。それは、イエスが不義なる者の手にかかって死ぬことによって、まさに彼らの手にかかって死んでいった多くの死の身代わりとなったのであり、また、その死と戦って勝利をおさめたということである。イエスの復活とは、不義なる者らによってもたらされた無念、敗北、辱しめ、苦しみの中で死んでいった彼らをよみがえらせた、最初の結実なのである。彼の復活は、死の権勢を打ち砕いた。これは、死を最後の武器として振りまわして来た権力者たちの脅威とその死の恐怖から、人間を解放したということである。彼の死が、不義なる者らの手による死であるように、彼の復活も、まさに不義なる者に踏みにじられて死んだ人々を解放した事件であった”--今日のキリスト者が強いからではなく、不法者の手にかかって死んだキリストを、神がよみがえらせたことを信じるからであり、その復活のキリストこそが、不義と戦った彼らの中に現存するということを信じるからである--新教新書218、安炳茂「現存する神」、八四、八五頁、八六頁--) 永遠のいのちの確信(金纓”キム・ヨン”牧師--子どもたちが親の手を離れたのを機会に、八ヶ月の南米放浪の旅をされました--右の胸にしこりを感じます--調べてもらったところ、かなり進行している乳がんであることが分かりました--けれども、旅の途中だったので、手術だけして、旅を続けられました。そのような纓さんに、「どうして何もせずに平気ですか」と聞く人が多いそうです。纓さん自身は、こう言っています--「私だって、まったく不安がないわけではなかったが、いつ死んでも悔いがないくらい、やるべきこと、やりたいことをその都度やってきた満足感があったからかもしれない--いのちは神さまのみ手にあるから、いちばんいいときに、いちばんいい方法で、私の地上でのいのちを終わらせてくださるとの確信があった。それまでは自分で納得する生き方をしたいと心を決めたのである。--死を恐れるのは、死ぬとおしまいだと考えるからだろうか。たしかに、この地上では家族や友人たちに会えないし、やりたいこともすべて諦めなければならない。しかし、キリスト教の信仰をもって生きるということは、死が最後の答えでなく、復活したイエス・キリストによって、新しいいのち、永遠のいのちが与えられているという約束を信じることではないだろうか--永遠のいのちとは、私の短い、小さいいのちでは測ることのできない、永劫のいのち、宇宙のいのち、神さまのいのちのことである。イエスの生と死、復活を通して、そのいのちへ至る道を私たちに示されたのである。--「信徒の友」、四月号、一七、一八頁--)
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