主題(奇跡を行うキリスト)
「神の国について語り」(--”福音を伝え”と書かれているのではありません。ルカは”神の国はイエス様とイエス様に従う弟子たちの居るところに現れる”ということを主張したいようです--)
使徒たちは帰ってきて、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた(--ある人はうまくいき、ある人はうまくいかなかったかもしれません。色々な事がありながら、イエス様の所に帰ってきました--その後に共食”聖餐式の象徴”の奇跡が起こりました--)
五千人の人の共食(--これは女性、子供を含まない大人の男性だけの数です--四つの福音書に書かれています--この奇跡において、”神の国が現される”と受け止めたからではなでしょうか--このようなことが、科学的に可能かどうかを詮索するのは意味がないと思います--)
「パン五つと魚二匹しかない」(--その、”しかない”ものをイエス様にそっくりお預けしたことだと思います--) 十二という数字(--弟子たちの数です。十二というのは、全世界を意味しています。イエス様が十二人の弟子をお集めになったのは、全世界に対して神の国を述べ伝えることを意味しています。そして、弟子たちの数ほど籠に余り、祝福されたというわけです--)
森内俊雄(「福音書を読む」−イエスの生涯―、日本基督教団出版局、2001年5月21日、初版、78,79,80,81頁--イエスがなされたことは乏しきなかにあって、いやがうえにも乏しきものを感謝とともに神にささげられたことである。この奇跡物語で大事なことは、この一点にかかっている--どのような捧げ物であっても、神の目に小さすぎるというものはない。乏しくて小さすぎて、神が用いられないなどという捧げ物はないという教えがこめられている--あるとき、階段から転落、左手首を複雑骨折--神父から「痛いですか?」と声をかけられた--「痛いです。」と言いました。すると、神父が 「どうか、その痛みを世のもっと痛める人々のために捧げてください」おっしゃった--私の肉体の痛みはあくまでも自分ひとりのものであって、ただひたすらこれに耐えていくしかない、と思っていた。痛みを覚えるのは、治癒に向かっている証拠なのだから、耐えていればよいとだけしか考えていなかった。しかしながら、この世には私よりもっとつらく絶望的な痛みにわが身をさらしている人もいるのである。痛みすら覚えない、極限の痛みもあるのである。私は神父の言葉に衝撃を受けたが、だからといって、それで痛みが消えて無くなってしまったわけではない。だが、痛みの意味が変わってしまった。この自分のささやかな痛みが、誰か知らない、罪なき人の痛みの幾分かの助けになるのならば、この痛みを真摯に捧げようと決心した--)
より少ない物でも、それを神に捧げる(--そこに、計算できない素晴らしい奇跡が起こります--)
森内さんの話のような痛み(--それを捧げるということによって、他の人々が潤うという、これが神の国なのです--)
神の国(--イエス様に従って、捧げる者がいるところ--)
聖餐(--私たちの「しか、ないもの」をそのままに主に委ねる決心をして、お任せします、という歩みのしるしとして、聖餐に預かりたいと願います。そして、私たちも同じように満腹したいと願います--)
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