2003/01/12
「低みからの出発」 ルカ 3:15〜22
(MP3)
三浦綾子(--「イエスキリストの生涯」--ところで私は長い間イエスの洗礼に納得がいかなかった。なんとしても不可解であった。私が洗礼を受け涙を流したのはおのが罪の故であった。しかし、神の子にイエスには罪のあろうはずがない。そのイエスがヨルダン川でバプテスマのヨハネから洗礼を受ける。これを一体どう理解したらいいのだろう。イエスに罪があったと解釈する人もあるかもしれない。なぜなら、洗礼は罪の許しを受けるしるしなのだから。が、イエスが宣言されている通りイエスに罪があるはずがない。さて、あるとき三浦はこう言った。キリストの受洗は十字架の一端かもしれない。私ははっと目からうろこが落ちたような気がした。罪なきキリストが十字架に架かったのであれば罪なきキリストが洗礼を受けても不思議はない。そこには私たち人間の計り知れざる神の計らいがあるのであろう。ゆはり、十字架に鍵があるのだと思う。--)
本田哲郎神父(--洗礼"沈めの式"バプテスマは水面下に全身を沈めて低みから見直される民間儀式であり、穢れを洗い流すというようないわゆる浄、不浄の問題とは関係ないことでした。--)
さだまさし(--「風に立つライオン」--アフリカに行っている日本人の医師柴田紘一郎が巡回医療に従事している。--手紙"この偉大な自然の中で病と向かい合えば神様について、人について考えるものですね。やはり僕たちの国は残念だけれどなにか大切なところで道を間違えたようですね。--診療所に集まる人は病気だけれど少なくとも心は僕よりも健康なのですよ。僕はやはり来てよかったと思っています。つらくないといえばうそになるけれど幸せです。あなたや日本を捨てたわけではなく僕は現在を生きることに思い上がりたくないのです。"--もしも彼が言うように人が助けるのでなく神が助けるというなら、もしかすると彼は天使なのではないかと思うことがある。--命の尊厳と常に対峙しているからからこそ神の領域に挑む不遜さを知っている。--)