2002/10/06 「世界平和の礎」 コリント1 11:27〜34  (MP3)   
 奥田和子先生(「なぜ食べるのか」甲南女子大学の人間科学部人間環境学科教授”副題「聖書と食物」”--聖書学者たちでは決して書けない--食物について目を開かされる--聖書に出てくるあらゆる食物がどんなものであったかを考証-- 「今日、食べ物は、美容や健康といった肉体を守るための栄養源として脚光を浴びている。しかし、聖書は肉体ではなく、心を支える栄養源として食べ物を位置づけている--パンとぶどう酒は、イエスの最後の晩餐にちなんで、神聖な契約を再確認する教会での儀式の象徴として用いられる”奥田和子「なぜ食べるのか」、日本基督教団出版局、2002年5月20日、初版33頁”)
 ふさわしくない(--「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。」--洗礼を受けてない人が聖餐に与かってはいけない、と解釈される根拠として使われた箇所です--しかし、パウロはそういうことを一つも言ってはいません--当時のコリントの教会では、何時間もかけて聖餐式をしたようです。聖餐を含む長い食事が行われていました。そして、コリントの教会の中の裕福な人たちの中には、インテリが多くて、そして異言を語ったり、ある意味の霊的な熱狂に陥って、感激のあまり、聖餐式も昼間から守っていたようです。ところが、貧しい人たちは、夕方まで働いて、それからやって来るわけですから、そのときには、食べたり、飲んだりするものが、もう無い、という状態でした。この状況を聞いたパウロが、豊かな人たちを叱ったのがこの箇所なのです--皮肉に聞こえることを言っている--「空腹の人は、家で食事をすませなさい。裁かれるために集まる、というようなことにならないために。」34節--これまでの教会では、見当違いの理解をしていたことになります。これが、聖なるキリストの体だ、ということをわきまえずに食べたら裁きをうけるのですが、パウロが、ここで、主の体のことをわきまえるということは、主が何のために、体を裂き、十字架に死なれたのか、をわきまえないで食べる、ということを意味しているのです--)
 ルドルフ・ボーレン(--キリストが死なれた意味--「キリストの臨在を告げる言葉」、日本基督教団出版局、1995年6月25日、初版116頁117頁--「私たちは、聖餐を腹一杯食べる食事とうものから解き放ちます。しかし、そうすることで、キリストの体を、その特別な意味におけるキリストの体をも分離してしまっているのではないでしょうか。私たちは主を、十字架につけられた体を与えられることによって、私たちが一つの『体』になっているのだということ、新しい種族になっているのだということ、新しい神の家族に属するものになっているのだということを承認しているでしょうか。」--「私たちは決して、コリントの人たちよりもよいやり方で、聖餐を行っているわけではありません。私たちは、聖餐を真剣に挙行すればするほど、誰もが実に、コリントの人たちのように、自分自身にのみ目を向けてしまうものです!誰もが、自分自身のためにのみ、それを受けるのです!」--)自分を吟味して、自分をよく確かめた上で(--自分に信仰があるか、どうかを確かめる、ということではなくて、イエスが十字架につけられた意味をしっかり受け止めているか、そして、聖餐に与かるといいうことは、イエスの十字架と復活そのものに、しっかり向き合うと言うことなのだ--)
 モルトマン博士(「新しいライフスタイル」、新教新書129頁--「聖餐の食卓への招待は、わたしたちのためにご自身を犠牲にされ、死なれたキリストの招きの求めです。貧しき者、罪人たちを神の国の食卓に招くのは、十字架につけられたキリストご自身です。それゆえ、キリストの招きのみ手は、十字架において伸ばされたみ腕のように、食卓を越えて、はるかに遠く、拡げられています。主のみ名による聖餐の交わりへの招きは、世界に開かれ、誰をも締め出すことなく、全ての人を包んでいます。」--)
 弱い立場の人に目を向けて(--自分の信仰を高めるためにのみ、いい気分になっている。結果的には、同じ教会でありながら、貧しい人が参加できないでいる。それで、「自分達は恵まれた、恵まれた」と言っている人々に対して、パウロは、「そんなに食べたければ、家で食べてから来なさい」と皮肉をこめて言っているのです。それは、あらゆる人と一緒に聖餐にあずかれ、ということを意味しています。だから、私たちもこの聖餐にあずかる、という時に、ただ自分の罪が、清められたということのみでなくて、何故キリストが私をお招きなっているのか。キリストがなぜ、十字架に死なれたのか、ということをしっかりわきまえる。そのことが、自分をよく確かめることになります--)
 世界平和の礎(--イエスキリストの十字架と復活が、世界平和の礎なのです、これなしに、本当の平和はありえません。残念ながら、キリスト教国といわれるアメリカが、先頭に立って、どうしても戦争をしたがっている、としか見えない、言動をとっています。このことに対して、私たちは、とても憂慮しています。しかし、同じキリスト者として、そのことを正さなければなりません--特に、戦争においては、お年寄りや子どもたち、病人、障害者といった弱い立場の人たちが一層苦しめられています。それは、キリストが望んでおられることでしょうか?このことを、しっかり訴えなければならないと思います--自分の清めのことだけではなくて、私がキリストに招かれた意味、それは弱い人たちに仕えるために、キリストが「私の体を食べなさい、頼んだぞ、とおっしゃっている、そのみ旨を受け止める--)詳しくはこちら 。

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2002/10/13 「決断の動機」 マルコ 14:66〜72  (MP3)   
 主題「信仰による生涯」
 日野原重明先生(「九十一才私の証し・あるがまま行く」朝日新聞BE版コラム"人「には、評価の対象となる面が二面あります。第一には、何を持っているかということhaving」--「外なるものを持っている自己を、めいめいが心に描いて下さいこれに対して--、第二は、どういう人間であるか、ということです。すなわちビーイング( being)です。これも、心に描くことができますか。 このハビングとビーイングのいずれが真の自分でしょうか。心理学者のフロムが『生きるということ』の中で、「所有を渇望してはならない」と語っていることに一致するはずです。」--死んだときに持って行けない。死んでいくときに、悔いを残さないあり方を目指してゆけ--「私たちは宇宙から投げられた「私」というボールを、人生の終わりに、どこに向けて投げ返すべきなのでしょうか--ボールは「土の器」でもあるのです--器にどのような水を入れるのか。その土の器にひびが入ったり、欠けたりすると、中に入れられた水はこぼれて大地に吸い込まれます。しかし、この水はやがては植物の根から吸収され、植物に命を与えるでしょう。そのような水を入れる器として、私の人生を終わらせることができれば、と希(ねが)うのです。」--)
 信仰によって(--信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです--私たちの今していることが、どんな意味があるのか、なかなか分かりません--大事な事を直視しないで、逃げ回る、という人生かも知れないし、ただ、惰性で生きている、ということかも知れない。だけど、大事なことは、そこに神の目が注がれているということを信じる、ということなのです--神様が私に何をしようとしておられるのか、この事を通して、神様は、私に何を語ろうとしておられるのか、そこに帰っていくことなのです--) 神が見つめておられる(--「泣いている自分」を神は赦し、目を離さないでおられる--)
 キリスト者にとって呪わしい過去は無くなるのです(--そのような過去があるからこそ、今日があるのです。すべてが神の手の内にあるのです。それが「信仰によって」ということなのです。わたしたちの在るがままを、神様がご存知です。なぜならば、そのように神様がお造りになったのですから。意気地が無い、とか、長続きしない、とかいうことも神様全部ご存知でありながら、よーし、ちゃんと受け止めているぞ、とおっしゃっている。そこに、いつも立ち返っていって、「ありがとうございます、また、やり直します」と希望を持ち続けて生きていくことではないでしょうか--)
 詳しくはこちら 

「分類キーワード(信仰)」

2002/10/20 「刻印は捺された」 ヨハネ黙示録 7:2〜4、7:9〜12  (MP3)   
 黙示録(--オラトリオ--ミュージカル演劇鑑賞の感じ--迫害に苦しむ信者へ送るメッセージ--)  
 刻印(--刻印を押された者の数--12部族は完全数を表し全世界の人を表す"誰にも数えられない無限大の数"--)  
 終末(--恐怖と破滅の時ではない、完成と発表の時--)
 自由(--もう救われているのだと信じることから生まれる--)
 神の国(--讃美"不安を克服する"に満ちた永遠の礼拝の場所--)
 地上での礼拝(--天国を先取りしている--)  恐怖の時の平安(--神に祈ることをやめただひたすら神に讃美を捧げる--)


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