2001/12/02 「二十一世紀の方舟として」 創世記 9:8〜11  (MP3)   
永山教会献堂式 永山教会設計者(田淵 諭) 安藤忠雄(建築設計者の著書より--日本人は建物にこだわりすぎる--入れ物の中でどのよに過ごすか?住まい方は案外問題にされていない--建ててしまうと建物の命が終わってしまう--) 今日が大事な大事な出発点(--よーしこれから--神の御心がなされる建物--) 会堂建築の目的(--世界のすべての人と自然の癒しの方舟--一時的な避難”礼拝”の場所--避難場所から出て”派遣される”からの働き”癒しの働き”が大事--) ノアの方舟(--口語訳の旧約聖書より 創世記9:11 --わたしがあなたたちと契約を立てたならば、二度と洪水によって肉なるものがことごとく滅ぼされることはなく、洪水が起こって地を滅ぼすことも決してない。--あなたたちとは”人類すべて”である--) 癒しの働き”私たちの使命”(--断絶した関係を回復する--人を癒し、自然を癒す--) 礼拝(--他の人との比較ではないく私たちのこの一週間はどのようだったのかを顧みる--) 特別の伝道集会は必要ない(--教会の礼拝が生き生きしていれば人は自然に集まってくる--私たちが神様からの委託に対してどのように伝えていくかから出発する--)

2001/12/09 「主の怒りを聞け」 エレミヤ書 36:1〜10  (MP3)   
アーネスト ゴードン(--「クワイ河収容所」 (ちくま学芸文庫)--ミャンマーの日本軍強制収容所で日本軍人が英国捕虜に質問した--” それなら尋ねるが神はどうして沈黙したままなのだ。天国とかありもしないとこにいて大きな白い雲の玉座に鎮座ましましているだけで何もしないんだ。”ダステーはしばらく考えていた。それからこう言った”きっと何か、今もきっと何かなさっているんです。人間はそれを受け入れなければならない”) 預言者エレミヤ(--悲劇の預言者”悲劇の中にありながら希望を伝えた”--イスラエルが捕囚の時代を迎える前後の預言者--”神の裁きが近づいている。悔い改めて”--王を始め誰も聞かなかった--主戦派に降伏を勧めたが拒否され命まで狙われた--) 預言者が二人いた場合(--自分に都合のいいことを言ってくれる方を選んでしまう--) エレミヤの主張(--神はお怒りになるだけでなく後の事も用意してくださっている--) 苦難と混沌の中に生きる者の信仰(--神様はきっと何か、今もきっと何かなさっているんです--イエスキリストが十字架上で叫んだ言葉”わが神、わが神どうして私をお見捨てになったのですか”このような状況の中でも”わが神、わが神”と呼び続けた。今も何かをしておられると信じて呼びかけた--今は苦しいが必ず助けてくださることを信じる”死は結果ではない”--) 金大中事件(”キムデジュン”きんだいちゅう--大韓民国(韓国)の政治家で、のちに大統領となる金大中が、韓国中央情報部(KCIA)により日本の東京都千代田区のホテルグランドパレス2212号室から拉致されて、ソウルで軟禁状態に置かれた”死の危険もあった”--この後解放され自力で自宅に戻った。直後に自宅で記者会見を行った際、日本人記者団に対して解放された直後の心境を、「暗闇の中でも尚明日の日の出を信じ 地獄の中でも尚神の存在を疑わない」と日本語でメモに記した。--1983年1月1日の新聞に発表した手記より--私が生きてきたこの九年五か月を回顧するときランゲンの運命の数奇さというものが改めて実感されます。拉致、監禁、死刑宣告、監獄生活など人間実存の限界状況の中で翻弄されて来たわたし。しかし人間の知恵を超越する運命の主催者の御手は私を物理的に支配していた人たちの計画を顔色なからしめた。死と苦難の時においてもいつも私と一緒におられ、私を精神的、身体的ともに激励、救援されたイエスキリストが皆さんに特別な祝福をくださるよう祈っています。キリストは私たちキリストを信じる者の為ばかりではなく全人類のためにこの世に来られました。--)

2001/12/16 「よい知らせが来る」 イザヤ書 40:1〜11  (MP3)   
!途中でBGMとしてジョンレノンのイマジンが流れます。! アドベント(--降臨--神が人となっておいでになった--最初の降臨--セカンドアドベントを目指して再びおいでになるキリストを迎える準備の期間--) セカンドアドベント(--世の終わりの時”神の国の完成の時”に再びおいでになる--) イザヤ書(--第一イザヤから第三イザヤの三部作で構成される--) 第二イザヤ(--ペルシャによる解放が近いころ”不安と焦燥の時代”--神様から捨てられたと思い始めた--”なぐさめよ、なぐさめよあなたたちの神は言われる。捕囚の終わりが近づいた”--人格的神との関係は続いているよ) なぐさめよ(--神様は私たちを恋人を口説くときの話しかけで語っている”心に語りかける”--) 荒れ地に広い道を通せ(--王が凱旋から帰ってくる時の備え--) 歴史を未来”終わり”から見る(--預言者は今起こっている現象を未来から見ている--) ジョンレノン(--イマジン--差別のない世界”現実の教会を批判”--聖書の発想--) 黒田 三郎(くろだ さぶろう--詩人--「紙風船」--落ちてきたら、こんどはもっとたかく、もっともっとたかく、なんどでもうちあげよう、うつくしいねがいごとのように--) 私たちはぺしゃんこになって、落ちかかってもそこでもっともっと高く打ち上げようとしてくださって方のメッセージをくみ取っていきたい--)

2001/12/23 「八方づまりの只中で」 ルカ 1:39〜56  (MP3)   
アルホンストダス(--インド--マリヤへの告知--暗い表情のマリア”戸惑いと不安の中の告知”--) 結婚前の受胎(--姦淫と見做され、ユダヤの律法では石で打ち殺せとなっていた--) ヨセフ(--裏方に徹した人--当時周りの人たちは聖霊による受胎を懐疑の目で見ていた--ヨセフはマリヤと同じ信仰の上に立った--) マリア(--エサベトにあった--エリサベトはこどもをうめない女”何か罪深いことがある”とみなされていた。でも年老いて身籠った”ヨハネである”--状況が八方づまりの中で喜んだ--状況が変わっていないのに喜んだ”目の前に何かが現れて信じるのではなく、現れていないけれども主がおっしゃったことは必ず実現すると信じる”--) 詩編二十三篇(--主は我が牧者なり--ダビデが一番惨めだったころに歌った歌--) 小塩節(--エッセー「朝の光のさすときに」--詩編23篇--そうなのだ今、詩人の目の前に緑の野も、憩いのみぎわもない、石ころだけが転がる死の谷にさまよっているのだ。それだけではない仇である敵の大群が来襲しようとしているのに食料もなく、水もなく、あげるしゅはいもないといった現状である。おそらくこの詩の作者ダビデは実子アブサロムに王座を追われ、かつて”山々に向かいてわれ目をあぐ”と故人が歌ったあの荒涼とした谷間に追い込まれ。絶望的な目で陰惨な裸の赤茶けた山を見上げながら敵襲の前夜に、葦笛に合わせて歌ったのであろう。--敗残の兵は疲れ、食わせる糧秣ももうない。砂漠に飲む水もない。思えば自分の人生には神の前に目を上げることもかなわぬ汚点がいくつも、いくつもある。その総決算が実子の反乱ではないかなんという無残な人生であろう。そしてなんという慰めのない死の影の谷間であることだろう。この人生は。ダビデが自分の人生のありのままの姿を死の影の谷だと初めて認め、己の罪に座す姿を見つめてそのままを神に見ていただこうとしたときそのとき神は彼と共におられ。今までになかったことだ。インマヌエル”神ともにいます”その事実が彼の目の前の暗黒の死の砂漠を緑の牧場に変貌させた。慰めと憩と光が彼を満たした。なぜなら彼の住む家は至上の王宮ではなく、国籍のしるされている天の家だと分かったからだ--) 山々に向かいてわれ目をあぐ(--讃美歌の歌詞では日本的な感覚”山と人とが一体感を持つ”で山をとらえているがではなく詩編の山は人を寄せ付けない、人と決定的な断絶があるものとして描かれている。このような山”断絶と絶望”に追い込まれている--このような状況の中でダビデが歌っている--) われ乏しきことあらじ”状況が良くなって神様ありがとうではなく、この徹底的に不利な言い訳のきかない顔をあげられない状況の中で全部神がご存じていて、神がともにいるという約束をいただいたている。というのがクリスマス”(--マリヤとエリサベトの賛歌の意味であろう--)

「分類キーワード(不安なとき)」

2001/12/24 「クリスマスは誰のもの」 ルカ 2:1〜21  (MP3)   
 暗い中で光を見るとき(--希望、慰めを得、美しさを感じる--)
 岸田綾子(--インタビューワー--フォトジャーナリスト--「HIV取材手記」--シャンティーリハビリティーションセンターに入所した当時暗い顔をしていた女性リマルナが今こんなに笑顔になっているのに驚いた--シャンティーさんは「ここにいる娘たちに必要なものはは愛と平安なのよ、来たばかりのころは自分は娼婦だった。HIVにも感染して生きている意味がない。もうどうなってもかまわないと自暴自棄になっている娘がほとんどなの。それを新しい人生を生きるぞという前向きな気持ちに変えることができるのはイエスキリストの愛だけよ。心の傷をいやすのに二~三ヶ月じゃ無理ね。安定した前向きの気持ちと、栄養のある食事があればHIV感染者でもリマルナみたいに十二年も生きることができるのよ。--”進んだ薬品は使っていない”--」--岸田さんは毎日行われる夕拝に出席してみて謎が解けた--「彼女たちの祈りは一語一語魂からこぼれ出るような、口から離れてしまった言葉を惜しむような深奥からの静かな叫びに聞こえた。”どうかイエス様いつも私と一緒にいてください。”普段私が口にする祈りと言葉は変わらないのに、小さくつぶやくその声の真摯な響きは胸にしみた。一人一人の祈りを聞きながら私の中に確信とも呼べるひらめきがあった。彼女たちはイエスキリストに出会ったのだ。祈りはイエスキリストとつながる道である。彼女たちは自分たちの中に確かに実在する大切な人と会話する大事なひと時なのだ。祈りによって強くされた人達がここにいる。」--)

2001/12/30 「驚きの証言」 ルカ 2:41〜52  (MP3)   
イエスの少年時代(--ルカによる福音書だけが扱っている--聖書の記事は物語そのものに大事な意味が含まれている--イエスの十字架と復活の意味を込めている--過越祭にイエスは十字架にかかった--ルカはエルサレムでの出来事は神の救いが完成される場所だと信じた--十二歳にも意味があるのではないか”たとえば十二使徒”--イエスがいなくなって”死を表すのでは”三日後”復活の意味”に探しに来たら会うことができた--イエスを探しに行くと必ず出会うことができた--) 私たちの生き方(--マリアは驚きこのことをすべて心に収めていた”しっかり忘れないで心にとめていた。何かがこのことの背後にあるぞということを予感していた--マリヤはこの答えを復活のイエスに出会って初めて分かったのではないか--マリアは普通のお母さん”なぜこんなことをしてくれたのですかお父さんも私も心配して探していたよ”--びっくりしたが何かがあるのだという思い”見えることの背後にあるものを信じる”が大事--結論をつけない”たとえば運命だと思ってあきらめましょう”--) 神は私たちに働きかけ必ず何か意味のあることをしておられる(--驚いたことも心に収めて、きっと何かがあるだろうという希望を失わない--) 小塩節先生の奥様の話(信徒の友--イギリスでの生活--空中にミルクが流れ出したような霧の十一月、来る日も来る日も曇天で暗い--「ゆきのはな」スノードロップ” テッド ヒューズの詩”を読んだ”--その花は荒々しく押さえつけられて首を折っているのか凍てついた星空の下で白い花は金属のように重いという。--可憐なスノードロップの強さを今は好ましく思いこの日は忘れがたいものとなった--) 花を見てどのように感じるか(--生命力を感じこの花の後に咲く花を感じる”希望を感じる”--)  
                                                                                                
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