2001/09/02 「忍耐の根拠」 ローマ 8:18〜25  (MP3)   
主題(忍耐) マルチンルーサーキング牧師(--真夜中というのは信仰的であることが難しい混乱の時である。教会が語ることの出来るもっとも激励的な言葉は”どんな真夜中でも長く続くものではない”ということだ--バスボイコット運動の時アメリカの最高裁判所は黒人席差別は憲法違反と裁断した--これを知ったキング牧師は”我々の最も暗い時は初めての勝利の時となった”と語った--夜明けは必ず来るものである--暗い夜を突き進むことができる--) パウロ(--現在の苦しみは将来私たちに表わされるはずの栄光に比べると取るに足りないと私は思います--見えないものを信じて待つ--) 忍耐の根拠は希望にある(--根拠は私たちをお作りになった神にある--私たちの判断には限界があることを知るならば神は私たちに最も良いことをお示しになってくださる--神の国の完成が現在の苦しみを耐えさせる--) 被造物が呻いている(--栄光を待ち望んでいる--どんな絶望的な背後にも神が必ずいる--だから希望がある--)

2001/09/09 「絶望が希望へ」 コリント1 15:35〜52  (MP3)   
主題(究極の希望”よみがえり”) 良寛(災難に逢う時節には、災難に逢うがよく候。 死ぬ時節には、死ぬがよく候。 是ハこれ災難をのがるる妙法にて候--裏を見せ表を見せて散るもみじかな--形見とて 何か残さん 春は花夏ほととぎす 秋はもみぢ葉.) 生死の超越(全てを捨てて生きる人にとっては良寛さんのような生き方ができるが私たちにはなかなかできることではない) 復活(--墓が空になっていた--すべての人が天上の体になる”パウロ--コリント1 15章”) 持ち物をすべて売り払って買い取る命 薄田昇司祭(イエズス会司祭--大阪・釜ヶ崎のイエズス会社会司牧センター・旅路の里で働きました--) 旅路の里(--自分が死んでも家の墓には葬ってもらえない一人ぽっちのAさんの話--このまま死んだらどうなるのだろうと思うと怖くて酒に逃げ込んでいた--聖書を読んでいるとき”墓が空だった”というところを読む--どの墓も空になってしまう--みんなキリストの復活によって神の御許に帰るのだ--墓があろうとなかろうと結局墓は空になる--絶望が希望に変わる--) 根本的に気がかりなことを乗り越える(--良寛さんのような境地になれる--)

2001/09/16 「一致の危険」 コリント1 1:10〜17  (MP3)   
一致と同一は違う(一人一人は、神の前に頭を上げることの出来ない罪人である、という点において共通している、という事。第二に、どんな違いがあっても教会のかしらであるイエス・キリストに呼ばれた者として共通している--教会の公同性を強調する努力において、ともすると。われわれはその一致への分別を見失ってしまっているのかもしれない。しかし、われわれが追求すべき一致(unity)は、画一性(uniformity)ではなく、共通の信仰、共通の使命の上に立った多様性に富む表現方法を有する一致である。「現代の宣教と伝道」新教出版社、八四頁--一方通行のメッセージで、単純に問題は解決され、教会の中にいれば、自動的にいつも光の中にいて、万事うまくいく、という安直さがある、ということです。そして、教会の外にいる人は、いつも暗闇の中にいる。そんな簡単なことではありません--私も時々、大きな礼拝に参加していて、大きな歌声を聞いたり、大きな聖餐式で、一致しているんだなあ、と感激することがあります。ムードで一致を味わう、ということではなくて、礼拝において、キリストに赦され、キリストに召され、キリストによって遣わされていることを確かめ合うことが大切なことです--仲間内で、自分たちの教会は、いい教会だよね、と言っているのでは、仲良しクラブになっているだけで、宣教の教会とは言えません。仲良しクラブは、その存在そのものが、新しい人を排除しています--) 神様が、ただ、あなたは、そのままでいいんですよ、と言っておられるのではなくて、あなたが今、人に仕えようとしている、そこで失敗したり、落ち込んだりする、その姿を神様が、いいよ、と言って下さっている 戸出伝道所教会(--在日韓国人--この教会は、その宣教目標を「戦責告白の実質化」として宣教を続けて来ました--) 善は必ず勝つ(--アメリカは、常に正義に立っている、という思い上がりがあります--) ミシエル・クオスト(「神に聴くすべを知っているなら」--永遠の昔から わたしはきみを選んでいたのだ、わたしには きみが要るのだ--)詳しくはここをご覧ください。

「分類キーワード(信仰)」

2001/09/23 「憐れみの連鎖」 ヤコブ 2:8〜13  (MP3)   
囲碁棋士が子どもたちを指導(--子どもたちから大事なことを習っている--思いやりとは”喜ぶ人を見てその喜びを自分の喜びとする”自分が低い位置に立っていないとできない--) ヤコブの手紙(--ルターは”藁の書簡といった”--隣人を自分のように愛しなさい--) 神が憐れむ(--同情してというばかりではなく恵んでという意味も含まれている--) 小塩節(「人の望みの喜びを」--若い時経済的に苦しむ--友人が援助してくれた--その友人にあなたの好意は決して忘れないといったら”それならその金をあなたの友人で困った人に返してもらおう”と言った--私は二度とその友人に”ありがとう”とは言わなかった--私にとっては返しきれない借金であった--友情の負い目として一生負いつづけてゆくだろう--) 私たちが無制限に許されている罪の赦しを覚えないで人の小さな罪を許せない人の話が聖書にあります(--私たちが許されているということを意識しないと傲慢になる--) 私たちは神様から人を憐れみなさいという委託を受けている(--許された負債を人に返してゆきなさい--”憐みの連鎖”に招かれている--) 関茂先生の祈り(--神様いろいろいただいていてありがとうございます--それでもまだつかわないでいるもの--まだ私の中で眠っているもの--人の為にももったいないほど使われていないもの--喜んでおおらかに用いることを--惜しんだり羨んだりせずにお互い出し合い--今時分の手の中にあるものそれを差し出すことが出来ます--神様ありがとうございます--)

2001/09/30 「誰に従っているか」 エフェソ 5:1〜5  (MP3)   
主題(新しい戒め) 妬む神(--神のニュアンスを伝える大事な言葉--焼きもちを焼く神”それほどあなたを愛している”--自分を捨ててまで私を愛する神--) 塩谷直也牧師(「迷っているけど着くはずだ」--「焼きもちに身をゆだねる」--夫”もし私が浮気したら”という質問に対し”神様の決めたこととして受け入れます仕方ありません”と冷静に答える妻--妬むほどの愛情がない--妬まれるのはうっとうしい、しかしだ、だれからも焼きもちを焼かれない、怒られもしない私って一体何なのだろうと思う--神の愛はその人を独占するまであきらめない。私だけを見てと髪振り乱してすがりつく。九十九匹の羊を残し、一匹の羊としてのあなたをどこまでも追いかける--何度も愛を確認する。聞かれるほうが悲しくなるまで、混乱するまで問い詰める。そこまで自分を捨てて愛してくれる人がいるのだろうか?。愛していると言いながら最後には自分の体裁を気にする人間の世で、妬みを隠そうとする仮面の世界で、死を超えて私のことを好いてくれるかと何度も聞いてくれる方がいるのだろうか。聖書はそんな方がいるという。イエスである。この方の焼きもちに身をゆだねるときイエスとの修羅場を経て私たちも信仰に招かれるのかもしれない--キリスト教信仰とは恥も外聞がなくイエスとの恋愛関係に入ることなのだ--) 誰に従うのか(--プライドを立てることを第一にするのか--自分が傷つかないように自分を守るのか--神に従うか--中途半端なことをしていたら本当の恵みと喜びにあずかれない--)


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