2001/08/05 「神との新しい関係」 コリント2 5:14〜6:2  (MP3)   
主題(神の憐みの福音 神と新しい関係を結ぶようになった) 本田哲郎神父訳(コリント人への第二の手紙5章14節から6章2節 ”キリストを大切にしたいという思いが私たちをとらえて離さないのです。私たちはこう判断しています。全ての人の為に一人の人が死んでくれたということは全ての人が死んだということです。また全ての人の為に死んだのですから現に生きている人たちも、もはや自分で生きているのではなく、自分たちのために死んでかつ身を起こされた方のおかげで生きているということです。ですから今後私たちは感覚的な側面で人を推し量るようなことはしません。かつて感覚的な側面でキリストを理解したとしても今はもうそういう理解の仕方はしません。--キリストと一体となった人は新しく作られた存在です。先にあったものは過ぎ去りまさに新しいものが生じたのです。--和解の介添えの役を私たちに与えられた方です--人々の犯した過ちを問題にすることなく和解させる任務を私たちにゆだねられたのです。--私たちは神が促されるままにキリストの代理を務めています。キリストに代わってお願いします。神と和解してください--神の正義を身に帯びるものとなっています--神の行為を無駄にしないようにしてください--今日こそ救いの日です--”) 神は全ての人と和解してくださっているのだからこちら側で条件を付ける必要はない 八木重吉(「みんなキリストのほうを向いている」--世界中が彼に向かって掌を合わせている--全てはキリストのほうへ流れ込んでいる--「落ち込んだ時の詩」--長い間体が悪くうつむいて歩いてきたら、夕陽に包まれた一つの小石が転がっていた--)

2001/08/12 「神が呼んでいる」 使徒言行録 9:26〜31  (MP3)   
主題(宣教への派遣) 森野善右衛門(「大いなるバビロンが倒れた」、新教新書二三六、五六頁--「世にある教会は、全体として、聖霊を受けて世に派遣される教会であり、伝道する教会であります。閉じられた戸は、世界に向かって大きく開かれなければなりません。世から隔絶して、その戸に鍵をかけ、自分たちだけの内輪の楽しみにふける教会は、キリストの教会ではなく、ペンテコステの教会ではありません。それはペンテコステ以前の、キリストの復活に出会う以前の弟子たちの姿でした。キリストの教会は、もはやペンテコステ以前に戻ることはできません。派遣の主はキリストであり、そこで弟子(ディサイプル)は使徒(アポストロス)に、すなわち「つかわされる人」になるのです。) 私たちも「弟子」(ディサイプル)から「使徒」(アポストロス)となることが求められています 伝道(一部の人たちがしているように、個別訪問をするとか、キリストを信じなさい、と説得することだと考えてはなりません--それは、私たちの存在そのものが宣教なのだ、ということです--言葉や行動で、どれだけ伝道しても、私たちの存在そのものがキリストを示していなければ、宣教になりません。逆に、私たちが語っても語らなくても、行っても行わなくても私たちの存在が変えられていれば、そのことが宣教になります--つまり、病気で何も出来ない人が宣教することもあり得ます) みんなイエスさまに「これと思われた」人なのだ(私たちには、あの人がどうしてイエスさまに「これと思われた」のか分からない、という場合、そのように見えたのは、自分たちの目が狂っている、と受け止めなければいけません。イエスさまが、とにかく「これと思われた」のだ、と考え方を変えなければなりません) 、挫折の時、行きつまりの時、誘惑の時こそ、宣教の時なのです ミシエル・クオスト「神に聴くすべを知っているなら」、日本基督教団出版局、二二八、二二九頁--さあ、おそれないで手をお出しどろ沼があれば、おんぶして運んであげよう だから、きみは小さく小さくなりなさい 小さな子だけが、父におんぶしてもらえるんだから。) (詳しくはここをご覧ください)

「分類キーワード(伝道)」

2001/08/19 「苦しみを避けない」 使徒言行録 20:17〜35  (MP3)   
主題(苦難の共同体”教会は苦難を避けてはならない”) 教会は一致団結してというスローガンを掲げると、それを乱す人は悪魔の手先と見做されてしまいます(--神は私たちの好みを超えたあらゆる種類の人を送り込んでくださいます--全員が一致しているのだとはなりません”それが本来の教会の姿です”--教会の頭はキリストです”この頭がお招きになったのです”--神が直接導く共同体”苦難を避けない共同体”--) 阿波根 昌鴻(--あはごん しょうこう--は、日本の平和運動家。戦後の沖縄県で米軍強制土地接収に反対する反基地運動を主導した。--クリスチャン--以下、榎本恵牧師著『負けて勝つとは』の中より抜粋--阿波根さんが貫いた心理とは一体何なのだろうか--コリント前書13章を実践した” 愛は寛容であり、愛は情深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。愛は寛容であり情け深い--”--愛が原動力--) 愛(--人生の目標--私はこのように生きているか--いつも自分に問いかけていく--この姿勢が苦難を避けない原動力--)

2001/08/26 「信仰告白的血縁」 コロサイ 3:18〜4:1  (MP3)   
主題(家族) 家族の中の一人がキリストの枝とされているならば(--私たち家族の主である--主が私を通して何をしようとしているのかを知る--先に召されたものは家族に使えるということを忘れてはならない--駄目な私が先に召された--家族に使えるために修行している--家族のために祈る--) フィリップ・ヤンシー(クリスチャン作家--一歳に満たないころ父が全身がマヒする脊髄性小児麻痺で亡くなる--そのころに写した自分の写真を母が大事そうに持っていた--父は病床の中、ベッドの近くにその写真を張り付け、眺めながら祈っていた--ある意味で会ったこともない人が自分のことで心配していると想像するのは奇妙な感じだった。父は人生最後の何か月かの間目覚めているときは家族の姿を見つめて過ごした。--父は一日中何をしていたのだろう。私たちのために祈ってくれたのだろうか--私たちを愛していただろうか--体の麻痺した人間がどうやって愛を表現できるだろう--何の記憶もなく触れたことのない人が来る日も来る日も私のことを思い。すべてをささげて愛してくれた誰かがいる--父とともに私のために祈っているキリストがいる--全てをささげて愛してくれた誰かがいる。--あまりにも斬新で圧倒される感覚であったのでそれには自分の人生をかける価値が十分にあると思ったのである--) 塩谷直也牧師(「迷っているけど着くはずだ」--”あなたは本当に祈られた人ですね”と言われた--私は祈っていないのにと思った--後になって”祈られた”というのは””自分の背後にみんなの祈りがあったという受け身の言葉だということに気づいた--急に恥ずかしくなった--人が私のために祈っているということを自分で否定することができるか--他の人が私のためにイエスキリストが祈ってくださっているということが分かるということはすごいことだ--) ペテロに対するイエスの祈り(--信仰が無くならないようにあなたのために祈った--あなたは立ち直ったら兄弟たちを力づけてやりなさい--)


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